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■春銀(7)
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吉田は幸花が運転する車の助手席で車酔いしそうな気分だった。こういうカーブの多い道は運転している本人はいいのだが、同乗者はわりと辛い。更に幸花はあまり上手いドライバーではないので、身体に掛かる加速度が結構辛いのである。
(アイはとっても上手いので、後続のRX-8の同乗者はここまできつい思いはしていない)
気分を紛らすのも兼ねて後続のRX-8に乗っている青葉に電話してみたが、青葉の指示では流れに沿って走ってということであった。その内、前の車が脇道に移り、前が居なくなる。再度電話してみると、速度制限を守って走ってということだったので、そのように幸花に伝える。
18:50頃に県境を越え、そのすぐ先にある熊無峠のドライブインの横を通過して車は下りに入る。暗くなってきたのでライトを点ける。大きなカーブを速度を抑えながら走る。下り道なので、抑えているつもりでも、どうしてもスピードが出る。
わりと直線になっている箇所で、下り坂なので少しスピードが出てしまった時のことだった。
「アッ!」
と、運転している幸花、助手席の吉田、2人が同時に声を出した。
左手の脇道からいきなり無灯火の軽ワゴン車が飛び出してきたのである。
幸花がブレーキを踏むとともに、ステアリングを右に切る。
しかし吉田がそれに飛び付くようにして「だめ!」と言い、ステアリングを掴み、左に戻した。
(吉田は実は「アッ」と叫んだ瞬間に自分のシートベルトを外していた)
フェラーリは一瞬ふらつくようにしたものの、結局まっすぐ進む。
「ぶつかる!」
と幸花が悲鳴のような声をあげた。
軽ワゴン車がもう視界の目の前に迫る。
そして
ぶつかった!
と幸花は思ったが何の衝撃も無かった。
え?え?
後続のRX-8は熊無峠を越えてから、大きなカーブを曲がり、更に小さなカーブを曲がってから、フェラーリの後を追随して長い直線を降りて行っていた。
突然左脇道から軽ワゴン車が飛び出してくる。
フェラーリは急ブレーキを掛けるとともに一瞬右に舵を切るかに見えたが、すぐに元に戻し、そのままの車線を走り続ける。2つの車が衝突する・・・・
かに見えたが、衝突音などは無かった。
「行くよ!」
とアイが声を出し、RX-8のステアリングを切って、華麗に先行するフェラーリを追い越す。そして青いワゴン車を追いかける。
フェラーリは停車したのだが、ワゴン車はスピードをあげて逃げて行く。
「実体が無いですね」
と青葉が言う。
「うん。今この様子を他の人が見たら、単にRX-8が山道で暴走しているようにしか見えないと思う」
とアイも答える。
「どうします?」
「停める」
とアイが言うと、突然道路の前方に巨大な壁が出現した。
先行していた軽ワゴン車が急ブレーキを掛けて停車する。
RX-8も停車する。
青葉とアイが車外に飛び出した。
後部座席の神谷内さんと明恵も続けて飛び出す。
「任せた」
とアイが言った。
「分かりました」
と青葉は答えると、印を結び、光明真言を唱える。
「オン・アボキャ・ベイロシャノウ・マカボダラ・マニハンドマ・ジンバラ・ハラバリタヤ・ウン!」
青いワゴン車はその姿がカゲロウのように揺らぎ、そして燃え上がるようにして、やがて少しずつ薄くなり、消えて行った。
向こう側に出来ていた“塗り壁”のような壁も消えている。
ここはもう普通の空間になっていた。
「帰ろう」
「ええ、帰りましょう」
「待って」
と言って、神谷内さんが付近の様子をカメラで撮影していた。
幸花が少しショックを受けているので、フェラーリをアイ、RX-8を青葉が運転して放送局に帰還した。
吉田君がお腹を空かせたろうと思い、途中のファミマで、お弁当を買って車内で食べてもらった。吉田君は唐揚げ弁当を食べたが、幸花はさっきもトンカツ弁当を食べたのに、今度はハンバーグ丼を食べていた。アイと青葉は運転しながら食べられるようにおにぎりを買った。
