[携帯Top] [文字サイズ]
■春零(20)
[*
前p 0
目次 #
次p]
母は買物に出ている。
青葉は紀子たちに
「少し出掛けてくる。君たちは休んでていいよ」
と言い、緩菜にも
「ちょっとお姉ちゃんたち出掛けてくるからお留守番お願い」
と声を掛けてから、桃香と一緒に庭に出る。
緩菜は肉体的には3歳10ヶ月でも中身はおとななので、お留守番は全く問題無い。どうしてもおとなが必要な事態があったらスタジオに居る容子たちに頼るだろう。
青葉がマーチニスモをアンロックすると、運転席に桃香が乗ろうとしたので
「待って。私が運転する」
と青葉は言った。
「妊娠してるのに車の運転とか大丈夫か?」
「大丈夫。そのくらい平気」
桃姉が運転したら、どこかにぶつけられて私流産しちゃう!へたすれば病院じゃなくて天国に行っちゃう!
それで青葉が運転席に乗り、桃香が助手席に乗る。
「どこの病院に行けばいいんだっけ?」
「カーナビで最寄りの産婦人科を調べればいい」
「それでいいの〜?」
「どうせどこがいいかなんて知らないし」
「確かに」
取り敢えず妊娠の診断だけならどこでもいいかと思った。それで本当にカーナビで検索して車で10分ほどの所にあるQレディスクリニックという所に行ってみることにした。
コロナの折、病院はどこも予約が必要である。
桃香が電話を掛けてくれて妊娠したようなので受診したいというと、今ならOKというのですぐ車でそちらに行く。病院の駐車場に駐めたまま電話すると看護師さんが出て来て、まずはコロナの検査を青葉だけでなく付き添いの桃香もされる。検査を待つ間に問診票を書く。
名前・生年月日・結婚歴などを書くが、性別の記入欄が無いんだな〜と思った。まあ男が産婦人科を受診することは普通あるまい(*37).
結婚歴については「未婚」に丸を付けた上で、婚約中と書き添えた。
「妊娠の疑い」に丸を付けてから、市販検査薬使用、7月11日と記入して陽性に丸を付ける。
「出産について」では「出産希望/未定/中絶希望」の選択肢がある。中絶なんて考えられないから「出産希望」を選択したが、そこに丸を付けた瞬間、私、赤ちゃん産むのかと思い、軽いショックのようなものを覚えた。
(昔の産婦人科の問診票にはこの項目が無かった。1990年代頃から一部の病院の問診票に「出産希望か中絶希望か」という選択肢が設定されるようになり、その後そういう病院が増えた)
「不妊治療を受けましたか」は「いいえ」。
「当病院での分娩を希望しますか」は「未定」を選んだ。
「月経について」は初潮は10歳と書いておいた、実際股間から最初の出血があったのは、小学4年生の3学期最後の授業の日であった。あれが生理な訳無いけどとは思う。だって当時は卵巣や子宮は無かったはずだし!?(*36) 定期的に出血があるようになったのは、実は2011年、両親・祖父母・姉の葬儀をした時に瞬嶽師匠に“何か”されて以来。
そして、2019年、ちー姉(1番)の暴走で勝手に性転換された時に卵巣ができている。だから本当の初潮は2019.7のはずだが、初潮は22歳の時なんて書いたら絶対変に思われる。
月経は順調に来ますかは「はい」で28日周期と記載する。(*39)
前回の生理は6月8日と書いた。
今までに妊娠したことはありますかは「いいえ」。
今までに性交したことはありますかは「はい」である!
性交せずに妊娠したら凄いぞ。あ、性交未経験のまま人工授精したらあり得るかもしれないけど(*38).
今までの病気手術歴は面倒なので「無し」にしておいた。性転換手術を受けたなんて書いたら「あんたふざけないで。帰って」と言われそうだし!
