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■春産(14)
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鈴子はおむつを取り外してから、新しいのを手に持ったまま、たっぷり3分くらい固まって《そこ》を見ていた。
その時電話がある。優子からである。
「退院したんだっけ?」
「うん。さっき退院して自宅に戻った所」
「弓絵ちゃんも元気? 弓絵ちゃん体重もあったし、たくさんおっぱい飲むでしょ?」
「それなんだけどさ」
「うん?どうしたの?」
「最近の女の子って、おちんちん装備した子もいるのかなあ」
「うーん。そういう子は割とけっこう居るよ。まあ信次は女装疑惑もあるけど、あいつはただの女装趣味のゲイであって、トランスジェンダーではないのだけどね。知らない?桃香がもう4年くらい同棲している子が元男の娘だよ。手術済みで今は完全に女の子になっちゃったらしいけどね。1度会ったけど凄い美人さんだった」
「あ、それは知らなかったかも」
「でも、それがどうかした?」
「私、目がおかしくなったのかなあ。弓絵におちんちんが付いているように見えるんだけど」
「何〜〜〜!?」
8月30日、9月9日からテヘランで行われる「2016 FIBA ASIAチャレンジ」に出場するバスケット男子日本代表12名が発表された。貴司もここに選出されていた。貴司は国際大会での数字的な実績は無いものの、昨年10月中国で行われたアジア選手権の準々決勝カタール戦で試合をひっくり返す重要な得点を入れて、大いに注目された。その時のプレイがあまりに印象的だったので、写真集まで制作されている。
貴司たち日本代表は9月1日から東京北区のNTCで合宿に入り、6日にイランに渡る予定である。
千里は発表があった後、すぐに貴司におめでとうメールを送っておいた。ところがこの日、貴司は自分のスマホを自宅に忘れて行っていた。それでこの着信に気付いたのは阿倍子である。
普通ならメールが着信しても放置しておくのだが、鳴った着メロが『365日の紙飛行機』であるのに反応した。阿倍子はその着メロは千里からのメールであることに気付いている。
嫉妬の炎が頭の中で燃え上がるのを感じる。貴司はスマホをPINコード数字4桁でロックしているが、そのロック番号は京平の誕生日0628である。それで阿部子はロックを解除し、メールを開いてみた。
《日本代表選出おめ。合宿は1日から?だったら31日に来るのかな?今回は私は大会で東京を離れていて手合わせできない。残念。ローズ+リリーのケイが貴司に頼みたいことがあるらしい。悪いけど合宿所に入る前に恵比寿のマンションに寄ってくれない?電話番号は***-****-****。じゃ、テヘランでの活躍を期待してる》
阿倍子は当惑した。
千里さんから貴司へのメールなら、もっと色っぽい内容の物を想像した。しかしこれは何だ?ほとんど社内連絡メールである。顔文字とか文字絵とかも使われていない。用件を羅列しただけだ。とても恋人に送ったメールには見えない。友だちに送るメールだって、もう少しレトリックを使いそうなものである。
阿倍子は悩んだ末、そのメールを閉じて未読に戻した上で削除したりはせず、電源ボタンを押してスリープさせた。
31日朝。青葉は早紀と電話がつながり、向こうの被害状況がかなり分かる。今回の台風の被害は岩泉町とその隣の宮古市に集中しているようだ。
早紀の話では、大船渡では全市民に避難勧告は出たものの、海抜の低い所に住んでいる人たち以外は、だいたい避難もせずに自宅にいたらしい。ただ、携帯は全滅して夜中過ぎまで復旧しなかったらしいし、一時はNTTの固定電話もつながらなくなったものの、そちらは携帯より先に復旧したと言っていた。
「あとは港湾設備がやられて復旧に数日かかるみたい。それとやはり海岸近くの家では、床下浸水とかの被害が出たみたいだよ」
「情報ありがとう。でも早紀たちが無事で良かった」
「お見舞いは歓迎」
