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■春水(15)
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目次 #
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駐車場から車を出し、剣崎さんのご自宅を訪問する。
お車はこちらにと言われた。近所のマッサージ店の駐車場らしいが、話を付けて今日は駐めていいことにしてくれたという。
この日は弟の香文(よしふみ・中学3年)さんは学校に行っており、お祖父さんはお仕事で会社、お祖母さんは華道教室に行っているということで、お母さんの美花さん1人だった。
「もしかして、お母さんは、お仕事お休みになったんですか?申し訳ありません」
「いえ。あの子の命に関わる大事ですから。こちらこそご足労頂いて住みません」
青葉は昨日電話で話した時もそうだったが、矢恵さんのことを「娘」と呼ばずに曖昧な表現をしているなと思った。たぶん女の子になってしまったことを完全には受け入れていないのだろう。
美花さんからはむしろ夫(矢恵の父)勝敏さんの異変について聞くことになった。やはりデリケートな問題でもあり、必ずしも全てを子供には話していなかったようであった。
「夫の異変に気付いたのは香文が産まれて1年くらい経った頃なんです」
つまり14年ほど前ということになる。6年前に亡くなったのであれば8年間女性化に苦しんだことになるだろうか。
「出産の後しばらくは夜の生活を控えていて、1歳の誕生日を過ぎたあたりで、解禁したのですが、妙に立ちにくかったんです。最初は久しぶりだからかもとか、疲れているのかもと言っていたのですが、どうも本格的に立ちにくいということになってきたようで。それで話を聞いてみると、香文を妊娠した頃から実は自分でしていて、なかなか立たないことがよくあったと言っていました」
つまり実際には16年前から始まり10年間苦しんだことになるのだろうか。
「でもその頃はまだ頑張ればちゃんとできていたんですよ。やはり本格的に立ちにくくなってきたのは、香文が産まれた後のようですね」
青葉は矢恵の話を聞いた後で考えていたことを尋ねてみた。
「妊娠なさったのは出産の10ヶ月前だから今から16年前くらいですよね。その更に1〜2年前に、ご主人の親族の方で、どなたか亡くなっておられませんか?」
「17年前ですか・・・」
お母さんはしばらく考えていたが、
「ちょっと失礼します」
と言い、どこかに電話をしていた。
「芳子さん、こんにちは。金沢の美花です。はい、ご無沙汰しておりまして。ええ、はい。今度の1月が成人式で。そうなんですよ。振袖着たいと言うから、2年ローンで買っちゃった。元々女の子になりたかったみたいだから、最近そういうの多いし、まあいいかなと思って」
「それでですね、ナナさんが亡くなったの、あれいつでしたっけ?」
「ああ、やはりそうか。ごめんなさいねー。何にもできてなくて。ええ、ありがとうございます。じゃ、また」
「失礼しました。夫のお祖母ちゃんが亡くなったのが2000年でした。香文を妊娠する前年になりますね」
と電話を切ってからお母さんは言った。そして訊く。
「やはりこれは遺伝的なものなのでしょうか?」
「もしかして、ご主人の家系にも性別が変わった人がありました?」
「実はその亡くなったお祖母ちゃんが生まれたときは男だったらしいんです」
「なるほど」
と青葉は顔色一つ変えずに言った。
これは想定していた展開のひとつである。
「夫が女性化して行っていた時期、その話が出たんです。ちょっと待って下さい」
と言って美花さんは、押し入れの中からブリキ缶を取り出すと、それを開けて手帳のようなものをひとつ取り出した。
「それは?」
「夫が使っていた手帳なのですが、自分の身体の異変や、例の桜の夢を見た日付なども記録してあるんです。この年間スケジュールの欄にSというマークが入った日がその夢を見た日だそうです」
「良かったらその手帳を後でお借りできませんか?内容はもちろん口外しません」
「はい!お役に立つならどうぞ」
「手帳はいつ頃の分から残っているのですか?」
「夫は物を捨てない人だったので、かなり残っています。この箱の中に入っているのですが、この箱ごとお貸ししましょうか?」
「はい、お願いします。大事に扱いますので」
それで手帳は箱ごと借りることにした。
美花さんは手帳を開いて何か探していたが、やがて見つけたようである。
「ここに書いてあります」
