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■春曙(22)

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板付社長の会社は結局、ザマーミロ鉄板という鉄板焼きのお店かとも思われるような名前から、サワークリーム食パンという、パン屋さんかとも思われるような名前に改名された。
 
板付社長は言った。
「長年、君たちに24時間・365日の女装義務を課していたけど、それを解除したい。お仕事する時は出入りの時も含めて女装しておいてもらわないと困るけど、プライベートでは男装してもいいよ」
 
「私には意味ない解除だなあ」
とマリナは言った。
 
「まあマリナちゃんは今更男装とかしないよね」
と常務も言った。
 
でもケイナは物凄く喜んでいて、早速事務所からの帰りにスーパーで男物の下着やズボンなどを買っていた。
 

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三鷹の自宅マンションに帰ってからその男物の服を身につける。
 
「なんかケイナじゃないみたいだ」
とマリナは言う。
 
「自分でも違和感ある!」
とケイナは言った。
 
「何年ぶりだっけ?」
「2008年以来だから12年ぶりかな」
「でもハワイでは男装もしたね」
「ブラジャーが透けて見えてたけどな。しかしブレストフォームも外したから、なんか物凄く頼りない」
「ブラジャーくらい着けたら?」
「仕事の時は着ける」
 
ケイナはその日の昼食の時、唐突に言った。
「この後、明日の夕方までオフだからさ、温泉にでも行かない?」
「どこも休業しているのでは?」
 
ふたりが「ザ・ドサ廻り」で訪れた温泉も、しばしば休業していたのを取材のために開けてくれたりしていた。
 
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「それが緊急事態宣言の解除でぼちぼち開ける所が出て来てるんだよ。伊豆白浜のJ温泉が再開したというお知らせが出てた。当面は宿泊人数も浴場に入る人数も制限するらしい」
 
「だったら予約取れないのでは?」
「電話してみる」
 
それでケイナが電話してみると、偶然にも直前にキャンセルがあったということで、予約が取れたのである。
 
「じゃ行ってこよう。1泊で」
「まあいいけどね」
 

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それで6月1日(月)の午後、ふたりは一緒に“アクアのアクア”に乗ると、マリナが運転して伊豆白浜までやってきたのである。
 
ケイナが男装していることもあり、旅館の人はローザ+リリンとは気づかず、普通の夫婦連れと思ったようであった。
 
ここはわりと高級旅館なので(だから予約が取れた)料理は部屋まで持って来てくれる。
 
「料理美味しいね〜、ここドサ廻りでも来ていいんじゃない?」
「少しほとぼり冷めてからならね」
「まあ確かに来週来たら何か言われそう」
「あんた男じゃないの?とかね」
 
「だけど俺たち違法なことはしてないよな?」
「まあ確かに昨年秋のローズクォーツのツアーの時は女の身体だったからね」
 
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以前、やむを得ず何度か女湯に入ったのは、まあ忘れることでいいかな、とマリナも思った。
 

浴室の人数制限のために、各々の客に入浴時間帯が指定されていた。夕食は18時だったのだが、お風呂は19:30-20:00という時間帯を指定されていた。
 
それで食事が済んで少し一息してから「そろそろかな」と言って、お風呂に行くことにする。一緒にお風呂セットを持ち大浴場に向かう。
 
男女別れる所でケイナは
「じゃまた後で」
と言った。マリナは「あっ」と思った、
 
「そちら(男湯)に入るの?」
「俺男だし」
 
「ドサ廻りの取材では女湯に入っていたのに」
「仕事だし貸し切りだったし。でもこれからはプライベートではこちらに入るよ。だって、俺チンコあるんだぞ。いいだろぉ。お前にはチンコ無いもんな」
 
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とケイナは得意そうに言って、マリナに手を振ると男湯と書かれた暖簾の方に向かった。
 
なんか小学生が「俺ドラクエ買ったんだぞ。いいだろぉ」みたいな感じだ。
 
マリナは急に寂しい思いがした。ローザ+リリンを結成してから12年、いつもケイナと一緒に行動してきた。お風呂については実際には一緒に男湯に入ったことの方がずっと多い。昨年秋に定山渓で唐突に2人とも女になってしまった後は一緒に女湯に入っていた。
 
