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8月17日、ニュージーランド合宿から帰国した千里はその日、和実が店長を務めているエヴォン銀座店で冬子と会った。ローズ+リリーの制作やアクアの件でも少し話があったのだが、京平のことにも話題が及んだ。
京平は体外受精であること。貴司は自分で射精できないので、千里が射精させてあげたこと。卵子は阿部子と同じAB型の女性から借りたことも語ったのだが、冬子はズバリ訊いた。
「その卵子も千里のなんでしょ?」
実は8月3日に冬子は貴司と偶然遭遇して少し話していて、卵子提供者について千里が仲介したこと、提供者本人の希望で名も明かさないし、自分たちとも会わないということだったことを話した上で、実際には千里が提供してくれたのだと思うと貴司が語っていたのである。
ちょうどその時、和実が手が空いたようで、コーヒーとオムレツを持ってふたりの席に来て座った。千里は和実の顔を見て、意味ありげに微笑むと言った。
「私、採卵台に寝たよ。部分麻酔打たれて、それでヴァギナから採卵用の針を刺すんだよ。麻酔打たれているのにこれが痛いんだ。あの痛さって様々な医療行為の痛みの中でも超横綱級って言うね。それもなかなかうまく行かなくて、何度もリトライした。でも最終的に採卵針の中には確かに卵子が入っていた」
和実が真剣な顔で千里を見ている。
千里は和実に言った。
「私でさえ採卵できるんだから、和実ならもっと確実に採卵できるよ」
千里は帰国したのも束の間、その日の夕方からNTCで日本代表の合宿に入ったのだが、8月24日には男子の日本代表の合宿で貴司が同じNTCにやってきた。
夕食の席で貴司は千里や玲央美たちのテーブルにやってくる。
「何か用事?」
「実は阿倍子が『分からない!』と言って音を上げてしまって」
「何が?」
「予防接種のスケジュール」
「あぁ!」
赤ちゃんの予防接種はひじょうにたくさんの種類がある。何週目までに受けなければならないというものがある一方、何週目以降でなければならないというのもある。これを受ける前にこれを受けておかなければならないというのもある。数回に分けて接種しなければならないものが多い。そして1度接種したら、その後一定期間空けなければならないものもある。
これをきちんと計画し、接種のスケジュールを組むのは、高度なパズルを解く問題に等しい。多くのお母さんたちが悩み、結果的に「あれを受けてない!」というのが出てしまうのも、よくあることである。
「でも28日で2ヶ月だよ。まずはロタとかヒブとか受けなきゃ」
「ロ・・・?」
「貴司何も勉強してないの〜?」
「ごめーん。僕は説明のパンフレット見ただけで頭が爆発した」
千里はその貴司が読んで分からなくなったというパンフレットを読む。そして言った。
「とりあえず28日はロタ、ヒブ、肺炎球菌、B型肝炎、この4つを同時接種したほうがいい」
と千里がメモに書きながら説明する。
「その後は、私ももう少し考えて、スケジュール表を作ってあげるよ」
「助かる」
と言って、貴司は千里が書いたメモをそのまま手帳にしまおうとする。
「私の字で書かれたメモを阿部子さんが見てもいいのかな〜?」
「あ、そうか!」
と言って、貴司は慌ててそれを自分で書き直していた。
「細川さん、おたくの会社のチームはどうなってるんですか?」
と玲央美が訊いた。
「悲惨です」
と言って、彼は状況を説明した。
貴司の会社は2006年に双日出身の丸正義邦(当時42)が社長に就任してから急速に成長し、バスケット部にも関東の大学で監督をしていたことのある船越涼太を監督として招聘し、どんどん強い選手を加入させて、3部から2部、1部と昇格していき、2012-13年の大阪リーグ戦では初優勝を成し遂げた。
しかし昨年夏、会社の急成長を主導した義邦社長が病気で倒れ、意識不明の状態が続いている。会社は叔父の丸正昌二副社長が経営を指揮しているものの大口の受注を逃し、顧客を怒らせて取引を切られ、下請けと揉めて結果的に納期遅れなども起こし、業績を急降下させた。それで12月には給料の遅配まで起こしてしまった。その後も給料はいつ出るのか不安定な状態が続いている。実は夏のボーナスはまだ支給されていない。本当に出るのかも分からない。