1年以内に子宮癌検診を受けましたか:いいえ
アレルギー:無し
アルコールを飲みますか?:月に1〜2度
たばこを吸いますか?:いいえ
(*36) 青葉は小学1年生の冬に、出羽の美鳳の手により卵巣・卵管・子宮・膣といった女性器一式を体内に埋め込まれている。この時青葉は「女の素」を注入された夢を見た。だから4年生最後の授業の時の出血は本当に初潮だった。ただ青葉は当時親の養育放棄により栄養不足だったため、震災後伏木に来て食生活が安定するまで、生理も不安定だった。
(*37) 産婦人科の医師が書いたエッセイで、ズボンのファスナーにちんちんの皮がはさまってしまったのを取ってほしいと男性のクライアントが来たことがあるという話が書かれていた。通常は泌尿器科か、近くに無ければ外科ではないかと思う。なぜ産婦人科に来たのかが謎である。
この事故は“カムチャッカ半島”と言うらしい!?ケーシー高峰さんの命名である。
それで、ズボンを切りますか?ちんちんを切りますか?ちんちんを根元から切ると2度と引っかかることは無いですよ?
(*38) 性交はしたくないけど赤ちゃんは欲しいという女性がこういう選択をするのは、そう珍しいことではない。桃香の子供早月、季里子の子供来紗と伊鈴はいづれも子供の父親とはセックスしないまま人工授精で妊娠して出産したものである。実は京平もそれに近い。貴司と阿倍子は1度も性交してない。ただしあれは本当に妊娠したのは千里である。
青葉と桃香が駐車場に駐めたマーチニスモの中で待っていると
「コロナは陰性でした。患者さんだけお入りください」
と電話で言われる。コロナの折、厳しいよなと思う。
「おしっこを取って来て下さい」
と言われて紙コップを渡されるのでトイレで取ってきて提出する。
「車でお待ちください」
と言われるので車に戻る。そして10分くらいしてから電話で呼び出されるので、今度は桃香と一緒に病院内に入り、診察室に入る。
「妊娠してます」
と医師は明快に言った。
「予定日はいつですか?」
「最終月経が6月8日ということですので、280日後の3月15日ですね」(*39)
ああ、だったら短水路選手権だけでなく4月の日本選手権も無理だろうな、と青葉は思った。ジャパンオープンは微妙か。2023年の社会人選手権か短水路選手権あたりで復帰かなあ、などと青葉は考えていた。
(*39) 月経周期の日数は予定日の計算に影響を与える。最終月経が6月8日で月経周期が28日なら、予定日は6月8日の280日後で3月15日である。これは実は正確には推定排卵日である6月22日(6月8日+14日)の266日後である。
しかし例えば月経周期30日の人は、月経から16日経って排卵が発生し、その14日後に月経が来ると考えるので、6月8日が最終月経なら排卵日はその16日後の6月24日と考えられ、その266日後の3月17日が予定日になる。
(最終月経の300日後ではない!)
「未婚で婚約中ということですが、そちらが婚約者さんですか?」
と医師は尋ねた。
ん?
