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■春紅(7)

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その日、美映が夫のレヴォーグを運転して買物に出かけ、戻って来たら家の傍に見慣れないものが建ってる。
 
「あ、これが車庫か!」
と声をあげる。いったん降りてから、ボタンを押して前面のシャッターを上げる。内側の幅や奥行きなどを確認する。それで慎重に車を中に収めた。
 
ちゃんと車止め(夜光式反射板付き)まで設置されているので、後の壁にぶつけてしまう心配も無い。換気扇も付いているので夏はこれを掛けておけばあまり熱くなりすぎないようにもできるようだ。屋根には小型の太陽光パネルが1枚置いてあり、換気扇の分の電気はこれで起こすのかなと思った(他に車庫内の灯りと庭灯もこれで灯す。美映は気付かなかったが冬用のヒーターもあり実は既にこの日は作動していた)。
 
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「これイナバの物置かな?でも家の玄関からここまで屋根も作ってあるし、雨に濡れずに車と出入りできるのか。これイイネ!」
と美映は満足した。
 
「千里さんありがとね」
と東の方に向かって言ってから、美映は買物の荷物を家の中に運び入れた。
 

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その日、この業界で30年というベテランマネージャーのHは秋風コスモスとの秘密の対談を終えてから、上機嫌で自宅に向かった。
 
1年前、所属歌手の営業方針を巡って経営者と対立し、結局退職することになった。一応形の上では円満退職であり、慰労金ももらった。守秘義務を守る限り、他の事務所に移籍するのも構わないと言われた。
 
その後、1年間はこれまでずっと休みの無い生活をしていたので、身体を休めるとともに充電期間として使用した。そろそろ1年経つし、また活動したいなと思っていた(この業界では、退職後1年間は活動を自粛する習慣がある)
 
そして数日前、コスモスから接触があったのである。
 
彼女が社長を務める事務所は最近かなり規模を拡大している。タレントの数は数十人いるようで、その数だけならもう大手の事務所に肩を並べるかも知れない。多数のベテランマネージャーとも契約しているようだ。さすがにコスモスは名前だけの社長で実質会社を動かしているのは、業界の伝説的マネージャーであり、主任マネージャーの肩書きの玉雪梓紗あたりだろうとHは思っていた。またこの会社の活動資金は、恐らくレストラン・チェーンのムーランから出ているのではと想像していた。
 
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しかしHはコスモスと会ってみて驚いた。彼女がただのお飾りではないかも知れないと認識する。お馬鹿なアイドルをしていた時代と違って、物凄く頭の回転が速い。ひょっとして、アイドル時代はお馬鹿な振りをしていただけでは?とも思う
 
それで、まだ中学生の新人女性歌手の売り出しという話だった。その子のマネージングをする人がいないので頼めないかという話である。その子が歌っているビデオも見せてもらったが、逸材だと思った。歌唱力はまだまだだが、中学生では仕方ない。それにアイドルで重要なのは歌唱力より魅力である。この子はそれを強く持っている。
 
「ただこの子、実は男の娘なんですけどね」
「そういう冗談はやめてください」
 
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しかしコスモスとは色々話し、かなり意見の一致を見た。それで近日中に契約しましょうといって、今日は引き上げたのである。
 
前の事務所を辞めてから1年はライブとかに行けないので、たくさんCDを買って色々な音楽を聞いた。特にインディーズのCDを大量に聞いた。自分の感覚は決して古くはなってないと確信した。
 
しかし女子中学生歌手の売り出しとなると15年ぶりくらいだ。少し武者震いがする。
 
彼は夕食を食べようと思って、お弁当を買いに出た。妻とは、あまりにも仕事が忙しくてすれ違いになり、10年前に離婚している。お弁当屋さんで唐揚げ弁当を買った後、お酒も欲しいなと思ってドラッグストアに寄る。そしてラガービール500mlを3缶買った。若い頃は一晩でウィスキーをボトル1本空けたりしていたが、もうそこまでの体力は無くなった。でも毎日ジョギング10kmしているし、仕事をする体力はあるつもりだ。
 
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彼はお弁当とビールを持って自宅に向かった。信号が青だった(と思った)ので道路を渡る。この時左右を確認しなかったことを彼は後悔することもできなかった。
 
キキー!という鋭い音がした。
 
彼がそちらを見た時、すぐ目の前に大型トラックが居た。
 
「え!?」
と発した言葉が、彼の“最期の言葉”になった。
 
翌日新聞の社会面の隅の方に「元芸能マネージャー死亡」という小さな記事が載った。本人が“赤信号を無視して”いきなり飛び出してきたことがトラックのドライブレコーダーで明確だったので、運転手はほぼ責任を問われずに済んだ。前の会社を退職してから1年間無職だったこともあり、警察は自殺の可能性も考えたようである。
 
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この事件について、テレビなどは元の所属事務所に忖度して、ほとんど取り上げなかった。
 