と言ってお母さんは手帳を見せる。これはどうも手帳の余白を使って、その内容を美花さんに伝えるために勝敏さんが書いたもののようである。
『ナナさんは1918年の生まれで、生まれた時は大正七年の生まれだからというので大七(だいしち)と名付けられた。20歳で徴兵検査を受けて甲種合格したというから体格はかなり良かったものと思われる。M検も受けたと言っていた』
M検というのは、男子の性器検査である。徴兵検査では完全に裸になって性器を目視と触診でチェックされていたし、同様の検査が高校や大学の入学志願者にも実施されていた。実はこれは戦後も1960年代まで一部の大学に残っていたし、1970年代でも自衛隊では志願者の股間に衣服の上から触っていた。
『シナ事変で中国戦線に投入されたものの、1年半ほどで除隊になって帰国してきた。その除隊理由が女だからというものであった』
『本人が言うには、中国で山越えに敵陣を突く部隊に投入され、山道を通っていた時、足を滑らせて池に落ちてしまった。自力で這い上がり、突撃作戦に参加して生き延びたものの、その後から急に体調が悪くなり、後方に転送されて病院に入院した。そこで半年過ごしたが、その間に陰茎が縮んでいき、睾丸は体内に入って出てこなくなり、胸が膨らんできた。それで医師が「この人は女性なので兵役を継続させるには不適格である」と診断し、除隊扱いになって帰国することになる。大七が所属していた部隊はその翌月中国側の反撃で壊滅したので、この体調変化が起きていなかったら自分は戦死していたと思うと言っていた』
『帰国後あらためて医師の診察を受けると、完全な女性であるということになり、戸籍を訂正し、名前も大七からナナに改めた。身長も徴兵検査された頃は六尺あったのが、この時期は五尺三寸くらいまで縮んでしまった。今なら性別の変わった女なんて結婚相手がなかなか居ないだろうけど、当時は日米開戦して日本全体が好戦的になっており、その風潮で元軍人の女性などというのも人気で、何人も求婚する男がいた。それで結局、呉服商をしていた剣崎吉兵衛の後添えになった。剣崎吉兵衛には前の奥さんとの間に女の子が2人いたものの男の子がおらず、跡継ぎが欲しかった。昭和18年、待望の男の子・五十六が誕生。むろん連合艦隊司令長官山本五十六海軍大将にちなんだ名前である』
『間もなく戦争も終わり、その後の新円切換やインフレで剣崎吉兵衛は全ての資産を失う。その後は畑を耕す一方で細々と布団の訪問販売で生活の糧を稼いでいた。子供は前妻との間の女の子2人、ナナが産んだ男の子3人の5人でナナも冬の間は東京に出稼ぎに出て、家計を支えていた』
『五十六は高校を出るとすぐに東京の企業に就職し、その給料で2人の姉を嫁に行かせた。当時は朝鮮戦争の時期で、戦争特需が起きており、給料の良い仕事があった。更にその後、神武景気も来て給料がどんどん良くなった。それで自分の弟2人を大学に行かせ、結婚もさせた』
『一方で自分のことがおろそかになっていた。ナナに言われて五十六は1973年、30歳にして、東京で麻理と結婚する。そしてすぐに麻理は赤ちゃんを妊娠したものの、五十六はその子供の顔を見ることなく、仕事中の事故で死亡した』
『麻理は石川県の実家に帰って子供を産んだ。それが自分(勝敏)である。勝敏という名前は、五十六がバレーボール好きで、猫田勝敏のファンだったことから生前、男の子が生まれたら勝敏、女の子だったら貴子(白井貴子にちなむ)にしようと言っていたので、それに基づいて名付けられた』
「その麻理さんは今は?」
「3年前に亡くなりました。だから矢恵の性別が変わってしまったことを知らないまま逝きました」
「そうですか」
「五十六さんの弟さん2人も既に亡くなっているんですよ。お姉さん2人は存命なのですが、最近はボケ始めているらしくて」
つまり昔のことを話せる人があまり残っていないようだ。
「剣崎家は男性が短命な家系みたいで、吉兵衛さんも49歳で亡くなったそうですし、仙台に行くと60歳以上は女ばかりなんです」
と美花さんは言った。
「らんま1/2(にぶんのいち)という漫画があったのご存知ですか?」
と美花は言う。
「はい」
と青葉は答える。昔の漫画ではあるものの、こういう性別が絡む漫画なら、青葉も知っている。『ボクの初体験』も『ストップ!!ひばりくん!』も『艶姿純情BOY』も読んでいる。
「らんま1/2の主人公が、泉に落ちたら、性別が変わる体質になってしまったということで。あの漫画が出た時、ナナさんが『これ私のことみたい』と言っていたそうです」
「ああ」
