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■春紅(29)

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(C) Eriko Kawaguchi 2021-07-03
 
青葉の参加する競技は9日で終わったのだが、日本選手権自体は10日まで行われる。10日は青葉は競技が無かったので、1日中、浦和の自宅で泳いでいようと思った。ところが朝9時頃、スマホに着信がある。
 
「こちらはJOCの医学部会の鐘本晴奈と申します。川上青葉さんですか?」
「はい、そうです」
「選手所在アプリでは、現在さいたま市内におられることになっていますが、そこにおられますか?」
 
トップアスリートは“抜き打ちドーピング検査”に応じられるよう、常に自分の所在地を報告しておく義務がある。それで移動したら即アプリのボタンを押すようにしている。青葉は昨年も2度勤務中にいきなり検査を受けさせられた(ほぼ全裸にされるので、恥ずかしい下着は着けてられない!)。
 
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「はい。姉の村山千里の家に滞在しています」
「半日ほどお時間を頂きたいのですが、そちらに行ってよろしいですか」
「はい、どうぞ」
 
それで青葉はプールから上がり、服を着て1階で待機する。山本さんは電話の20分ほど後に来た。恐らくは所在アプリの位置を頼りに、近くまで来ていたのだろう。どこかに呼び出すのではなく向こうからこちらの居る場所に来るというのは、本人確認の基本だ。それもあまり時間に余裕を持たせずに。
 
「JOCの鐘本です」
と言って写真入りのIDカードを見せてくれる。
 
「身分証明書の類をお持ちですか?」
「えっと、こちらが水連の登録カード、こちらは勤め先の〒〒テレビの社員証、こちらは運転免許証ですが」
 
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「ご本人のようですね。申し訳ありませんが、身体検査を受けて頂きたいのです」
「いいですよ」
 

ドーピング検査ではないのか。何の検査だうろう?と思いながら、鐘本さんの車で移動する。車にはもうひとり吉本さんという女性も乗っていた。その人もIDカードを見せてくれた。着いた所は都内の大学病院である。カルテを渡され、この順番に検査を受けて下さいと言われた。
 
でも鐘本さんと吉本さんも付いてくる!
 
まずは熱を測られる。コロナの折、発熱があると別の検査に回されることになる。採血される。それから血圧や心拍数・酸素量なども測られた。
 
トイレに行きたいとと言ったらトイレの中まで2人が付いてくる!
 
MRIに掛けられる。
 
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夜中からずっと泳いでいたこともあり、青葉は眠ってしまったが、それは多分問題無い。
 
それから婦人科に行く。鐘本さんたち2人も一緒に付いてくる。
 
このあたりで青葉も“身体検査”の意味が分かった。きっと私が日本記録まで出して上位に入ったので、代表選手発表の前に、念のため“本当に女か”を確認するのだろう。
 
内診台に乗せられる!
 
もうこの検査も過去に何度もやられたので、恥ずかしさは忘れて検査されていた。クスコも入れられたが、昨夜セックスしてなくて良かった!と思った。もっとも彪志とはする時は必ず避妊具をつけてもらっているので、していても精液が残っていたりすることはないはず。
 

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内診をしながら、医師は何だか首をひねっている。
 
内診台を起こす。いったん診察室から出る。5分ほどの後、鐘本さんが呼ばれる。吉本さんを青葉のそばに残したまま、鐘本さんが診察室に入る。10分ほどで出てくる。
 
鐘本さんが言った。
「ちょっと水連まで来て下さい」
「はい」
 
青葉はその前にトイレに行かせてもらったが、やはり2人は付いてきた。要するに、私が誰か似た女子と入れ替わったりすることが無いように、常にどちらかは付いているようにしているのだろう。2人いるのは、片方がトイレに行ったりする時のためだ。
 
