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(C)Eriko Kawaguchi 2017-06-30
2010年10月6日(水)。
千里がU20アジア選手権の行われたインドから帰国した後、出羽に行った“前日”。
千里は、朝9時に留実子、サクラ、誠美、華香、玲央美、江美子の6人と上野駅で待ち合わせた。
「千里の着物がなかなか斬新だ」
と江美子から言われる。
「これね。中学1年の春に、インクジェットプリンタで和服に直接印刷するシステムのキャンペーンやっている所に偶然行きあって、そこで自分で絵を描いて、速攻でお仕立済みの着物に印刷したものなんだよ。まあ帯は今年買った街着の帯を締めてきたけど」
「自分で絵を描いたの?」
「そうそう」
「千里ってこんなに絵が上手かったのか」
「もしかしてその場で着物が1枚できちゃう訳?」
「標準サイズでないと無理だけどね。当時私は164cmくらいだったかな。だから普通の着物のサイズで何とかなったんだよ。今日はおはしょり無しで着ている」
「じゃ振袖もその場で出来ちゃう?」
「1〜2ヶ月掛かるらしい」
「なぜ?」
「印刷の仕方にも色々あるんだよ。これは顔料インクで直接染めてる。だからたしかにすぐ出来上がるけど耐久性が無い。私これ久しぶりに出してきたけどこれ着たのってまだ5回くらい。顔料で直接染めた服は雨に当たったりしたらアウトだし。せいぜい10回程度着るのが限度だと思う。コスプレ大会に着ていく程度にはいいんだけど」
「成人式も1回しか使わないからそれでいい気がする」
「まあそれでいい人はそれでもいいかもね。でも、染める工程だけインクジェット使って、それ以外はきちんと通常の振袖とか訪問着を作るのと同じ工程で作る方法もある。それだとどんなに急いでも1ヶ月は掛かる。今の時期は混んでいるから2ヶ月掛かる可能性あると思う」
「なるほどー」
「長身の女の子が着る場合。まあ女の子とは限らないけど、そういう子が着る場合、反物の長さとか幅とかの問題もあるんでしょ?」
と玲央美が言う。
「そうなんだよ。普通の振袖用の反物はだいたい16-18メートルくらいなんだけど、それでは全然足りないんだよね〜。それと幅も普通の反物の幅は38cmなんだけど、それで作ると裄丈(ゆきたけ)が足りないんだよ」
「ゆき?」
「背中の中心点から袖口までの長さ。これが足りないと、いわゆるツンツルテンになってしまう」
「それはみっともないな」
「だから幅の広い生地を使う必要がある。こないだ頼んだレオの振袖の生地は長さが22メートル, 幅が43cmのものを使っている」
「やはりそういうビッグサイズの生地が存在するわけね?」
「うん。サーヤやマチの場合は更に広いものが必要。一応幅45cm 長さ24メートルの生地の在庫もあることを確認した」
「それは真っ白の生地な訳ね?」
「そう。その生地をこれから染めちゃう」
駅を降りて1分ほど歩いた所に、その《ソフトハウス》はあった。
「おはようございます。電話していた村山です」
と言って千里は入って行く。
「いらっしゃいませ」
と受付の女性はにこやかに立ち上がったものの、千里たちを見て固まってしまった。
「あのぉ・・・・えっと、男の方でしたでしょうか?」
とその女性は言った。
「まあ男と誤認されるのには慣れているかな」
と華香。
「女子トイレや女湯の脱衣室、プールの更衣室で悲鳴あげられたことは数え切れないというか」
とサクラ。
「とりあえず生物学的には女だと思います」
と玲央美。
「私たち、バスケットの女子日本代表なんですよ」
と千里が言った。
「ごめんなさい!」
と言って、受付の女性は謝っている。
奥の方から作業服を着た30代の男性が出てきた。
「これは?」
「あの、電話でご連絡頂いた村山様と、バレーボールの女子日本代表の方々だそうです」
と受付の女性。
「いえ、バスケットです」
と千里が訂正すると
「ごめんなさい!」
と言って、女性はもう消え入りそうな顔をしていた。