いづれにしてもマリナはケイナといつも一緒にお風呂に入っていた。
 
でも今日、ケイナは男湯に入り、マリナは女湯に入らなければならない。
 
「性別が違うんだから仕方ないよね」
と自分に言い聞かせたものの、初めてケイナと自分の間に溝を感じた。
 
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「男と女って、その間に物凄く大きな溝がある気がする」
 
そんなことを考えながら、マリナは首を振ると、女湯と書かれた暖簾の方に向かった。
 

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マリナは脱衣場で服を脱いで裸になると、タオルとシャンプーセットを持ち、浴室に入った。人数制限されているので、中に居るのは6人くらいである。本来はここは定員20-30人の浴室のようで、洗い場も15個ある。
 
マリナは洗い場で軽く身体全体にシャワーをかけると、髪を洗い、顔と胸を洗い、腕を洗い、お腹そしてお股を洗う。お股を洗っていて再度自分が女であることを意識する。ここに男性器が付いていた頃のことを実はマリナは忘れかけていた。凄く遠い昔のことのようだ。足を洗い、足の指先は手の指で指圧するかのように洗った。
 
再度身体全体にシャワーを掛けてからタオルとシャンプーセットを持って浴槽まで行き、浴槽の縁にそれを置いて、マリナは湯船に浸かった。
 
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近くでビクッとした人の気配がある。
 
見るとアクアである!
 
「あれ、アクアちゃんか」
「マリナさんですか。びっくりしたぁ。マリさんが来たかと思って逃げなきゃと思った」
 
「あはは。マリちゃんが女湯に居るアクアを見たら、大喜びだろうね」
「ツイッターにアクアは女の子になってたと書かれそうです」
「あの子は言っていいことと、いけないことの区別がつかないから」
「マリナさん、ボクが女湯にいたこと言わないでもらえます?」
 
「去年秋に会ったのは言っちゃったけど」
「そういえばそうでした!」
「でも女湯に居るアクアなんて今更じゃん」
「そんな気はしますけどねー」
 
マリナはアクアと会話しながら、彼女(彼?)の身体を観察していた。身体付きは完璧に女の子の身体付きである。これなら女湯に居ても誰も不審に思わないし、むしろ男湯に入ろうとしたら、追い出されるだろうなと思う。
 
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バストはBカップサイズより、少しあるけど、きっとブレストフォームによる偽装なのだろう。水中なのでやや見えにくいが、お股には何も無いように見える。でもタックによる偽装なのだろう。この子はそもそもアセクシュアルっぼいから、女性の裸を見ても何も感じないだろう。だから女湯に居てもあまり問題無いとマリナは思った。
 
厳密には違法だけどね!
 

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マリナはアクアと結局10分くらい話していたが、女将さんが回ってきて、あと10分で交替になります、と告げたので一緒にあがることにした。アクアのフルヌードを見ることになるが、腰のラインも完全に女の子だし、この子を男と思えという方が無理だとマリナは思った。
 

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一方、男湯に入ったケイナは服を脱ぐと、お股に男性の印がぶら下がっているのを見て、内心「男に戻れて本当に良かった」と思いながら、浴室に入る。それで洗い場で身体を洗うが、お股に付いているものを洗う時にも、男である喜びを感じていた。やはり男はいいよ。女の身体になってた時は最悪だった。なんでマリナは女として生きることを選んだんだろうな。男の方が絶対いいのに、などと思っている。
 
それでまあ適当に身体全体を洗ってから、浴槽に入る。
 
その時、近くでビクッとする人があった。
 
見るとアクアである。
 
「あれ、アクアちゃんか」
「ケイナさんですか。びっくりしたぁ。ケイさんが何で男湯に入ってくるんだと思った」
 
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「ケイは自身、男湯に入ったこと無いって言ってたね」
「あの人、幼稚園頃に性転換したんですか?」
「小学5年生の時にビキニの水着を着ていた写真があるから、少なくともその前には性転換していたんだと思うよ」
 
「凄いなあ」
「アクアも高校卒業前に性転換すればよかったのに」
「僕、女の子になるつもりはないですよー」
「隠さなくてもいいのに。だいたいよく男湯に入れたね」
「つまみ出されそうになりましたが、ちんちんを見せて男だと納得してもらいました」
「ああ、ちんちんはいいね」
 
「でもケイナさん、性転換したわけじゃなかったんですね」
「こないだは女湯で出会ったね」
「済みません。僕が男湯・女湯のどちらにいたかってあまり言わないでもらえます?」
「名古屋で女湯にいたことは言っちゃったけど」
「そういえばそうでした!」
「でもアクアが女湯に入るなんて普通すぎて誰も問題にしないよ」
「そうですかねー」
 