「あ、いえ、こちらは私の姉です。私の婚約者は現在埼玉県に住んでいるので」
「ああ、そちらは“お兄さん”ですか」
青葉は噴き出しそうになったが、こらえた。桃香は男と思われるのは慣れっこなのでこの程度気にしない。
しかし桃姉は自分より年上に見えるんだなあと青葉は思った。ちー姉と長幼を間違えられるのは、やはりちー姉が凄く若く見えるからだろう。
「では遠距離恋愛ですか」
「そんなものです」
「出産までに結婚なさいます?」
「結婚してくれると思います」
「すると出産も埼玉の方になるのかな」
「そのあたりも含めて話し合ってみます」
「うん。それがいいですね」
青葉が特に悩んだり暗い顔をしたりしてないので、医師も特に問題は無いのだろうと判断したようである。笑顔であった。それで妊娠診断書を書いてもらった。
病院を出る。
「でも桃姉に付いてきてもらって良かった。私、ひとりでは不安だった」
「まあ妊娠は結局はひとりでの戦いだけど、青葉には応援してくれる人はたくさんいるから困ったことがあったら何でも相談しなさい」
「うん」
「私はお金のことは支援できないけど。その時は千里を頼るといい」
「そうするかも」
それで桃香と一緒に保健所に行き、妊娠診断書とマイナンバーカードを提示して母子手帳を発行してもらった。まだ入籍前なので苗字は鉛筆で書いてほしいと桃香が言うと、そういう対応をしてくれた。
青葉は母子手帳をもらったことで、ほんとに私、赤ちゃん産むのかと再認識して、責任感を感じた。
保健所を出てから青葉は言った。
「苗字だけ鉛筆書きということができるんだ!」
「最近は結婚前に妊娠しちゃうケース多いからな。自治体によっては結婚相手の苗字を最初から書いてくれるところもある」
「へー!」
「でも本当にその相手と結婚するかどうかは分からんよな」
「確かに!」
「妊娠した後で別れて他の男と結婚してから出産したケースを知ってる」
「それ法的な父親はどうなるの?」
「結婚した相手が特に何も言わない限りその男の子供ということになると思う。結婚したことで事実上認知したことになる」
「いいんだっけ」
「妊娠している女と結婚するというのは、その子供を自分が引き受けるということだよ」
「凄く優しい人だね」
「うん。優しい男だと思うよ」
あ、そうか。大林亮平さんもそのケースだと青葉は思い至った。あの人、ほんとに優しい人だもんね。他の男の種で妊娠した女性を妻にした一方で本当に自分の種で妊娠したマリさんの子供もちゃんと認知して養育費を毎月送金しているから、あの人は本当に偉い。
と考えてから、青葉はマリさんの今の彼氏(百道大輔)のことを考えると憂鬱になった。彼は明らかに“クスリ”をやっている。でもマリさん、彼の赤ちゃん産むし、出産までには最低でも籍は入れるのだろうか。1人目も2人目も父親が結婚できない相手だったけど、今度は男性だし独身だし、法的に婚姻することが可能だ(*40)。ローズ+リリーも実質活動終了になるのかなあ、などと青葉は考えた。
やはりケイさんが最近機嫌悪いのはそのあたりかな(←何度も千里に出し抜かれたせいだと思う)。
でも青葉自身のことは棚に上げて、ケイさんこそ、歌手・作曲家・芸能事務所会長という3足のわらじはもう限界に達してたと思う。
(*40) マリの第一子あやめの父はケイ。相手が女性だから結婚できない。第二子大輝の父は大林亮平。他の女性(原野妃登美)と結婚しているからマリは結婚できない。百道大輔は青島リンナと結婚して子供(夏絵)も作ったが既に離婚しているので法的な婚姻が可能。
なお、夏絵は大輔がCOVID-19に罹ったのを機に、マリの実家に退避し、その後、あやめと仲良くなったこともあり、そのまま居座っている。大輔の母も「うちは大輔も兄も煙草吸うし2人の生活時間が不規則で環境が良くないからしばらくお願いします」と言っている。大輔の母としては“新しいお母さんに慣れさせる”意味合いもあった。現在恵比寿のマンションではケイが1人で暮らしている。
青葉と桃香が帰宅すると買い物に出掛けていた朋子が戻っていた。
「どこか出掛けてきたの?」
「産婦人科」
と桃香が答える。
「何かあったの?」
「青葉が妊娠した」
「嘘!?あんた妊娠できるんだっけ?」
「できるけど」
「なんでそうなってんの〜?」