放送局に着いてから、待機していた真珠がコーヒーを入れてくれた。
「結局、何だったの?」
と、特別に水割りを作ってあげたのを飲んだ幸花が尋ねる。
「千里さんから言われたのはさ」
と吉田君(男の服に着替えた)が語る。
「その青いワゴン車というのは、実体の無いただの幻だから、その車が飛び出してきても、物理的に衝突することはない。だから、ハンドルを切ったりせずに、そのまままっすぐ走れということ。ハンドル切れば絶対事故るからと」
「そうだったのか」
「でも運転している人はそう言われていても反射的にハンドルを切る。だから助手席に乗る俺がそれを修正してくれと言われたんだよ」
「私もう死ぬかと思った」
と幸花は言っていた。
「まあその状態で冷静にまっすぐ走れるのは青葉ちゃん以上の霊能者とか、千里ちゃんみたいな“自称霊感無し人間”だけだよ」
とアイ。
「姉は、いい加減、自分には霊感が無いなんて嘘はやめた方がいいと思います」
「大いに賛成」
「結局、あれは妖怪の類い?」
と神谷内さんが尋ねた。
「そうです。愉快犯の類いですよ。妖怪にはこの手のものがわりとあるんですよ。だけど、さすがに調子に乗りすぎましたね」
と青葉。
「しかし車の形をした妖怪がいるなんて」
「昔は鍬(くわ)や鋤(すき)、提灯(ちょうちん)や唐傘といった道具の妖怪が出没していた。今の時代には。車や飛行機、パソコンやスマホの形を取る妖怪が出ても不思議ではないですよ」
と青葉は言う。
「なるほどー」
「まあそういう形に、妖しい“気”が集まるんだろうね。昔は“さまよえるオランダ人”(Flying Dutchman)なんてのもあったし」
とアイも言った。
「そうか!あの類いか!」
「ネット上で暗躍する、バーチャルな妖怪も出ますよね?」
と明恵が訊く。
「出るだろうね。幻のサイトとかね」
と青葉もアイも言う。
「だけと青葉ちゃんは優しいね。あれを成仏させちゃうなんて。ボクだったら千年封印の刑にしちゃうのに」
などとアイは言っている。
「生憎、その手の術は覚えてないので」
「じゃちょっと番組をどう構成するか打ち合わせない?今、丸山さんもいる場所で、放送していい内容と、してはいけない内容を切り分けたい」
と神谷内さんは言った。
「そうしましょう」
番組構成を1時間くらいにわたって打ち合わせたが、結局、今回は30分の短縮構成(実質23分)のつもりだったが、通常通り1時間構成(実質45分)にすることにし、前半を純粋階段(箕山さんの自宅近くのも追加で取材したが、最も美しい純粋階段だった)、純粋ドア・純粋門などの類いのものを紹介(千里姉が四国の純粋トンネルの写真を持っていると言っていたので、それも送ってもらい一緒に紹介した)し、後半にこの“脇道から飛び出す軽ワゴン車”事件の顛末を放送することにした。
塗り壁が出現したり、青葉が車を成仏させてしまう所は、CGで構成することにしたが、幸花が「うちの番組って予算あるんですねぇ」と感心していた。実際は石崎部長が特別に予算を出してくれたお陰である。
ちなみに吉田は、女装の自分が映ることになることに、気付いていない!!
その日は、打ち合わせが終わってから、神谷内さんが取ってくれた仕出しを食べた。それで丸山アイは深夜の方が走りやすいからと言って、その夜帰っていった。神谷内さんは丸山アイにどれだけ謝礼をすればいいか見当が付かなかったようで、青葉がトイレに立った時に自分もトイレに立ち尋ねた。
「あの人はお金持ちだし、今回の仕事はただの趣味ですから、お車代に3万円くらい渡しておけばいいですよ」
「そんな少額でいいの?」
「まともに謝礼を払うなら100万円くらいでしょうけど、本当に今回は趣味の暇つぶしで来てくれただけですから」
それで神谷内さんは結局、御車代の名目で10万円渡したようである。多分制作費から都合できる限度額だろう。
青葉は何ももらっていないが!
