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■春社(1)

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(C)Eriko Kawaguchi 2016-07-29
 
2016年7月3日、名古屋市の日本ガイシアリーナ。
 
この大会に前年実績が無いものの特例で出場を認められた幡山ジャネは名前を呼ばれると、入口のところからごく普通に歩いて自分のコースのスタート台の所まで行った。ジャネは「歩ける」喜びをかみしめていた。
 
全員の名前が呼ばれ、選手がそろったところで、ジャネは少し膝を曲げると、右足首の所に触り、ひょいと足首から先を取り外して、プールサイドに置いた。
 
周囲の視線がぎょっとする。観客が騒ぐ。人間の足首から先だけが、プールサイドに転がっているのはシュールである。
 
多くの選手がジャネを見た中、隣のコースの月見里公子だけが全く動じずに、ただ自分が泳ぐコースだけを見つめて気持ちを集中していた。
 
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ジャネは右足の先が無いため左足1本でスタート台に立っている。「用意」の声でその左足を曲げてスタートの体勢を取る。各コースの後ろにあるスピーカーからスタートの合図が流れる。
 
ジャネは勢いよく飛び込んだ。
 

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右足首から先が無くても、両手で水を掻き、太股と脛だけの動きで力強く身体を推進させる。残っている左足の先で水を蹴る。ジャネは全力で泳いでいった。端まで行くとくるりと身体を回転させ、左足だけでプールの壁をキックしてターンする。また勢いよく泳いでいく。
 
プールを何度も往復する。疲れは出てくるがそれでスピードを落としたりせずむしろ加速する気持ちで泳ぐ。
 
あと1往復。
 
ラストスパート!
 
ゴールにタッチ!!
 
結果は2位でのゴールであった。健常者と何ら変わらないその速度に観客席からどよめきが起きた。ジャネは順位よりタイムを気にした。標準記録を突破しないと本戦に行けない。
 
時計は8:58.15を示している。標準記録は8:58.18なので、わずか0.03秒だが上回っている。やった!とジャネは水中で飛び上がって喜びを表現した。隣のコースを泳いで1位で入った公子と笑顔で握手を交わし、そのまま抱き合って喜びを分かち合った。
 
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「それってただの形だけの義足じゃないのね?」
と競技が終わった後、女子更衣室で月見里公子(やまなし・きみこ)がジャネに訊いた。
 
「そうそう。この義足は自分がどう動くべきかを知っているんだよ」
とジャネは説明する。
 
「外側はシリコンで足の形を作っているけど、中にちゃんと骨格が入っていてそれがマイクロコンピュータで制御されているんだよ。私が歩こうとしているのか、走ろうとしているのか、立っていたいのかとかを判断して、それに合わせて骨格を動かしてくれる。だから、これで普通にジョギングができるんだよね。ここ1ヶ月毎日5km走ってた。もっと走りたかったけど医者がそこまでしか許可しなくてさ」
 
「いや、まだ無理はしないほうがいい。でもジャネさん復活だね」
「うん。インカレまでにはもっともっと鍛えるよ」
 
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と言って、ジャネは再度公子と握手した。
 

紗早江がスタジオでバックバンドの演奏を聴いていたら、隣にレコード会社の松前会長が座った。
 
「ホシ君、君さあ、クスリやってるでしょ?」
 
「すみません。出来心だったんです。あの頃はまだ世間のこととかもよく分かってなくて。もう7年間やってませんし、今後も決して手を出すことはありませんから」
 
「それでも分かっちゃうんだよねぇ。君の歌は、子供番組のテーマ曲や、商品のCMにも使われている。困るんだよね」
 
「ほんとに申し訳ありません」
 
紗早江は消え入りそうな声で謝った。
 

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「ねえ、君ってほんとに女?」
と声を掛けてきたのはローズ+リリーのケイだった。
 
「女だけど」
「いつも髪、短いよね」
「これは私のスタイルなんだよ」
「お化粧した所も見たことない」
「素顔でパフォーマンスするのが私のポリシー」
「スカート穿いた所も見たことないし」
「あんなかったるいもん穿けないよ」
「実は君、男でしょ?女だと装っているだけで。私は自分が元男だったから、そういうの分かるんだよね〜」
 
