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■夏の日の想い出・龍たちの讃歌(22)
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千里が仙台の若林公園内に建設していた“ツイン体育館”牽牛と織姫は予定をかなり遅れて8月下旬に竣工した。
深川アリーナや火牛アリーナで色々試行錯誤し、また4月に建てたクレール若林店2号館での実験なども踏まえた上で、この2つの体育館には最高の感染防止対策がなされており、テープカットしたあと内部を見学してまわった仙台市関係者や、現地のスポーツ関係者も、そのシステムに感心するというより驚いていた。
「感染防止以前にコロナをシャットアウトする感じですね」
「そうです。感染を発生させず、ウィルスを漂わせず、感染者を入場させずです」
「非核三原則みたい!」
「あちらは抜け穴が多すぎて」
元々は防音のためだった二重壁を逆に換気のために使用し、ライブをする時は内側のドアや窓などを開放して演奏する。強制換気された空気は若林店2号館のために作った浄化システム(の処理能力を増強したもの)で処理し無害化してから排出する。これに予約制による人数制限、入場時の検温、更にはスタッフは簡易検査キットによるチェックをおこなうなど、徹底した対策をとる。
クレール若林店2号館と同様に、天井に空気の吹き出し口、床に吸気の仕組みを作っている。床は小浜のミューズアリーナを参考にした二重床で、床板は火牛アリーナで使用した孔空き床板のみでなく、小浜で導入した“木製グレーチング”も使用している。網状になっていても、端は丸く加工し表面を樹脂でコーティングしているので、そこで回転レシープなどしても安全な造りになっている(一応グレーチングブロックはコート外にしか使用していない)。それで、ここの空気は原則として上から下へ流れ、横の空気の移動が少ないので万一ウィルスの保菌者がいても、他の人には伝染しにくい。また体育館をアクリル板で区切った状態では各々の区分単位で空気が循環するので万一クラスターが発生してもそのブロックのみに留まる。
そもそも誰かが使用した後は、清掃班がきれいに清掃・消毒した後でないと他の人には貸さない。この作業をする清掃班の主力は(消毒用に改造した)ルンバ隊である!システム稼働のために使用する電力の大半は体育館の屋根に並べた太陽光発電パネルが生み出す(むしろ余る)。
ただしもう少しコロナの落ち着きが見え出すまでは、ライブや物産展などの開催申し込みは受け付けない方針である。スポーツの練習と大会のみ受け付ける。
当面赤字運用になるが、千里は「まあ1〜2年は仕方ない」と言っていた。もっとも採算は最初から考えられていない気もするが!?
教頭先生と校長先生は、セーラー服の少女とその両親をにこやかな笑顔で迎えてくれた。
「ああ、徳島から引っ越してこられたんですね」
「はい。急な転勤だったもので、こちらでの住まいとかも決める暇も無く、取り敢えず出て来たんですよ、この子の姉が東京に住んでいたので、そこにいったん仮住まいして住む所を探していたのですが、結局深沢に住むことになりまして」
「深沢何丁目ですか?」
「*丁目です」
「だったらこの学校でいいですね」
「ただ、そこはこれから建築されるらしいので来年の春くらいまでは用賀に仮住まいするんですよ」
「そちらも近くですね。ちなみに用賀は何丁目ですか?」
「*丁目です」
「すみません。*丁目の?」
と言われたので、その住所のメモを提示する。
「ああ。この番地なら、やはりこの中学でいいです」
「区役所でも詳しく聞かれたんですが、校区境界が細かいんですね」
「そうなんですよ。だから隣に住んでいるのに別の学校になったりすることもあるんですよね」
「難しいですね。ただその用賀の仮住まいも住めるようになるのが来週なので、それまでこの子の姉の1Kのマンションに無理矢理同居している所で」
「ああ。お姉さんが東京にお住まいだったんですね」
「そうなんですよ」
「ご家族はそのお姉さんとこちらの妹さんの2人ですか?」
と言われて“妹”は少しドキッとした。まだ“妹”と言われ慣れていないので心理的に開き直りができないのである。
「もうひとり一番上の姉がいるのですが、その子は徳島のほうの大学に通っているので、実家に1人置いてきました」
「なんか大変ですね!」
「でも女の子3人なんですね」
「ええ。嫁にやる時が恐いです」
書いておいた家族表を提出する。
「おや、お姉さんは赤羽のC学園に通っておられるんですか?」
「そうなんですよ。実は芸術コースなんです。あの子ヴァイオリンを弾くものですから。そこに入るのに徳島から出てきて単身でマンション住まいしてたんですよ」
「それは将来が楽しみですね」
「芸術コースは狭き門だけど普通科なら入れてもらえそうだったので、お前もお姉ちゃんと同じC学園に行く?と聞いたら、共学の方がいいと言うものですから」
「ああ。女子校には独特の雰囲気がありますしね」
と教頭は言ったが、本人はまだドキドキしていた。
教頭と校長は、この区立中学校のことについて色々説明してくれた。教科書などはすぐ手配して、新学期から使えるようにしてくれるということである。
「今年は8月24日から新学期が始まりますので」
「どこも変則的になってますよね。それでまだ住まいも仮住まいのままなのですが学期が始まる前にと思って今日お邪魔したんですよ」
「みんな大変ですよね」
「制服は、こちらのお店で作っていただけますか」
と言ってプリントされた紙をもらう。
男子制服はお店は定めず常識的な黒の学生服なら良いと書かれているが、女子制服は下記のお店でと書かれている。