「らんまの場合は、水をかぶると女になり、お湯をかぶると男になるという体質だったようですが、ナナさんの場合は女になりっぱなしですね」
と美花さんは微笑みながら言った。
「ご主人が見ていた桜の夢というものですが、内容については聞いたことがありますか?」
「初期の頃、何度か話してくれたことがあります」
「どういうものでしたか?」
「満開の桜の下で、たくさんの人と宴会しているのだそうです。賑やかな宴会なので楽しいはずが、妙に寂しい感じがするのだと言っていました。そして、ふと気付くと少しずつ人数が少なくなっていくんです。それで最後2人になり、もうひとり残った人が自分を見て笑うのが、その笑顔が物凄く怖いと。大抵そこで目が覚めると言われました」
同じ桜の夢でもけっこう矢恵が見ているのとは内容が違う。やはり桜のモチーフがあり、そこから先、どういうビジュアルにするかは各々の解釈が入ってしまうのだろう。
「それで普通はそこで終わるのが、時々その残った人にお茶を勧められることがあるのだそうです。飲みたくないけど、飲まないといけない気がして飲んでしまうのだそうですが、その味がその日によって色々だと言っていました」
「なるほど」
青葉はここまでの話を簡単に年表にまとめてみた。不確かな部分を美花さんに確認しながら数字を埋めていく。
1918 曾祖母の大七(ナナ)誕生
1938 大七、徴兵検査甲種合格
1939 召集されて中国戦線に
1941 「女性なので」除隊して帰国。
1942 剣崎吉兵衛と結婚
1943 祖父・五十六生まれる
1974 五十六が麻理と結婚。五十六死亡。麻理は実家に戻って勝敏を産む。
1996 勝敏と美花が結婚
1997 恵矢(矢恵)誕生
2000 ナナ死去
2000 幸子誕生
2001 この頃から勝敏が桜の夢を見始める
2002 香文誕生
2003 勝敏が異変に気付く
2005 矢恵小学2年。幸子海で死亡。勝敏はこの頃から女性化進行。睾丸摘出。
2007 勝敏、胸が膨らみ始める。
2008 勝敏、陰茎消失
2009 勝敏、声変わり
2010 勝敏死去
2011 恵矢が桜の夢を見始める
2013 恵矢の男性器消失・女性器が出来はじめる
2014 恵矢、完全に女性化。
2015 戸籍を女性に変更し、名前も矢恵と改める。
青葉は尋ねた。
「勝敏さんのケース、そして矢恵さんのケースで身長には変化はありましたか?」
「どちらも縮みました。夫は身長174cmくらいだったのが、亡くなる直前頃は171cmくらいになっていました。矢恵の場合は、中学1年の時は172cmだったのが、高校に入った頃から縮み始めて、その当時も身長が縮むというのは何かの病気かも知れないから精密検査を受けた方がいいというお手紙を学校からもらっていたらしいのを、あの子全部握りつぶしていたみたいで」
「ああ」
「結局性別変更した頃は164cmくらいでした。その後、162cmくらいまで縮んで、後はその身長のまま安定しているみたいですね」
お父さんの場合は3cm程度で、身体の変化も矢恵の場合より穏やかだったようなのは年齢のせいだろうか。矢恵の場合は10cm縮んでいるが、ナナさんの場合は六尺が180cm, 五尺三寸は160cmだから、20cmも縮んだことになる。
青葉は言った。
「遺伝ということはないと思います。確かにAES アロマターゼ過剰症という病気はあって、生まれた時男の子だったのが、思春期くらいに女性ホルモン過多になって乳房が発達して、男性器が退化するものはあります」
「そういう病気があるんですか!」
「しかしそういう人は普通不妊です。子供が産めるということはあり得ないし、身長まで低くなったというのは、医学的には考えられないですね」
と言う。
「それにAESの場合は、起きるのがだいたい思春期の二次性徴が出る頃です。ナナさんのケース、矢恵さんのケースはありえますが、勝敏さんのように30代になってから起きるというのもあり得ないです」
「やはりそうですよね。あの年齢であれだけ変化するというが不思議だと当時お医者さんも言っていたんですよ」
「そして、年表を見ても分かるように、ナナさんが亡くなって1年ほどしてから勝敏さんの変化が起きています。勝敏さんが亡くなって1年ほどしてから矢恵さんの変化が起きています」
「やはり呪いですか?」
「現時点ではその線が濃厚です。そのナナさんが落ちた泉というのが気になりますね」
ともかくもその日は、その手帳の箱を預かって帰ることにした。
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