「違う〜!私は本当に女だよ!」
「生理あるの?」
「いや、それは・・・・」
「ふーん。無いんだ。男なら生理無いよね?」
 

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「ねえ、あなたクスリやってるでしょう?」
と今度はローズ+リリーのマリから言われた。
 
「だってさあ、歌詞の発想が尋常じゃないもん。これって普通の頭では思いつけない歌詞だよ。同じ作詞者だから分かる。これって絶対クスリでラリっている時の詩だよ」
 
「そんなもんやったことないよ!」
「隠したって分かるのに。その内警察が来るかもね」
 
紗早江は小学生の頃、作文をいつも白紙提出していた頃のことを思い出していた。あの時期、自分の書く文章が他の子たちと異質だというのを感じて、こんなものを提出したら、この子、頭がおかしいかもと言われて、精神病院に入院させられるのでは?と恐れ、それで一切自分の文章を表に出さなかったのである。
 
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代わりに紗早江は自分だけが見るノートに様々な文章や詩を書き綴っていた。そのノートは、机のいちばん下の引き出しの「下」のスペースに隠していた。
 

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「君の身体から薬の影響を抜くために治療してもらうことになったから」
と事務所の春吉社長が言い、紗早江は病院に連れてこられた。
 
「では先生お願いします」
と言われ、白衣を着てマスクを付けた医師が
「心配しなくていいからね」
と言って、紗早江をベッドに寝せる。
 
無影灯が点くのを見る。あれ〜、私手術されちゃうの?
 
と思って待っていたら
「治療が終わったよ」
と言われる。
 
「新しい自分を見てごらん」
と言われて上半身を起こす。
 
何これ〜〜〜!?
 
紗早江は絶句した。
 
「君の身体の中の女性器は完全に薬で汚染されていたから、卵巣も子宮も膣も取ってしまうしか無かったんだよ」
と医師が言う。
 
だからって・・・・こんなのどうすればいいのよ?
 
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そう思いながら紗早江は、股間に付いている、世にもおぞましい物を触っていた。それは触ると大きく硬くなって、上向きになった。
 

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ハッと目覚める。
 
夢か・・・・・
 
おまたを触って変なものが付いてないことを確認する。良かったぁ!
 
紗早江はまだ大きく息をしていた。
 
「さっちん、大丈夫?随分うなされていたみたい」
と相棒の波流美が心配して言う。波流美はファッション雑誌を見ていたようだ。
 
「うん。大丈夫。変な夢見てた」
 
ローズ+リリーのふたりが出てきたのって、やはり私、あいつらを意識しているんだろうなと思う。しかし、薬を抜く手術で、男にされちゃう訳?うーん。私、子供の頃は、男だったら良かったのにと思ってたけど別に性転換手術してまで男になりたい訳じゃない。
 
まあ私、スカートも穿かないし、お化粧もしないし、髪は短くしてるし、実は生理がもう6年くらい無いけど。。。。男にされちゃっても何とかなりそうな気もしないではないけど。でも男になったら・・・波流美と結婚することになったりして!?
 
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とチラッと波流美の顔を見た。
 
女の子に入れる感覚って、どんなのかなあ・・・。ちょっと興味無いこともないけど。入れられるのより気持ち良さそうな気もするなあ。
 
変な想像をしている内に、まるでちんちんが立ってくるような気がしたが、残念ながらそのようなものは装備していない。
 
紗早江は高校時代に部活の先輩男子と1度だけセックスしたことがある。セックスしたというより、半ばレイプに近かった。でもその先輩をわりと好きだったから、自分としては恋愛上のセックスと考えている。
 
もっともあの後は妊娠してないかと次の生理までヒヤヒヤだった。
 

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そうだよなあ。あの頃は生理があって、毎月面倒だと思っていたのに。こんなの無くなればいいと思っていたのに。
 