義邦社長の時代は全社がひとつにまとまっていたのに、昌二副社長が指揮するようになってから昔からの社員、義邦社長の時代に入社した社員、同社が吸収した他社出身の社員などの間に派閥争いが起きるようになり、指揮系統が混乱し、業務が滞るようになった。バスケ部を支えていた高倉部長も3月いっぱいで退職。有力選手が数人3月いっぱいで辞めて新リーグ移行予定のプロチームに移った。現在戦力はガタガタで、正直もうすぐ始まる今シーズンはどんな成績になるか全く読めない。
「細川さん、もうそこ辞めたら?何なら私がどこか適当なチーム紹介しますよ。私けっこう男子にもコネあるし」
と玲央美は言う。
「レオちゃん、男子チームにも勧誘されてたもんね」
「男子リーグでも活躍できるよとは言われた。ちょっと性転換すればいいじゃんとか」
「まあ貴司が性転換して女子リーグに行く手もある」
「ああ、それでもいいね」
「性転換は勘弁して」
「私ももうそこ辞めなよと数年前から言っているんだけどね」
と千里は言っている。
「しかしあれだけ人が辞めたら、僕まで辞めたら悪いみたいで」
と貴司。
「そんなチームのこと心配する前に自分のことを心配したほうがいいです。細川さんが路頭に迷ったら、奥さんや生まれたばかりの京平君はどうなるんです?今のままだときっと経済的にも困ったことになっていくと思いますよ」
と玲央美。
「私も全く同じ意見なんだけどね」
と千里も言った。
8月上旬、アクア、西湖、品川ありさ、コスモスがΛΛテレビから呼び出された。
小池プロデューサーと『ねらわれた学園』の河村監督がいる。
「実は高見沢みちるを演じることになっていた、榊森メミカさんなのですが」
と小池プロデューサーが話し始めた。
「もしかしてご病気か何かですか?」
とコスモスが尋ねた。
「それが実は声変わりが来てしまって、今男みたいな声しか出ない状況で」
「は!?」
「あのぉ、もしかして榊森さんって、男の子だったんですか?」
「僕も知らなかったけど、そうらしいんだよ」
「全然男の子には見えないのに!」
「今回は高見沢みちるはやはり長身の美女だよなと思って、174cmの榊森さんをアサインしたのですが。実は初回の出演者顔合わせをした6月の時、前日に唐突に声変わりが来てしまったらしいのです」
「それで欠席した訳ですか・・・」
「今ボイトレに通って女声が出るように練習しているらしいのですが、なかなかうまい具合に出ないらしくて」
「あれは元々の声質で女声の出やすい人と出にくい人があるらしいです」
と西湖が女声で言うと
「お、君はふつうに女の子に聞こえる声が出るようになったね」
と監督から褒められた。
「頑張りました!」
と西湖も笑顔で答える。
「それで私が呼び出された訳ですか」
と品川ありさが言う。
品川ありさは176cmである。174cmの榊森メミカの代役としては充分である。
「ところが電話でも申し上げましたように、困ったことに、品川はFHテレビさんで1月放送開始のドラマにヒロイン役が決まっているんですよ。主演は五条天人さんで、彼が198cmの身長があるので、背の低い女優さんでは2人の顔が同時にカメラに収まらなくて」
とコスモスが本当に困ったような顔で言う。
「なるほど!それは背の高い女性にしか務まらない!」
「芸能界に入る前はこの身長がコンプレックスだったんですけど、高身長の女の需要って結構あるもんだと認識しました。今回はハイヒール履いての演技で。自分がハイヒール履く場面なんて考えたこともなかったです」
とありさは言う。
「念のため訊きますけど、掛け持ちは無理ですよね?」
「さすがにドラマの主役級2本の掛け持ちは無理です」
とコスモスが言う。
「なかなか身長のある女子中高生で、演技力のある人というのがいなくてですね」
と小池は言う。
「高見沢みちるは大根役者には務まらないからね」
と監督。
「あれは主役以上に演技力が要求されるかも」
とアクア。
「そういう訳で品川さんも使えないとしたら、どうしようか?というので話しあっていたのですが、単刀直入に。アクア君に高見沢みちるをやってもらえませんか?」
と小池プロデューサーは言った。
「え〜〜〜!?」
とアクアが声をあげる。
「それって、関耕児と1人2役ということですか?」
とコスモスが確認する。
「そうです、そうです」
「そして、実はその1人2役を前半では隠していこうと思いついたんですよ」
