[携帯Top] [文字サイズ]
■春退(16)
[*
前p 0
目次 #
次p]
もうすぐ決勝が始まるという時に千里は車をチェックしていて、アクセルに違和感を感じた。
リーダーの人に言ってみる。
「この車、アクセルが少し重い気がするんですが」
「どれどれ」
と言って彼が運転席に座ってアクセルを踏んでみる。何度か踏んでいる内に言う。
「あ、これは確かにおかしい。別の車を使おう」
それで千里は今回クラブの3号車を使う予定(勝山さんが1号車)だったのを2号車に変更。その旨、レースの事務局にも連絡した。
「これ5〜6回に1回重くなるみたい」
とリーダーが言う。
「よく気づいたね」
「予選で走った時も、直線に入った時の加速が遅い気がしたんですよ。私の踏み込み具合が弱すぎたのかなと思ってたんですが」
と千里が言うと
「あ、それは私も感じた」
と同じ車を使った鹿美さんも言う。
「直線の加速くらいならいいけど、カーブ曲がる時にこの現象出たら危険だな」
「必要なところでちゃんと加速できないとコース逸脱しかねませんね」
「100km/h程度の走行までは大した問題ないけどね」
「戻ってから整備しよう」
やがて決勝が始まる。1回目の走行では勝山さんは2位に入る快挙でクラブのメンバーから歓声があがる。千里は取り敢えず順位を認定してもらうため、きちんと完走することを目的に走ったこともあり8人中7位であった。
2回目の走行。勝山さんは1回目より少し早いタイムだったが、他にタイムを上げた人がいたので4位相当まで落ちてしまう。8人中最後に走ったのが千里であった。
気持ちをニュートラルにする。コースの線形は全て頭に入っている。試走も含めて既に4回ここを走っていることから、身体が走行パターンを覚えている。自分の限界をきちんと意識した上で、その限界を微妙に超える所までアクセルを踏み込む。正確にコーナリングのための位置取りをする。前半続く急カーブをぎりぎりの速度で走り抜ける。
そして直線で思いっきりアクセルを踏む。スピードメーターは軽く200km/hを超え更に上昇していく。どこか別世界にでもいるかのような独特の浮遊感。しかしその感覚は10秒ほどで終わる。少し減速してカーブを曲がる。3つ連続でカーブを曲がったあと、ゆるやかに円形に曲がっていくルートを走り、最後のホームストレートを思いっきり速度を出してゴール。
タイムは何と3位に入る快走だった。
降りてタイムを見て千里自身びっくりしていると、鹿美さんが抱きついてきた。
「千里ちゃん、すごーい!」
「勝山さん、ごめんなさい。抜いちゃった」
「いや、いいよ。凄くいい感じで走ったね」
「はい。私自身もこんなにうまく走れるって凄いと思いました」
表彰式で表彰台に立ち、銅メダルを掛けてもらう。クラブのメンバーたちの方に笑顔で手を振った。
こうして千里は今年2度目の順位認定を受け、国際C級ライセンス申請の条件が揃ったのである。
「ちー姉、すごーい。3位に入ったんだ?」
「取り敢えず国際C級ライセンスの申請は出した。この後、私は毎年14000円JAFに払い続けなければいけないけどね」
「毎年レースにも出ないといけないんだっけ?」
「C級ライセンスの場合は必要ないんだよ。でも楽しくなっちゃったから、年に1〜2度は出るかもね」
「そういうのもいいね〜」
「青葉は連休明けに卒業試験でしょ? 頑張ってね」
「うん。でもあまり馴染みの無いコースを走るんだよね。建前ではその場で地図を渡されて走るということになっているものの、その地図自体は他の教習生からコピーをもらった」
「そういうのって、ずっと教習生の間で伝えられていくよね」
「そうそう。一応地図は読んだんだけど、なんかちょっと不安。一応見極めを兼ねた最後の実車では、そのコース近辺の走行もあるらしいんだけど」
「歩いてみればいいんだよ」
と千里は言った。
「歩くの?」
「そうそう。私が出たレースでも、走行前にみんなでコースを歩いたんだよ」
「へー!」
「走るだけでは分からないものが、歩いてみると結構分かるんだよ」
青葉は考えた。
「それ思考の盲点だったかも知れない」
「車の運転の経験の無い人、レース出場の経験の無い人がコースを歩いても実はよく分からない。私も5月に北海道のレースに出た時は、やはり事前に歩いてもピンと来なかったんだよね。でも今回は2度目のレースだったから。歩いていてかなり実走する時のイメージがつかめたんだよ」
「なるほどー」
「青葉も実際卒業試験のコースを歩いてみなよ。卒業試験って何度右折があって何度左折があってって決まってるじゃん。ここで右折するぞ、直進車優先!とか、ここで左折・巻き込み注意!とか現地で考えると、実際に運転した時に慌てないと思うよ」
「それ明日にもちょっと教習時間の合間にやってみるよ」
それで青葉は翌日、実際に教習の合間に、タクシーで試験の行われる地区に出かけ、実際の候補コース3種類を全部歩いてみた。この3コースのどれかが試験当日、その場で指定されることになる。
そして再びタクシーで自動車学校に戻っている最中、青葉は唐突に思いついた。
例のJ市の「クラクションの怪」の場所、あの長い直線から消防署前のカーブに至るところを水城さんの車に同乗して走ってみたけど、よく分からなかった。あそこを歩いてみたら何か分からないだろうか?