「じゃ、交通状況とかが改善してから、お菓子か何かでも送るね。それともお酒とかがいい?」
「椿妃は結構飲むけど、他の子はだいたい法律を遵守している」
「ふむふむ」
この日も青葉たちは午前中と午後に2時間ずつ練習をした。
午前中の練習が終わってお昼を食べていた時、佐竹慶子から連絡があった。
「いや、参りました。私、盛岡に行っててよかったみたい」
「浸水してました?」
「床上浸水です。私、ぼんやりしてるから身体まで水浸しになるまで気付かなかったかも。お布団とか、座布団とかが全滅。台所の床に直接置いていた野菜とかもアウト。布団は敷きっぱなしにしていた私が悪いけど。資料室の書籍の類いやサーバーはラックに載っているので全部無事です。祭壇も下の方だけ掃除すれば問題無いです」
「サーバーは生きているなというのは、こちらからも確認してました」
「例の封印も無事です。封印埋めている場所には嘘みたいに土砂がたまってないんですよ。そこ以外は掃除が大変そうなのに」
「わあ、お疲れ様です」
「それで思ったんだけど、サーバーも書籍類も平田さんちに移動したらどうだろう?ここやはり低地で危ないし」
と慶子は言う。
ここの資料室に置いている書籍類は震災の時に全失したのだが、その後再入手可能なものは買い直したり、再入手不能なものは、同じ本を持っている知人のものをコピーさせてもらったり、スキャンデータから再印刷して製本したものもある。スキャンデータもサーバーごとやられたが偶然にも震災の直前に菊枝がデータのコピーを取っていたので、彼女のデータから復旧したのである。手書き本などもだいたいスキャンデータからの復旧になった。竹内文書の底本?かもと竹田さんが言っていた、複数の筆跡による手書き草稿のコピー本とか、出口なおの“お筆先”を簡易印刷した本で、戦前の国家弾圧により大本教の本部でも失われた貴重な本などもスキャンデータとして残っていた。
これらの本がここにあるのは、この佐竹家に《祭壇》があるからで、祭壇がここにあるのはこの土地に《封印》があるからで、この封印を他の場所に移動することは(少なくとも青葉には)不可能である。
書籍類を移動させる場合、その移動先にも何らかの霊的な《仕掛け》を作る必要がある。この件は瞬嶽師匠亡き今、瞬高さんあたりに相談しないと難しいなと青葉は思った。
「あそこ光ファイバー引けますかね?」
と青葉は訊いた。
「言えば引いてくれると思う。一応サービス地域のはずだし」
と慶子。
平田家は大船渡市と住田町の間の山の中にある。いちばん近い「お隣」まで300-400mほどある孤立した家である。標高は200mを越えており、少々巨大な津波が来てもここまで被害が及ぶことは無いだろう(*1)。
「じゃ、ちょっとその方向で進めてもらえます? 物理的な移転の費用は全部出しますし、霊的な処理に関しても研究してみます。それと、今回のそちらの床上浸水の被害についても復旧に掛かる費用は私が出しますよ」
「すみません。それしてもらうと助かります。お金無いのにどうしようと思った。取り敢えず畳が使えないから今夜は押し入れの上の段に寝ます」
「お疲れ様です! 復旧に時間がかかりそうだったら平田家で寝て下さい」
「あ、そうさせてもらうかも」
「真穂さんのアパートの件はどうなりました?」
「私が、こんな急に出てと言われても困ると主張したら、やはり24の娘とでは対応が違ったみたいで、出るのは年内まででいいことになりました。それと敷金は全額返す上に、家賃4ヶ月分の立ち退き料を払ってくれることになりました。そのお金は来月もらえるので、そのお金で新しいアパート探して敷金と引越の費用に充てようと話しています」
「それだけもらえたら、こちらも赤は出ないでしょうね」
「なんか大家さんのお父さんが亡くなって、相続税が払えないらしいんですよ。それでこのアパートを更地にして売却して税金払おうということらしくて」
「ああ、資産があると大変ですね」
(*1)東北地方太平洋沖地震の津波の高さの最高記録は女川湾沖にある笠貝島の43.3mである。ここは震源から115kmほどで、間には何も遮るものが無い。なお2万人の死者を出した明治三陸沖地震は確認できた範囲で最高38.2mであった。
