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■春拳(19)

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それで青葉は助手席で自分を深く眠らせる。そして彪志に起こされた時に時計を見ると2:55であった。
 
菅生PAである。
 
「えっとね。車はあっちの端に駐めて。うん。そのあたり。それで向きはそっちを向けて」
と青葉は《雪娘》の波動が伝わっている方角を確認しながら車の向きを指示する。彼女が向こうにいることで正確な方位が分かる。車は駐車枠に対して斜めになり、2台分の枠を使ってしまうがやむを得ない。深夜なので駐まっている車が少ないのが救いである。青葉は助手席の窓を全開にした。
 
千里からメールが来ている。2:30頃病院に到着したということだった。《雪娘》の居る場所との距離をだいたい測る。19kmくらいかな。ここからなら行ける。ここはもう仙台市の隣、村田町である。
 
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「彪志、エンジン切って」
「うん」
「そのまま運転席で少し仮眠しておいてくれない?私、助手席から操作したいから」
「OK」
 
青葉は千里に電話をした。
「ちー姉、どんな具合?」
「はっきり言ってやばい」
「やはりね〜。ここまだそちらまで距離で19km, 道のりで50分くらいあるんだよ。でもここから操作するから」
 
19kmというのは東京駅−三鷹駅間、大阪駅−高槻駅間くらいの距離である。
 
「よろしく。こちらは全チャンネル開けるから」
 
と千里が言うと、青葉の目の前に妊婦さんがいるかのようなビジョンが現れる。すげー!さすがちー姉と思う。京平君の受精卵着床の時もまるで手に取るような感じだったが、あの時より更にパワーアップしている。
 
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陣痛間隔がまだ長いので妊婦さんは病室にいる。和実が妊婦さんのそばに付いているが、看護婦さんは席を外しているようだ。淳、千里、それになぜか冬子と政子まで廊下にいる。
 
青葉は《雪娘》に妊婦さんのそばに行くように言った。彼女がそこにいることでこちらは妊婦さんにパワーを与えやすくなる。
 
『青葉、妊婦さんの中の胎児の感覚が遠いよ』
と《雪娘》が言う。
 
それは千里から送られてくるヴィジョンでも感じられる。青葉はこの赤ちゃんの『存在感』が物凄く小さいことを認識した。
 
このままでは最悪赤ちゃんが蒸発!?よくても死産の可能性が高い。
 

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車が止まった感覚に桃香が目を覚ましたようである。
 
「あれ?着いたの?」
「まだ40kmくらい先だけど、もうすぐ産まれそうなんだよ」
「あと40kmかぁ。青葉は上品な運転するからなあ。私が運転してれば間に合ったのに。最近はオービスの場所もスマホで分かるから安心してスピード出せるし」
 
「桃姉、お酒飲んでるから無理」
「それは言えるな」
 
桃姉が運転したら、みんなで天国に行っちゃう、とはさすがに青葉は言えなかった。
 

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「もうすぐ赤ちゃん産まれそうなんだけど、男の子だと思う?女の子だと思う?」
と青葉は桃香に尋ねる。
 
「そうだなあ。きっと和実に似て可愛い女の子だよ」
「へー」
 
この瞬間、青葉は代理母さんのお腹に居る赤ちゃんの《存在感》がかなり上昇したのを感じた。
 
千里姉も今起きた変化に気付いたような顔をしている。
 
さっすが桃姉!
 
「将来どんな子になるかなあ」
「和実に似たら、きっとスタイルもよくて歌もうまくて、アイドルにでもなれるくらいかもね」
「へー」
 
「淳に似ると学校の成績はあまりよくないかも知れんなあ」
「そうかな」
 
「親が親だから仕方無いけど、あまり親孝行は期待しない方がいいぞ」
「うんうん」
 
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青葉は桃香と赤ちゃんのことで会話していく度に、妊婦さんのお腹の中の赤ちゃんがどんどん存在感を増していくことを感じていた。そしてそういう会話を15分ほどもしていた時、『カチリ』という感じの音がするのを聞いた(ような気がした)。青葉は赤ちゃんが完全に「こちらの世界」に来たことを確信した。千里も青葉の方に向き直って頷く。
 

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和実や千里姉はこの赤ちゃんは《Complete Heyting Algebra》的に存在していると言っていた。青葉にはその精密な意味づけはよく分からないものの、存在がとても曖昧であるというのは分かっていた。そもそも男の娘から卵子を採取するという摩訶不思議な現象から出発している。しかし曖昧なものを嫌う桃香姉の言葉が、0と1の間で不安定に存在していた赤ちゃんの、存在真理値を「1」にしてしまったのである。
 
桃姉はシュレディンガーの猫の箱を開けた。
 
むろん猫は生きていた。
 

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『子宮口が全開になった』
と《雪娘》が報告する。和実も気付いたようでナースコールする。助産婦さんが急ぎ足で入って来て、分娩室に行きましょうということになったようである。
 