千里は元々浦和の家には車を8台駐められるように、(地下が)3段の立体駐車場を作ってと播磨工務店の九重(*8)に頼んだのだが、九重は「3段」と聞いて、地上部を含めて3段、つまり地下は2段のものと思い込み(ふつうそう思う)、6台駐められる車庫を作ってしまった。それで千里は取り敢えず立体駐車場のそばにイナバの物置の車庫を置いて7台までは駐められる状態にしていた。
 
(*8)毎度アクア(龍虎)に色々悪いことをしている《じゅうちゃん》である。中学生時代のアクアは《こうちゃん》と《じゅうちゃん》の共同作業で、ほとんど女の子に近い状態に改造されてしまった。もっとも彼は結構アクアに雑用で、いいようにこき使われている感もある。
 
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12月下旬、千里は彪志から
「浦和の家にプール作るのは無理ですよね」
と言われて、そういえば青葉から、新しい家に可能だったらプール作ってと言われていたことを思い出した。それですぐプールの部材などは発注したものの、工事方法で悩んだ。《こうちゃん》と九重を呼んで話し合う。
 
「プールを家の地下に作りたいんだけどさ、作ってしまうと立体駐車場のピットがもう拡張できなくなってしまうと思うんだよ」
 
「拡張するつもりがあったら、プール作る前にやるべきだね。その更に地下深くにプールは作ればいい」
 
「だったら悪いけど、それしてくれる?そして駐車場の柱を下方2.5mくらい延長して」
 
ところが九重は言ったのである。
「延長するのは難しい。熔接とかした場合にどうしても微妙なずれが生じる。強度も落ちる。最初から10mの鉄骨を使わないと安全性が確保できない」
 
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「つまり全交換ということ?」
「それしかないと思う」
「今の駐車場に800万掛かったのにぃ」
 
「千里、お金持ちだろ。変な所でケチると後悔するぞ」
と《こうちゃん》が言う。
 
「分かった。全交換でお願い」
 
それで九重は、他の播磨工務店のメンバーも連れてきて、現在の3段の立体駐車場をいったん撤去。(プール制作作業用も含めて)今より更に10m下まで地面を掘り、一番下の基礎から支える鉄骨構造を作り、その上に新しい駐車場のフレームを造り込んだ。
 
イナバの駐車場も作業の邪魔になるので一緒に撤去したのだが、これは元のフレームと一緒に“どこか適当な場所”に置いたらしい。
 

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それで千里は、この余ってしまった3段式駐車場のフレームを季里子の家に持って行き、イナバの駐車場は美映の所に持っていったのであった。
 
元の駐車場のパーツで地上部分の壁と屋根は再利用したので、季里子の家の駐車場・地上部分には壁と天井が無い。でもあの狭い庭に屋根・天井のある車庫を設置すると、家から外が見えなくなってしまうので、むしろ無いほうがいいかも知れない気もした。
 
千里は新しく浦和の家に作った駐車場については1000万円払ったものの、元の駐車場フレームを季里子の家に移設する作業、イナバの車庫を美映の家に置いてくる作業については
 
「あんたがきちんと私に確認しなかったのも悪い」
と言って、タダで作業させた。
 
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九重はぶつぶつ言いながらもちゃんと作業してくれたようである。
 
(お弁当は出してあげたし、最後はご褒美にお酒も出したら喜んでいた)
 

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その日、帰宅した西湖は郵便物の中に家庭裁判所から来ているものがあることに気付いた。何だっけ?と思って開いてみた。
 
「は!?」
 
そこには
 
「天月西湖の性別を女に訂正することを認める。あわせて名前を聖子に変更することを認める」
 
という文面が書かれていたのである。
 
「嘘!?ボク女の子になっちゃったの!??」
 

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甲斐絵代子は結局1月中に3回(12/28のも含めて4回)、中村晃湖さんにヒーリングをしてもらってかなり楽になった。
 
2度目のセッションの直後、1月6日には生放送の歌番組スタジオμに出演し、羽鳥セシルの伴奏(フルート)を吹いた。このフルートは、つい前日、姉が「早く元気になろうという気持ちになるように」と言って買ってくれたばかりの総銀のフルートである(持った時「重い」と思った)。まだ1日しか練習していなかったが、何とか無難に伴奏を務めることができた。
 
翌週には、年内に歌ったロッテ・ショコエールのCM曲をCDとして発売することになったということで、音源制作をした。プロデューサーの野潟四朗さんの指導は厳しかったが、何とか歯を食いしばって、音源を完成させた。
 
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この音源制作で物凄く頑張ったら、なんかお股の痛みは気にならなくなり、4回目(最後)の中村晃湖さんとのセッションでは
 
「これもうほとんど痛くないでしょ?」
「はい、痛くないです」
などという会話をした。
 

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1月30日(土)には、今度は中高生向けのファッションブランドのCM曲を歌うことになった。作詞作曲は夢紗蒼依(むさ・あおい)先生である。ただ夢紗蒼依先生は多忙(年間700曲くらい書いているらしい。よく書けるものだ)なので、代わりに丸山アイ先生が音源制作の指揮を執ってくださるということだった。
 