海外では、1958年にアラスカのリツヤ湾で起きた地震に伴う山体崩壊による超巨大津波が525mという信じがたい数値を残している。フィヨルドの片側斜面が幅1km高さ数百メートルにわたって崩壊して、幅がわずか1.35kmしかないフィヨルド湾に大量の土砂が落ち込んだ結果、対岸の斜面に巨大な水しぶきが掛かったものであり、ふつうの地震の津波とは性質が異なる。
しかしこんな津波が来たら東京なら高尾山(599m)の山の上にでも逃げなければどうにもならない。スカイツリーは634mだが、あそこに登って助かるかは微妙である。
31日の昼前。貴司は合宿の荷物を持って、新横浜駅で下車した。合宿所に行くには東京駅で新幹線を降り、上野東京ラインに乗って赤羽駅まで行くのが効率が良い。しかし貴司は改札を出ると駅構内のエレベータで10階にあがる。そしてホテル・アソシアのフロントで
「予約していた大阪の細川です。連れが先に来ていると思うのですが」
と言った。
「はい。お連れ様は既に到着なさっています。2034号室にお越し下さい」
それでエレベータで20階まで上がる。2034号室の前まで行って千里の携帯を鳴らす。
「はーい。お疲れ様〜」
と言ってドアが開くと千里が抱きついてきた。
「ちょっとちょっと」
と言って、取り敢えず荷物を中に入れる。そしてドアが閉まったのを確認して貴司も千里を抱きしめた。
取り敢えず貴司の「男性機能の確認」をした上で、コーラで乾杯する。買っておいた松花堂弁当も開けて食べる。
「まだ暖かいね」
「うん。買ったお店でチンしてもらったから」
「なるほどー」
「最初にこれ渡しておくね。ケイちゃんから頼まれたもの。これテヘランに行ったら投函して欲しいんだけど。郵便料金が分からないけど、ホテルのフロントとかで切手を買って、貼って出してくれない?」
「これイラン国内で売ってる絵葉書?」
「そうそう。それはうまく入手できたけど、イランの消印が欲しいのよね」
「なるほど。で、切手を買って貼らないといけないのね?」
「うん。料金分の現金渡して出しといてと言うと、現金だけ取られる危険がある」
「海外ではそのくらいは用心した方がいいよね」
「まあ、めったにそういう悪質な従業員は居ないとは思うけどね。料金は多分1ドルくらいじゃないかと思うんだけど、念のため20ドル渡しておくね。足りなかったら後日精算で」
と言って千里は葉書2枚とアメリカドルの1ドル札20枚を渡す。宛先は英語で日本の新宿の住所が書かれている。
「これ2枚とも同じ内容みたいだけど」
「郵便物が行方不明になった場合に供えてなんだよ。だから別の場所から出してもらうのが安心」
「分かった。だったらひとつは空港から、ひとつはホテルから出すよ」
「ああ、それがいいかも知れない」
「まあ、あのメールはわざわざ会えないと書いておいて、実際には千里が出るような大会は無い。千里がオーナーを務める40 minutesが出るクラブ選抜も3日からだから、千里が1日に東京に居ないわけがない」
と貴司は言った。
「そこからこのホテルに辿り着くのはやはり愛の力だね」
と千里。
「まあ東京近辺でデートする時は、特に事情が無い限りここで会ってるからね。それにわざわざ31日に来るのかなと書いてあるということは31日に会おうという意味だろうし」
と貴司。
「この後合宿所だから、さすがにお酒は飲めないよね」
「お酒は別にいいよ。千里と愛が確認できたから問題無い」
「そうだね。貴司が男の子であることは確認できたね」
「ちなみにセックスはできないよね?」
「テヘランで優勝してきたらセックスさせてあげるよ」
「そう来たか」
「まあ、頑張ってね」
「うん。頑張る」
と言ってふたりはキスした。
(この時点で、千里が南米に行っている間に貴司が浮気していたことはまだ千里にも阿倍子にもバレていない)
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