「説明すると長くなる。これ母子手帳、こちら妊娠診断書」
「嘘みたい。彪志君と結婚して産むんだよね?」
「そのつもりだけど、彪志は仕事中だし、夜電話するよ」
「お刺し身買ってこよう」
と言って、母はまた出掛けて行った。
「あ、彪志?私妊娠したぁ」
と青葉は夜になってから彪志に電話して明ーるく言った。
「え〜〜〜!?」
「この後のこと話し合いたいから今週末くらいにこちらに来れない?」
「行く!」
それで彪志は7月16-17日に伏木に来てくれることになった。青葉は熊谷から往復の飛行機を手配した。
青葉は〒〒テレビの石崎部長に連絡して、妊娠したこと、〒〒スイミングクラブは出産後1〜2ヶ月後まで休部にさせてほしいと申し入れた。
「ああ、妊娠ですか」
「すみません。避妊失敗したみたいで」
「結婚するんでしょ?」
「彼とは今週末に話し合う予定ですが、結婚することになると思います」
「じゃ何も問題無いですよ。結婚した女性の妊娠は普通です。ただできるだけ早く婚姻届けだけでも出しましょう」
「話し合います!」
「水泳のほうは出産まで休部ということでいいですね」
「済みません。これ水連の方にも届けとか出さないといけないですかね」
「それは少し待って。僕がタイミングを見計らうから」
「はい、分かりました」
青葉はアナウンサー室の砂原室長にも電話をして妊娠したので、出産予定日の2〜3ヶ月前になったら産休が欲しいと申し入れた。
「いつ結婚したんだったっけ?」
「まだです。順序が後先になって済みません」
「ああ。まあよくあることだよね」
と室長は笑っていた。
青葉はまた妊娠したことの公表については、あちこちと調整が必要なので待って欲しいと言い、了承を得た。
「そのあたりは漆野部長と直接話してもらったほうが多分いい」
「はい。部長に連絡します」
それで青葉は漆野部長に連絡して、妊娠したので出産前後は『ミュージシャン・ファイル』を休ませてもらえないかと申し入れたのだが・・・
「ああ、赤ちゃんできたの?おめでとう。でもミュージシャンファイルは録画だから、出産間近になる前に撮り貯めしておけばいいよ」
と言われた。
あはははは。それって益々忙しくなるのでは?
妊娠の公表については調整が必要なのでまだ待ってほしいと言うと
「それは石崎さんと僕で直接話そう」
と言ってくれた。
正直、そのほうがこちらは助かる。
青葉は幸花に電話して、妊娠したので出産まで『霊界探訪』を休ませてほしいと申し入れた。
「あ?妊娠した?」
「はい」
「よし、金沢ドイルの妊娠日記を取材に行こう」
「え〜〜〜!?」
それで早速幸花・真珠・明恵が飛んできて、妊娠2ヶ月目のお腹の映像(普通の女性のお腹である)、そしてもらった母子手帳を撮影した。
「でも番組自体は出産までお休みということで」
「ドイルさんには安楽椅子探偵になってもらえばいいな」
「は?」
「霊的事件が起きたら、金沢セイル(明恵のこと)と金沢パール(真珠のこと)が現場に急行して詳細なレポをする。ドイルさんはその報告を元に安楽椅子に座ったまま事件を解決する」
「あはは」
「今はスマホがあるから、昔の“隅の老人”(*41) とかミス・マープルとかよりダイレクトな情報が取れるよ」
と幸花は言っていた。
(*41) “隅の老人”(The Old Man in the Corner) はオルツィ女男爵 (Baroness Orczy/ Emmuska Magdalena Rosalia Maria Josefa Barbara Orczy Barstow, 1865-1947) の小説に登場する探偵で、安楽椅子探偵の先駆けと言われる。
名前などは言及されない。“ABCショップ”の隅の席に座り、女性新聞記者ポリー・バートン(Polly Burton) を相手に事件の推理を語る。但し彼はその推理を裏付ける証拠を集めに行ったりして結構行動的であり、後年の“安楽椅子探偵”のステレオタイプからは外れる。
高木彬光はこれをもじって墨野隴人という探偵を登場させ『黄金の鍵』、『一二三死』、『大東京四谷怪談』など一連の墨野隴人シリーズを書いた。
辻真先の「味子シリーズ」に出てくる永坂進吾などが典型的な安楽椅子探偵である。彼は身体が不自由で出歩けないので恋人の味子を通して事件を解決する。
[*
前p 0
目次 #
次p]
春零(20)