青葉は時間が取れ次第、行って試してみたくなった。
9月21日午後、千里は品川プリンスホテルに向かった。この日の夕方からバスケ女子日本代表のオリンピック出場権獲得祝賀会が開かれるのである。
選手控室に集まって揃いのスラックス・スーツを着る。リボンフラワーの付いた名札をつけ、金メダルを掛ける。
「さすがに金メダルを無くしたという人はいないな?」
と蒔田優花が言う。
「そんな人、いるんですか?」
「昔の話だけど、藍川真璃子さんは世界選手権で準優勝した時の銀メダルを1ヶ月で紛失したらしい」
千里は思わず吹き出しそうになった。
「あの人、そんなにドジなのか」
と江美子が呆れたように言う。
「いやマジであの人は結構抜けてる」
と玲央美も言う。
「そうか、玲央美んとこの名誉監督か」
「来年からうちは運営会社設立して独立会計になるんで、その新会社の社長に就任予定」
と玲央美は言う。
「お、もしかしてジョイフルゴールドはプロチーム化?」
「今でも全員契約選手で、社員選手は居ないけどね。だから運営会社を設立して、今後ファンクラブ作ったり、地域交流とかもやっていくということ以外ではあまり変わらないと思う」
「いや、実業団に居るにはもったいないチームと思ってた」
と武藤博美が言う。
「いや当面は実業団に居る。Wリーグは数年後かな」
「へー」
「だから来期の実業団からWリーグへの昇格はバタフライズだけ。今いくつかのチームを将来のWリーグ入りのためプロ化を進めているみたいね。会長が女子の強化についてもあれこれ手を打っているみたい」
「なるほどー」
17時から始まった祝賀会では、その川淵会長の挨拶、山野監督、妙子主将の挨拶などがあり、選手12名とコーチングスタッフなどに1人ずつ報奨金の目録が会長から手渡された。報奨金が出るらしいという話は聞いていたのだが、金額を見たら選手1人50万円ということなので、千里はびっくりした。
「すごーい!こんなにもらえるんだ?」
「うん。私もびっくりした」
と玲央美が言っている。情報通の彼女も知らなかったというのは多分直前に会長主導で決めたんだろうなと千里は思った。
妙子主将やMVPを取った玲央美、3P女王の亜津子などがインタビューされている。千里はそれを笑顔で眺めていた。
「千里もああやってインタビューされてみたい?」
と江美子が訊く。
「その質問はそのまま江美子に返そう」
と千里は言う。
「でもむしろ高校時代は地元記者に随分インタビューされたけどね」
と江美子。
「私もそれは随分経験したなあ」
と千里も言う。
しかし会場にはけっこうな数の報道陣が集まっていた。千里はこれだけ多くの報道陣がいる所に来合わせたのは、鍋島先生の通夜・葬儀の時以来かも知れんなあと思っていた。もっともあの時は今日の10倍くらいの報道陣が居た。千里は音楽関係のイベントにも招待状はもらってもあまり出席していない。
しかし、某ファッション雑誌の記者がひとり千里を認めて近づいてきた。
「醍醐春海さんですよね?」
「ここでは本名の村山千里ということで」
「焼きそば投げのパフォーマンスも1度見ましたが凄いですね」
「まあボールをゴールに放り込む余技ですね」
「私、バスケットの方はあまりよく分かってなくて、お昼すぎに行って来いと言われて慌てて出てきたんで資料もあまり見ていなかったんですが、村山さんは直前に追加招集されたんですね?」
「そうなんですよ。20年にわたって代表を務めてきた三木エレンさんが本戦の直前に引退なさったんで、緊急招集されたんですよ。私なんて三木さんの足下にも及ばないのに。取り敢えず3試合だけ使ってもらえて何とかゴールも決められたので良かったです」
「あぁ、ゴールも決められたんですね。良かったですね。じゃ次は全試合出してもらえるように頑張りましょう」
「ありがとうございます。オリンピックで使ってもらえるか分かりませんけど、使ってもらえたら全試合出してもらえるように頑張ります」
と千里が言うと、記者もメモしながら頷いていた。江美子が隣で微笑んでいた。
「ところで実は誰にインタビューしていいか分からなくて。村山さん、お勧めはありませんか?」
と記者は小声で訊く。
「それはやはり広川主将と、チームの中心の佐藤・花園にポイントガードの武藤、センターの金子ですよ」
と千里は教えてあげる。
「ありがとうございます。村山さんは今回初めてのフル代表だったみたいですけど、目標にしている選手とかありますか?」
「男子ですけど、アメリカNBAのマイケル・ウィリアムズ選手ですね。やはりシューターなんですけど、ファウル受けて倒されたのに床に転がりながら片手でシュートして3ポイント決めたりしてるんですよね。物凄い筋力とゴールセンスの持ち主だと思います。彼は昨シーズン新人王を取りましたけど、これからきっとNBAの中心的スター選手になっていくと思います」
と千里が言うと江美子は「ほほぉ」という顔をしていた。
「へー。男子なんですか。村山さん男子に性転換してNBAに参戦するとかは?」
「ああ、それもいいかも知れませんが、私が男の子になっちゃったら、彼氏が困るかも」
「ああ、それは困るかも知れないですね」
と言って記者も笑っていたが、江美子は呆れていた。
[*
前p 0
目次 #
次p]
春退(16)