絵代子は「野潟さんほど厳しくなければいいなあ」と思いながら、信濃町ガールズの先輩・悠木恵美さんに付き添ってもらって都内のスタジオに出かけた。
 
スタジオの入口で派手に転ぶ。
 
「君大丈夫?」
と大きなお腹を抱えた25-26歳くらいかなという感じの女性が声を掛ける。
 
「はい。大丈夫です。誰かに足をつかまれたような気がしたけど、きっと気のせいです」
 
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「気をつけようね」
 
その声を掛けてくれたのが、丸山アイ先生だった。
 
「もしかして妊娠中ですか?」
「うん。今7ヶ月」
「こういう所に出て来ていいんですか?」
「平気平気。私は予定日の前日までは働くつもり」
「せめて半月くらい前からはお休みなさった方がいい気がします」
「みんなそう言うのよ」
 

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それで丸山先生の指導で音源制作をしたが、丸山先生はとても優しい先生で「良かったぁ」と思った。時折ジョークを交えて指導する先生の話は分かりやすいし親切で、絵代子は伸び伸びと歌を吹き込むことができた。先生は自称が“ボク”である。でもこの先生にはボクという自称が似合う気がした。
 
野潟先生は最終的に3本録った歌唱の良いところを繋ぎ合わせて販売音源を完成させると言っていたが、丸山先生はそういう編集がお嫌いらしく、絵代子の歌唱を1本丸ごと使うとおっしゃった。しかしそのため、かなりの回数歌うことになる。野潟先生との制作では3時間ほどで1本の音源を作ったが、丸山先生との制作では、結局、丸一日かけて、やっと「OK」の出る歌唱となった。
 
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「明日はカップリング曲ね」
「はい、頑張ります」
と言って、絵代子は笑顔で丸山先生と握手した。力強い握手で、何だか元気をもらったような気がした。
 

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しかし充実した制作をしたせいか、これまで結構痛みを感じていたあの付近が、この日以降、全く痛まなくなった。やはりこういうのは中村晃湖さんが言っていたように精神的なものが大きいんだろうなと絵代子は思った。
 
更に「自分は女の子」という確信が持てるようになったせいか、バストまで急成長したようで、今まではAカップのブラを着けていたのだが、Aではきつい気がした。姉に言ったらメジャーで測ってくれたが、「これはもうBカップだよ」と言われる。それで翌日は姉のブラジャーを借りて音源制作に出かけた。
 
やはり悠木恵美さんに連れられてスタジオに行く。そしてこの日も丸一日かけて2曲目の音源を作った。時間がかかるので体力的には疲れるものの、凄く充実した気分だった。(帰りに西友に寄ってもらい新しいブラジャーを取り敢えず5枚買った)
 
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でも先生によって、やはり音源制作の方針って色々なんだろうなと絵代子は思った。
 
「ところで君、男の娘なんだって?」
「はい。実はそうなんです」
「ボクも男の娘なんだよ」
「冗談はやめてください。男の娘が妊娠する訳無いし」
「そうかな。でも君もきっとその内、赤ちゃん産むと思うよ」
 
丸山アイ先生にそんなことを言われると、ひょっとして私産めるかも、という気がした。
 

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コスモスは丸山アイに言った。
 
「音源制作の指導ありがとね。とにかく今手が足りなくて。助かったよ」
「あの子、歌唱力はまだまだだけど、光るものを持っている。伸びると思うよ」
「うん。川崎ゆりこは実にいい子を見つけてくれたと思う。ところでさ」
「うん」
「甲斐絵代子のマネージャーをしてもらうつもりでいたベテランマネージャーさんが亡くなっちゃってさ」
「ありゃ。コロナ?」
 
「交通事故。私御香典持ってったよ。耳が少し遠いし色覚異常も抱えてるみたいだったけど、音源制作はセンスのいい若い人にしてもらって、営業だけなら行けると思ったんだけどねー。前の事務所と少しトラブってたみたいだけど、鈴木社長の睨みがあれば文句言われることはないし」
 
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「鈴木さんの存在は大きいよね。でも人の運命は分からないよねー」
 
「アイちゃん、もし誰かあの子のマネージャーできそうな人でフリーの人がいたら紹介してくんない?この際、ポップスを理解できる人なら年齢はあまり問わないから。性別も女癖の悪い人でなかったら、男でも女でも男の娘でも女の娘でもいいよ。人間を取って食わなきゃ、精霊とかでもいいし」
 
「分かった。気をつけておくよ」
「ごめんねー」
 
電話を切ってから丸山アイは呟いた。
「コスモスちゃんにはバレてないみたい。危ない、危ない」
 
しかし§§ミュージックのスタッフには、龍とか天女とか、猫とかキツネとかカエルとかアナグマとか、色々いるよな、人のこと言えんけどなどと思う。
 
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コスモスという子は、仕事さえできれば本人の属性は全く気にしないタイプのようである。そういう子は好きだ。だからこそ平然と2人のアクアを使いこなし、3人の千里、(多分)5人くらい居るケイと普通に付き合っているのだろう。
 
アイはコスモスに器の大きさを感じた。
 
全く会社を100倍に成長させた訳だよ。
 
なお甲斐絵代子のマネージャー選びは難航し、決まるのは5月の連休明けにずれ込む。
 

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