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ケイナはアクアと会話しながら、彼の身体を観察していた。名古屋の温泉で会った時はBカップ程度のバストがあり、女体偽装していたのだろうが、今見ると胸はふつうに男のように平らだし、股間にはちゃんと男のシンボルが付いてる。小さいけど!まあこんなに小さいのではまだ声変わりが来るまで2年くらいかかるかもという気がした。
 
それまでは§§ミュージックは大きなセールスを上げ続けるだろう。
 
“アフター・ボイスチェンジ”の§§ミュージックがどうなるのかは、誰にも予想がつかない。大きく売上が落ちることだけは確実だ。アクアの売上が半分を占めているTKRも多分無事では済まないだろう。
 
そんなことを考えると、この子には去勢してもらった方がいいのではという気さえしてくる。
 
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もっとも既に去勢済みでは?という疑惑もあるけどね。さすがに水面の上から見るだけでは睾丸があるかどうかまでは分からない。触ってみる訳にもいかないし。
 

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そういう訳で、男湯に入ったケイナも、女湯に入ったマリナも、それぞれアクアと遭遇したのだが、そのことはアクアからあまり言わないでと言われたこともあり、お互いにも話さなかった。
 
しかしケイナは久しぶりに男湯に入れてとても満足だった。
 
その夜は妊娠6ヶ月のマリナに負担が掛からないように、横向きの体位で結合した。ケイナは普段より自分の男性器が元気が良い気がした。たぶん半日ほどタックを解除していたからかなという気もした。
 
ふたりは翌日のお昼近くに精算して旅館を出、ふたたびマリナの運転する“アクアのアクア”で東京に戻った。
 
この後、ケイナは仕事に出る時は女装だが、帰宅すると男装にしていた。男装中のケイナは凄く男らしくてこれまでにない魅力があるような気はした。しかしマリナは少し寂しい思いでそんなケイナを見ていた。
 
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その日、本家の方のマリはひとりで“アクアのアクア”を運転し、板橋区のS3丁目駅まで来た。
 
実は以前電車に乗ってたら“いつの間にか”この駅まで来ていて(恵比寿駅から東京駅に行こうとしてなぜ三田線のS3丁目駅に辿り着くのかは不思議である)、取り敢えず降りてみたが、駅そばにパン屋さんがあったので買ってみたら凄く美味しかったのである。そこでそのパン屋さんのファンになり、何度か買いに来ていたのだが、今コロナ禍の中で電車使用禁止を町添社長直々に言われているので、車で買いにきたのである。方向音痴のマリが無事こんな所まで来られるのは、この車に搭載されている最新のオンライン・ナビのおかげだ。
 
「あ、無くなってる!」
 
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そこに3月に来た時はあったパン屋さんが無くなっているのである。ドアは閉じられ、ガラス戸に書かれていたパン屋さんの名前は消され、看板も撤去されていた。
 
マリは通りがかりのおばちゃんに尋ねてみた。
 
「ここのパン屋さん無くなったんですか」
「ああ、そうなのよ。美味しかったのにね。コロナのせいで、お客さんが減ってやっていけなくなったらしいよ」
 
「そんなあ」
とマリは声を挙げた。
 
「もしかして遠くから来たの?」
とおばちゃんはマリが車のそばに立っているので、この車で来たのかと思ったようである。
 
「えっと恵比寿から来たんですが」
「結構遠くから来てるね!ここからは少し落ちるかも知れないけど、わりと美味しいパン屋さんがそこの通りを少し行った所にもあるよ」
 
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マリは興味を持った。が行き着く自信が無い。
 
「あのぉ、すみません。もし良かったらそこまで同乗して案内してもらえませんか?」
「だったら私が運転してあげるよ」
「すみません!」
 
それでそのおばちゃんが“アクアのアクア”を運転してくれて、ほんの1分程度でそのパン屋さんまで辿り着けたのである。途中結構複雑に曲がったので、これ自分ひとりでは無理だったと思った。
 
「ありがとうございました!」
「お互い様、お互い様。でもこの車可愛いね!」
「でしょ。私アクアのファンだから発売されてすぐ買ったんですよ」
「私もアクアのファン」
「だったらエア握手」
「うん。エア握手」
と言って、おばちゃんはマリとエア握手して降りていった。
 
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