RX-8を貸してくれた若葉には純粋に車の借り賃として3万円渡した。しかし若葉は「そんなの要らないのに」と言ってムーランの食事券(額面500円)を60枚もくれた。
それで神谷内さんは、それを吉田君に御礼代わりと言ってあげたので、吉田君は銀行の同僚にそれを配ったようである。そしてそれは主としてお弁当の出前に使用された。金沢市内は、ムーラン出前専用部隊の配達区域になっている。
ムーランの出前専用部隊は、和実がクレールのデリバリー専門部隊を作ったのにならって6月から営業開始したもので、津幡を拠点に、津幡町・内灘町・かほく市・小矢部市・金沢市・高岡市までを配達範囲にしている。ムーランのロゴ(水車のマーク)を入れた三菱ミニキャブミーブ(電気自動車の小型バン)を10台購入。2人1組で配達して回るようにした。これは会社などでまとめて注文というのが多いので、機動性のあるバイクより、積載性の高いバンを選択したためである。
2人1組にするのは、配達をする女性スタッフが性被害に遭わないようにする用心と、配送中に連絡を受けられるようにすること、それに駐車違反逃れである。
なお、この配達部隊(総勢50人も雇用している)の中に、津幡火牛アリーナを本拠地にする、バスケ女子チームの、女形ズおよびレディ加賀の選手が合計10人入っている。他は、だいたい金沢や高岡のスポーツをする女子大生が多い。実は女形ズなどのコネでバスケ部員や、青葉のコネで水泳部員も多い。コロナのせいでバイトの少ない時期なので、応募者は多かった。
恵馬は夏休みに入ったので週2回会おうと言われ、その後、水曜と土曜または日曜に会うことにした(土日のどちらになるかはAさんの都合に合わせてくれと言われて了承した)。女装して出かけるのは恥ずかしい気がして、ズボンを穿いて出かけるが、だいたい帰りは女装で帰宅することになる。
夏休み中ではあるが、姉は高3なので塾の夏季講座に出かけていて、恵馬が帰宅する時間帯は不在だった。また、中学生の弟はゲームに夢中で、ずっと自分の部屋に閉じこもっている。それで女装で帰宅する恵馬を見るのは、いつも母だけであった。
8月5日(水)はカットソーとアクリル生地のゴム編みウェストの膝丈スカートという、ほとんど室内着みたいな、カジュアルな服を着せられた。
「お出かけできる服もいいけど、普段着も必要だろうからね。この服もあげるから、おうちで普通に着てなよ」
「そうですね。考えておきます」
と恵馬は曖昧な返事をした。
この日も前回と同様に1時間ほど歌の練習をしてから、撮影に出かける。今日行った場所は、わりと山の中にあったのだが、まるでお城のような家(?)が建っていた。
「映画のセットか何かですか?」
「あんた勘がいいわね。実はある歌手のPV撮影のために建てたものなのよ」
「なるほどー!そういう用途でしたか」
「また他の歌手のPV撮影とかに使うかも知れないというので崩さずに取っておるのよね。それを今日は借りることにした」
そういえば、こないだは「1年以内に歌手としてデビューさせてあげる」とか言われたけど、本当に音楽業界にコネがあるのだろうか。
「取り敢えず着替えよう」
「この服で撮影するんじゃないんですか?」
「まさか」
それで、お姫様のような真っ白なシルクのドレスを着せられた。
まるで学芸会の劇にでも出るかのような気分である。恵馬は小学生の時に、学芸会でシンデレラ役をして、こんな感じのドレスを着たよなあ、と昔のことを思い出していた。
前回も長い髪のウィッグを付けられたのだが、この日もやはりロングヘアのウィッグを付ける。ただ、前回はカーリーヘアだったが、今日のウィッグはストレートヘアである。確かにこの方がお姫様っぽい。
この衣装で撮影していたら、アナさんが言った。
「ここでフルートでも持って吹いていると絵になるんですけどねー」
「ありゃ、フルート持ってくれば良かったわね」
と仮名Aさんが言う。
「フルート持って来てますけど」
と恵馬は言った。
「持ってるんだ?」
「演奏を見てあげるから持っておいでと言われたんで」
「そうだった!忘れてた」
とAさん。
どうも完璧に忘れていたようである。
恵馬は自分の荷物からフルートのケースを取りだし、中のフルートを取りだして組み立てた。
「そこの窓辺で何か適当な曲を吹いてみて」
と言われたので、恵馬は窓辺で、通称“ハイドンのセレナーデ”を吹いた。
長年ハイドンの作品と思われていたので“ハイドンのセレナーデ”と呼ばれているが、実はロマン・ホフシュテッターの作品であったことが判明している。ミファ・ソミドー、ソミ・ラファドーというメロディーである。元々は弦楽四重奏曲ヘ長調の第二楽章(アンダンテ・カンタービレ)であるが、ピアノやフルートで演奏されることも多い。
「あんた、上手いじゃん」
と言われた。
「だったら撮影の後で少し手ほどきしてあげるよ」
「ありがとうございます。よろしくお願いします」
それでこの日は、この“お城”のあちこちで、フルートを手に持っている姿とか吹いている所を撮影された。
この“お城”はPV撮影用に作られたというだけあって、前から見た姿は確かにお城なのだが、中は広間、廊下、部屋などが絶妙に“効率的”に詰め込まれていて、窓側は豪華なお部屋の窓付近に見えるが、振り返ると広間に見えるなどという面白い作りになっていた。
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