鐘本さんの車で、JSOS(Japan Sport Olympic Square)内にある水連事務局に連れて行かれる。
 
会議室に3人で入る。
 
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「ちょっとお話ししたいのですが」
「はい」
 
「川上青葉さん、ご本人ですか?」
「はい、そうです」
「生年月日は?」
「1997年5月22日です」
「平成何年ですか?」
「平成なら9年です」
「生まれ年の干支(えと)は?」
「丑年です」
「本籍は?」
「現在の本籍は富山県高岡市に置いています。生まれは埼玉県大宮市、現在はさいたま市の大宮区で、その後、両親が岩手県大船渡市に移転したので本籍地もいったん大船渡市に移動しました。震災で両親を亡くした後、遠縁にあたる高園朋子に引き取られ、高園朋子の居住地である高岡市に本籍も移動しました」
と青葉はよどみなく答える。
 
鐘本さんはパソコンの端末を見ていたが、
 
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「間違い無くご本人のようですね。いや実はですね」
と言った。
 
「はい」
 
「大変失礼ながら、あなたは元男性であったのを性別再設定手術を受けて女性になったと記録されているのですが、あなたの身体を診察すると、卵巣・子宮もあり、内診させて頂いた感じでは、膣も天然の膣としか思えないということなので、本当にご本人なのかという疑惑が出て来たのですが」
 
青葉は説明する。
 
「私は生まれた時は確かに男の子と判定されました。それで出生届も男の子として届けられました。当時は確かに男性器があったのです。しかし女の子になりたいという思いが募り、2012年7月に、T大学医学部付属***クリニックで性別再設定手術を受けました」
 
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「それは何歳の時ですか?」
「15歳です。この年齢での手術は特例中の特例中の超特例だそうです」
「でしょうね!」
「14歳の時にアメリカの大きな病院で診察してもらい、15歳になったら手術してよいという許可を頂いたのですが、その許可証があったおかげでT大学の倫理委員会でも許可が下りたんですよ」
「なるほどー」
 
「それで私は15歳で女の子に生まれ変わることができて、20歳になるとすぐ特例法を使用して性別変更をしました」
「ええ」
「ところがですね。2019年の7月に、急に身体に変調が起きまして」
「はい」
「身体の調子がおかしい状態が半月ほど続いて、その内、女性器から出血があったので、びっくりして婦人科にかかったのですが」
「ええ」
「ただの生理で何も異常はないと言って、私、笑われちゃって」
「うーん・・・」
「そんな馬鹿なことはない。私は性転換者なので、生理があるわけないと言ったら、精密検査されて」
「うーん・・・・・」
「それで、あなたは間違い無く女性で卵巣も子宮もある。あなたが性転換者のわけがないと言われました」
「うむむ」
 
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「私が納得できないと言うので、結局紹介状を書いてもらって、S大学病院の朝倉季弘教授の診察を受けることになりました」
「朝倉先生ですか!」
 
「それで朝倉先生の診断では、私は特殊な半陰陽らしいです」
「ほほぉ」
 
「1970年代にアメリカで、性転換手術を受けた女性が妊娠したという報道があって、彼女の手術をしたジョンズ・ホプキンズ大学病院では、彼女が妊娠するというのは100%あり得ないという見解を発表したのですが、実際に彼女は出産してしまったんですよ」
 
「その話は聞いたことがある気がします」
 
「彼女も特殊な半陰陽で、性転換手術を受けた時点では女性的な特徴なんて、見当たらなかったのに、実は未発達の女性器が存在していて、それが身体が女性ホルモン優位になったことで発達しはじめ、妊娠可能になるまで発達してしまったものと考えられるということでした。私の事例も恐らく同様のケースだろうと朝倉先生の診断でした」
 
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「そういうことがあったんですか」
と言っているが、鐘本さんは半信半疑のようである。
 
「その件、水連には報告してますか?」
「**部長さんに連絡しましたが、完全な女性になったのなら何も問題無いとおっしゃいましたが」
「そういう記録は記録されてないんですが」
「**部長さんに尋ねて下さい」
 
それで鐘本さんは**部長に連絡する。すると**部長本人が、強化部長も伴って、この部屋にやってきた。
 
「川上さん、ごめんなさい。その件は確かに川上さんから聞いていたけど、性別に変化が生じたわけでもないから、特に報告の必要はないだろうと思いそのままにしていた。それで不愉快な思いをさせてごめんなさい」
と**部長は言った。
 