青葉は時計を見た。3:21と数字がきれいに並んでいた。
 
その数字の並びを見て微笑む。霊感のある人間はこういうきれいに数字が並んだ時刻を見やすい。青葉は少し疲れを感じたので、いったん千里とのチャンネルを閉じた。
 
桃香が「トイレに行くの忘れてた」などと言って車から降りる。それでコーヒーを3つ買ってきた。
 
「ありがとう」
 
彪志も目を覚ましてコーヒーをもらって飲む。桃香はコーヒーを飲んでいる内にかなり目が覚めてきたようで
 
「お腹空いた。スナックコーナーは開いているみたいだったから、朝御飯食べに行かないか」
と言う。
 
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「私は『お仕事』してるから、桃姉と彪志は御飯食べてきて」
「OKOK」
 
それで彪志と桃香が降りていく。青葉は5分くらい仮眠した上で、再度千里にチャンネルをつないでもらい、妊婦さんと赤ちゃんのサポートをした。時刻は3:33である。
 
赤ちゃんは産道に半分頭を突っ込んでいる。これから回旋しながら出てくることになる。青葉は妊婦さん、そして出てこようとしている《女の子》に全力で気を送り続けた。
 
和実が分娩室の中で妊婦さんの手を握っている。青葉は妊婦さんの空いている方の手を《雪娘》に握らせ、そこを通してパワーを注いでいく。
 
結構な時間が過ぎていく。妊婦さんも頑張っているが、青葉もかなりパワーを注ぎ込んでいて、まるで自分が出産しているかのようである。実際青葉は自分の女性器付近にもけっこうな痛みを感じていた。
 
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あれ〜。前にもこんな感じの痛みを感じたぞ、と思ったが、京平君の出産の時にもこんな痛みを感じていたことを思い出した。私、もしかしてこれが2度目の出産になるんだったりして、などと青葉は思った。
 

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「おぎゃー!」
という声が青葉の耳に本当に聞こえた。
 
青葉は脱力した。
 
赤ちゃんを助産婦さんが抱いている。へその緒を切る。そして最初に和実に渡す。和実が嬉しそうな顔をして赤ちゃんを抱いている。そして助産婦さんに戻してから、和実は代理母さんとしっかり握手をした。代理母さんも疲れた顔をしつつも元気な様子である。
 

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「青葉、お腹すいてないか?」
と桃香が声を掛けてきた。
 
「赤ちゃん産まれたよ」
と青葉が言うと
 
「おお!」
と彪志と桃香が声をあげた。
 
「あと少しサポートを続ける。その後で病院に行こう」
「うん」
「じゃ、何か買ってきてあげるよ」
 

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青葉は桃香が強引にテイクアウトしてきたカレーライス、それにカップ麺やスナック菓子などを食べながら、30分ほど、赤ちゃんと代理母さんとに気を送り続けた。
 
代理母さんも分娩室を出て病室に戻る。赤ちゃんは新生児室に連れて行くが、その前に代理母さんにも1度抱かせた。
 
5時前に千里の実況中継?が終了する。
 
千里が電話を掛けてきて「ありがとう。お疲れ様」と言った。
 
「ちー姉もお疲れ様。ちー姉、このあとどうするの?」
「私はすぐに病院を出る。合宿所に戻らないと」
「車で戻るの?」
「それでは間に合わないから新幹線。朝6:36の《はやぶさ》に乗る。8:07東京着」
「お疲れ様!」
 

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桃香が「もうさすがに酔いが覚めたから運転は任せて」と言って運転席に座り車は35分ほどで病院に到着した。カーナビは44分という表示だったのだが。
 
「ほら、もう着いた。カーナビの所要時間をだいたい2割くらい引いたのが実際の所要時間だよ。私がお酒飲んでいなかったら最初から運転してあげられたのになあ」
などと桃香は言っている。
 
千里・冬子・政子は矢鳴さんの運転するアテンザで既に病院を出て仙台駅に向かっている。千里も合宿中だが冬子と政子もタイトなスケジュールで動いているようだ(アテンザはその後、矢鳴さんが東京に回送する)。
 
青葉・彪志・桃香は和実に用意された病室に入り赤ちゃん誕生を祝福した。
 
「青葉たちも来たんだ!」
と和実は驚いていた。
 
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「女の子だったみたいね。名前は?」
「希望美(のぞみ)にする」
と言って、名前を書いた紙を見せてくれた。
 
「ああ、名前決めていたんだ。性別は分かっていたの?」
と桃香が訊くが
 
「女の子なら希望美、男の子なら希望海で、どちらでも《のぞみ》にするつもりだった」
と言って、もうひとつの命名の紙も見せてくれた。
 
「まあ男の子だったら、おちんちん切ってもらって女の子にしちゃう手もあったけどね」
 
ああ、切られなくて良かったね。桃香のおかげかもね、と青葉は思った。
 
その後一緒に新生児室に赤ちゃんを見に行き、しばらく「可愛いねぇ」「やはり和実に似てる気がするよ」などと言って鑑賞していたものの、桃香がここでもう時刻が6時近いことに気付く。
 
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「しまった。会社に行かなくては!」
と桃香。
「あ、僕もだ」
と彪志。
 
「実は私も外せない打ち合わせがあって」
と淳まで言う。
 
それで青葉は3人を送って仙台駅までフリードスパイクで走った。3人は何とかぎりぎり始発の新幹線に乗ることができたようである(千里や冬子たちと同じ新幹線だが、千里たちは熟睡していたようで連絡が取れず、桃香たちと千里たちは車内では会えなかったようである)。
 

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