「隠す?」
「高見沢みちるは後ろ姿だけ。顔を撮さない」
「へー!」
「この物語のクライマックスとなる学級会議での、関vs高見沢の名シーンがありますよね。そこで初公開。それまでは伏せておく」
「でも顔を撮さなくても声で分かるのでは?」
「ボイスチェンジャーを使おうかと」
「あぁ」
それでボイスチェンジャーの機械をプロデューサーが取り出す。
「アクア君、このマイクからこのセリフを読んでみて」
と小池が言う。アクアが台本のラインを引かれたセリフを読む。
「これは以後こんなことはしないようにと注意し、いわれたほうも、わかったといえばすむ程度の問題なんだ」
アクアの声が男声に変換されて響く。
「凄い」
と西湖が声をあげる。
小池さんが機械の設定を変えているようである。
「今度はこのセリフを読んでみて」
「このクラスが、学校全体に対して反逆したのは、よくわかりました。みんな、あとで泣きごとをいわないように」
アクアの声は柔らかいアルトボイスに変換されて響く。女声ではあってもアクアの地声とはかなり雰囲気が違う。
「これで関耕児と高見沢みちるの2役をやろうという訳ですか」
「そして主題歌を品川ありささんに歌ってもらいたいのですが、それは向こうのドラマの方の契約には反しませんか?」
と小池が訊く。
「ミスリードのためですか」
「実はそうなんです。10月に放送開始ですが、アクア君が高見沢みちるを演じている所は、ごく少数の役者さん以外には見せない。それで何とかクラス会での対決が放送されるまで情報を抑えておきたいんです」
「高見沢みちる役について多くの生徒役の役者さんたちは榊森さんだと思っている。でも撮影現場に本人が姿を見せないから疑問に思う人も出てくる。それで品川ありささんが主題歌を歌っているのに役が当てられていない。だったら、高見沢みちるは実は品川ありささんなのではと思う人たちが出る」
「でも実はアクアだと放送で初めてみんな知ることになる訳ですか」
とコスモスは言ってから、向こうのドラマの契約には反しないはずだが、念のため向こうにも話をしておくと言った。
「でもボクは身長が155cmしかないのですが」
「台に乗って演技したり、場合によっては高下駄を履いてもらって」
「あ、それでもしかして今日は私も呼ばれたんですか?」
と西湖。
「そうそう。アクア君が関と高見沢の2役をする場合、本格的にボディダブルが必要になる」
「天月は女生徒役も割り当てられているのですが」
とコスモスが訊く。
「それもやってもらう。女生徒3番だね。だから天月さんは1人3役かも」
「頑張ります!」
それで『ねらわれた学園』はアクアが1人2役することを秘匿したまま撮影に突入することになったのである。
翌週には、メインの配役を集めて
「一人二役が行われるが、このことは外にはもちろん、共演している他の役者さんにも言わないようにしてほしい」
と要請された。この時集まったのは、こういうメンツであった。
元原マミ(楠本和美役)、鈴本信彦(吉田一郎役)、松田理史(荻野誠二役)、横川れさと(西沢響子役)、馬仲敦美(青山玲子役)、大林亮平(京極役)、そしてアクア(関耕児・高見沢みちる役)と西湖(ボディダブル及び女生徒3役)である。
「特に元原さん(楠本和美)、横川さん(西沢響子)、大林さん(京極)は高見沢みちるとの絡みが多いので結果的に毎回2度撮りすることになって大変だと思いますが、よろしくお願いします」
大林から声でバレるのではという問題が指摘されたので、例によってボイスチェンジャーを出してアクアに男女2つの声を出してもらう。
「すごーい」
という声があがるが
「いや、これはアクア君だからできることだと思う。機械で周波数とかは変えることができるけど、話し方までは変えられない。アクア君はちゃんと男の子の話し方、女の子の話し方を切り替えている」
と大林が指摘する。
「そうそう。それができるからアクア君にこれをお願いしたんだよ」
と監督は言った。
「僕がやったら絶対女の声に聞こえないから」
と大林が言うので
「やってみよう」
と監督から言われる。
それで大林が頭を掻きながらボイスチェンジャーを通して高見沢みちるのセリフを発音してみたが
「ハイトーンの男性にしか聞こえない」
と驚きの声があがった。
「自分でしゃべってて、オカマみたいだと思った」
と本人も恥ずかしがりながら言っていた。