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「じゃ本当なんですね。でもこの件、IOCへの報告はどうしましょうか?」
と鐘本さんが悩むように言う。
 
「朝倉先生にもお話を聞いてきましょうか」
と**部長が言ったのだが、強化部長が言った。
 

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「そんな環境的話ばかりでは、ここにいる川上君が本人なのか替え玉なのかという結論は出ない。話は簡単だよ。ここにいる川上君に400mでもいいから泳がせてみればいい。ただし、水着に着替える間も女性のスタッフが付いてて別人とのすりかわりが不可能な状態でね」
 
「そうか!」
 
青葉もそれが単純明快だと同意したので、このメンツで一緒に、北区のJISS(国立スポーツ科学センター)に行き、鐘本さん・吉本さんが見ている前で青葉は水着に着替えた。水着は適当なものを提供してもらった。代金は強化部長さんが出していたけど多分水連かJOCの経費になる。
 
それで400mを泳いでと言われた。
 
タイムは 4:07.73 である。
 
派遣標準記録は超えてないもののOQTを越える記録である。これで泳げる人は今回の日本選手権で上位争いをした6人だけである。しかも青葉は何の準備もない状態でいきなり泳いでと言われて泳いでこの記録を出している。
 
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「性別診察を受けた人とオリンピック派遣記録を出した人が同一人物というのはこれで間違い無いね」
 
と強化部長さんも笑顔で言った。鐘本さんも納得している。
 
「済まなかったね。色々変なことを言う人もあるから」
「いえ。全然問題ありません」
「正式には夕方発表するけど、君は代表になるから、オリンピック頑張ってね」
「はい。頑張ります」
と青葉は強化部長さんに答え、エア握手をした。
 
でも強化部長さんの提案は、本当にスポーツマンらしい発想だよなと青葉は思った。彼は1984年ロス五輪に出場した元競泳選手である。
 
「やらせてみればいいじゃん」
という快刀乱麻的な解決策は、現実より資料を優先しがちなデスクワーカーには生まれにくい考え方である。
 
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これがもう15時くらいだった。
 
お腹空いた!!
 

日本選手権が終了して2時間後に東京オリンピックに参加する日本代表選手が発表された。女子長距離陣の代表はこのように発表された。
 
400IM 川上・金堂・南野
400m_ 南野・竹下・幡山
800m_ 幡山・川上・金堂
1500m 川上・竹下・幡山
 
結局3位までに入った人が全員代表になった。もっとも5人ともどれかの競技では2位以内に入っていた。今回、青葉とジャネは3種目、リル・金堂・南野は2種目に出場である。
 
今回は青葉は長距離のエースとなったが、次の世界水泳(2022.5福岡/2023ドーハ)やパリ五輪(2024.7)では竹下と金堂がエースになるんだろうなと青葉は思った。私は今回の東京オリンピックで引退するし。ジャネ(1993.08.28生→五輪時点で27歳)もそろそろ年齢的限界だろうし。それに南野・永井(青葉と同学年)がどこまで対抗していけるのか。
 
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リオ五輪ではパラリンピックのほうに出たジャネが今回はオリンピックの方に出ることになったというのは、"Footless swimmer goes to Olympic from Paralympic" などといって、世界的に報道されることになった。ジャネは外国人記者に取り囲まれて色々インタビューを受けていた。ジャネも本当に嬉しそうだった。
 
彼女の名前“ジャネ”があまり日本人っぽくないので
「Are you mixed?」
とダイレクトに質問した記者がいたが、ジャネは
 
「No, My parents are both Japanese」
と答えた上で
 
「My name comes from Janet Evans; My parents were both swimmers. and My birthday 28 August is same as Janet Evans」
 
と説明して記者たちが「Oh!」と言って納得していた。
 
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Janet Evans (1971.8.28-)は1988年のソウル五輪で400m, 400m-IM, 800m の三種目で金メダルを獲得したほか1500mの世界記録も保持していた。彼女が達成した800mの世界記録はその後、19年間も破られなかった。
 

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