「分かりました」
「女子は制服が学校ごとに違うから大変ですよね」
「そうですよね。男子は大抵学生服で済むのに」
それで、学校からの帰り、両親と一緒に指定店に寄って採寸してもらい、女子制服を注文した。
「本当に公立でよかったの?」
と母は再度“娘”に尋ねた。
「お姉ちゃんの話聞いてると、私、女子校は絶対無理。すぐ性別バレちゃう」
「女子校ってスキンシップすごいみたいだもんね」
と母も言った。
「それともいっそ学校始まる前に性転換手術しちゃう」
「あれ予約してから何ヶ月も待つみたいだよ。手術希望者が多いから」
「そんなに性別を変えたい人が多いんだ!」
と母は驚いていた。
8月14日(金)、映画『ヒカルの碁』の撮影は、クライマックスにさしかかろうとしていた。
この日は、プロ試験本選中盤の“事故”が描かれる。
ヒカルは院生No.2の伊角と戦っていた。ここまで伊角と越智が全勝。ヒカルは大島だけに負けて1敗である。ヒカルとしては今日伊角さんに負けると、2敗になり、先の対戦相手に院生順位1位の越智もいることを考えると苦しい。合格は上位3人だから順当に行くと、全勝・1敗・2敗までが絶対安全圏、3敗以下は運次第である。
伊角は考えた。こいつは本当に凄い勢いで成長してきた。しかしまだ自分の方が上だ。慎重に戦いを進める伊角にヒカルは敗色濃厚で苦難の表情である。
一方、自分の対局を勝利で終えた越智は、伊角とヒカルの対局が気になり、そちらをモニターしてみる。「ふたりとも物凄く時間を消費してる。でもこれは、もう勝負ついてる。もうすぐ進藤が投了するな」と思い、他の対戦者の対局の観覧に切り替える。
持ち時間がどんどん過ぎていく。ヒカルは必死に挽回方法を考える。ダメだ。勝てない。でもこの対局を落とすと物凄く辛い。ヒカルはほとんど思考停止ぎみになりながら、自分の持ち時間が残り僅かになっていくのを見ていた。ひとつの手がひらめく。可能性は薄いけどやってみる価値はあると思った。それでその手を打つ。
すると伊角は「そんなことしても無駄だ」と思い、遠慮無くヒカルの石をアタリ(次の1手で相手の石を取り上げられる状態)にしようとした。ところがタブレットの変な所に指が触れてしまい、あり得ない場所に石を打ったことになってしまった。
しまったぁ!タップミス!と思って、つい「待った依頼」のボタンを押してしまった。
へ!?と思ったのはヒカルである。そもそもあり得ない場所に伊角さんの石が打たれた。それに驚いたところで、待った依頼??
ヒカルは考えた。
待った依頼を承諾する場合は20秒以内に「承諾する」のボタンを押せばよい。しかし本来、待った依頼には応じる必要は無い。そもそも待ったは反則である。これは一般のネット碁のシステムを利用しているから、そういうボタンが付いているけど、プロの対局や、それに準じるプロ試験の対局で使ってよい機能ではない。ここで自分が「承諾しない」を押すか、または20秒放置すれば、この「待った」は拒否され、伊角さんの明らかに間違ったクリックが有効になる。そうなれば今自分が打った石が生きてしまい、この局面は完全に逆転する。そしたら勝てるかも知れない。
一方の伊角の方は顔面蒼白になっていた。
進藤のあまりに早い成長のことをあれこれ考えていて、この対局がプロ試験であるという認識が一瞬飛んでしまった。それで普段のネット碁でタップミスした時の感覚で反射的に「待った依頼」ボタンなど押してしまった。これは反則だ。リアルの対局なら「待った」は即負けである。どうする?
時間が過ぎていく。
進藤は「承諾」ボタンを押さない。
伊角は減っていく数字を見ていた。
10 9 8 7 6 5
と進んだ所で、伊角は投了ボタンを押した。
そして「ありがとうございました」のメッセージを送る。進藤からも少しあって「ありがとうございました」のメッセージが帰ってきた。
他の人の対局を観覧していた越智は、伊角さんと進藤の対局が終わったことに気付いた。ああ。進藤が投了したか、と思ったのだが・・・
進藤の中押し勝ち!?
馬鹿な!どうしたらあの局面から、そんな大逆転が起きるんだ!??
越智は訳が分からない思いだった。
しかしこの日の対局は、進藤・伊角双方に深刻な心理的動揺を与えた。
ヒカルは悩んでいた。なぜ自分は「承諾する」ボタンを押さなかったのだろう。あれは単純なクリックミスだ。そんなのは即承諾して、普通に打ち進めば良かった。それでもあの時ひらめいた手で勝てたかも知れなかったのに。
自分を責める気持ちの中でヒカルは対局に集中することができず、翌日の福井との対戦を落としてしまった。せっかく昨日強敵の伊角さんに勝って1敗を守ったのにこれでは昨日の幸運?な勝利が台無しだ。
対戦が終わってからヒカルは叫んだ。
「俺が弱いからだ。弱いからあそこで伊角さんの待ったを承諾しなかったんだ」
そしてイライラをぶつけるように枕を壁に叩き付ける。
佐為はヒカルを真剣なまなざしで見詰めながら言った。
「ヒカル、あの対戦の続きを打とうよ。私が伊角さんの分を打つ。それであの対局を最後まで打って、心に決着を付けよう」
それでヒカルは碁盤を出してきて、あの一局を並べて行った。そして中断した所から先を佐為と打ち続けたのである。ヒカルは誓うように言った、
「二度と昨日や今日のようなみじめな対局はしない」
ヒカルはこの佐為との一局で心の整理がつき、翌日から連勝を続けた。しかし伊角はヒカルの翌日の和谷、更に翌日の福井にまで負けて3連敗。そして明日は院生順位1位の越智である。
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