今は無くなってしまったけど、それが自分を憂鬱にさせる。
 
やはりあがっちゃったんだろうなあ。
 
自分の不摂生な生活が原因なのはほぼ確実だ。
 
私、子供はもう産めないのかな。
 

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そんなことまで考えが及んでしまった所で、波流美が雑誌を下に置いた。
 
「お腹空いた。お昼食べに行こうよ」
「うん」
 
ふたりでおしゃべりしながら、旅館のランチを食べる。まあここ御飯が美味しいのがいいよなあ、とも思う。
 
食事が終わってから、部屋に戻ることにするが、紗早江は
 
「自販機でジュース買ってくる。ハル、先に戻っといて」
 
と言って波流美と別れ、ロビーの方に向かった。
 
自販機でペットボトルのお茶を買う。東京では聞かないブランドだが、自販機なのに500ccペットが100円って凄い。ここは長期逗留者が多いので、こういうのも安くしているんだと聞いた。
 
栓を開けようとしてふと左手を見た時、業者さんかなという感じの人が食材でも入っているような青いプラスチックのコンテナを抱えて通用口から運び込んでいた。
 
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何気なくそれを見ていた紗早江は、業者さんが出て行った後、通用口が開けっ放しであるのを見て、何気なくそちらに歩いて行ってみた。
 
この旅館に来てから2週間くらいになる。良い場所とは思うのだが、閉塞感も感じる。波流美、マネージャーのサニー春吉(春吉陽子)さん、カウンセラーの森さんと4人だが、だいたい波流美と2人だけにしてくれている。
 
春吉さんは会社の常務だし、副社長の大堀さんが亡くなったばかりで実際にはかなり忙しいようである。専用の光回線を1本部屋に引いてもらってFAX複合機を置いているし、パソコンも5台並べてネット接続してあり、あの部屋がサテライト・オフィスという感じだ。24時間あちこちに電話したりメールしたり、企画書らしきものを書いたりで、むしろいつ寝ているのだろう?と思う。
 
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それでも彼女は
「ここにいると余計な電話には煩わされなくて良い」
などと言っていた。
 
彼女の携帯の番号はごく一部の人にしか開示していない。
 
森さんとは毎日夕方に1時間くらいセッションをすることにしている。森さんは空いている時間を使って何か論文を書いているようだ。
 
ここは集中して何かをするのにも良い所である。
 
ホシとナミも「アルバム制作中」という名目でここに来ている。
 

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ここには東京から6時間ほど車に揺られてきて、更に湖を渡るフェリーに乗って辿り着いた。
 
「フェリーで渡るんですか? 島なの?」
「半島の先なんですよ。陸続きではあるんですが、そこに至る道があまりお客さん向けではないので、フェリーで渡って頂いているんですよ」
 
と旅館のスタッフさんは説明していた。
 
フェリーの船着き場の目の前に旅館の玄関があり、そのまま中に入って投宿。最初はここしばらく無茶苦茶忙しかったこともあり、のんびりと温泉に入り、波流美とおしゃべりなどしながら過ごして疲れを癒した。
 
しかし一週間もすると飽きて来た!
 

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ホシはスマホの類いを取り上げられているのだが、ナミのパソコンで表示させたGoogle Mapで見ても、どうも旅館の周囲には全く道が無いようである。あのフェリーだけが交通手段のようだ。旅館の部屋から見える景色もフェリーが渡ってきた湖と樹木ばかりである。
 
最近紗早江はその湖で遊ぶ鳥たちを眺めているのが日課になっていた。
 
紗早江がその通用口を出てみると、そこには旅館のものと思われる小さな2tトラックやワゴン車、SUVなどが駐まっている。ああ、やはり車も使われているんだ!と思う。少しその車の方に行ってみると、向こう側に道が1本あることに気づく。この道はパソコンで見た地図には載っていなかった。
 
ゲートがあるが完全には閉まっておらず、少し隙間が開いている。閉めたつもりが、きちんとロックされなかったのだろう。
 
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紗早江は何となくその道を眺め、歩き出した。
 

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