奥から出てきた男性は専務の肩書きがある三角(みすみ)という名前の名刺を配り、千里たちを応接室に案内してくれた。受付の女性が紅茶とフルーツケーキを配ってくれた。
「村山様がお召しになっている着物はもしや?」
と専務さんが訊く。
「7年ほど前、北海道グリーンランドで御社のキャンペーンがあっていた時、作ってもらった着物なんですよ」
「おお。それはご愛用頂いてありがとうございます。でも7年前の着物がよく持っていますね」
「保存がたまたま良かったんだと思います。それにまだ5回くらいしか着ていないので」
「なるほどですね」
「これって顔料方式だから、あまり耐久性が無いですよね?」
「よくお分かりで」
と言って専務さんはこの会社で開発したシステムの説明をしてくれた。
千里が着ている服で使われている技法は顔料インク印刷方式と言い、その場で白い服に印刷することで、速攻で服が出来てしまうのが特徴であるという。洋服・和服どちらにも使えるが、あまり耐久性が無いのが欠点で、1回限りのイベントスタッフの服とか、コスプレ用などなら使えるということ。
この他に、模様をいったん紙に印刷して、それを熱転写で服に移す方法もあり、デザインの自由度があるものの、生地はポリエステルに限られるので、Tシャツや普段着の和服などにしか使えないということ。
本格的な染めを行うのには、反応染料インクまたは酸性染料インクというものを使うという。反応染料はコットンなどの植物繊維用、酸性染料はシルクなどの動物性繊維用で、どちらも普通の後染め(*1)の和服反物を作るのと同様、前処理、蒸し、洗い、ゆのし、といった工程が必要だと専務さんは説明した。
(*1)
先染め:染めた糸を織って布にする:絣(かすり)や西陣織など。
後染め:布にした後で染める:友禅(ゆうぜん)や更紗(さらさ)など。
「そのあたりの工程に関しては新潟に工場があって、そちらでやっているんですよ」
「実はそのあたりの制作工程がよく分かってないのですが」
と江美子が言う。
「手描き友禅の場合、最初に糊置きというものをして、染料が広がらないようにします。その上で手描きで絵を描いていきます。更に地の色を染めます。そこまでした上で生地全体を蒸して色を定着させます。それから全体を水の中に入れて、糊を流し落とします。いわゆる「友禅の水流し」という工程ですね。昔は川の中でやっていたのですが、川自体の水質が悪化して布を汚してしまうことと、この工程自体が環境汚染を引き起こすと言われるので工場の中に水流しができる設備を作っていて、そこでやっています」
「水流しってテレビのニュースとかで見たことある気がする」
「今では観光目的でデモンストレーションしているくらいですね」
「なるほどー」
「その後最後に、ゆのしというのは全体に蒸気を当てて、生地の乱れや寄りなどを直していくんですよ。それでやっと反物が完成するので、そこから縫い上げることになります」
「絵羽模様のことも説明してあげてください」
と千里が言う。
「はい。振袖や訪問着では絵羽(えば)模様という技法が使われています。これは模様が布の縫い目を越えてきちんと継続するように作るもので、そのため最初に白い布地をいったん裁断し、仮縫いした上で、その状態で絵を描いていくんです。そして描き終わったら、仮縫いをほどいて元の反物の形に戻し、それからその先の工程を進め、完成したらまた仕立てるんですね」
「なんて面倒な事を」
「ところがインクジェットで染める場合は、コンピュータできちんと計算してちゃんと絵柄が継続するように印刷しますので、この最初の段階での裁断・仮縫いが必要無いんですよ」
「おぉ!」
「それとやはり絵を描いていく時間が一瞬で終わるのがインクジェット方式の良さですね」
「けっこう凄いことをしている気がする」
「現在実は国内に、友禅の絵を描ける人、きちんと糊を置ける人というのが少なくなってきているんですよ。長い修行が必要なもので、今の若い人たちには耐えられないという問題と、教える側も昔の感覚で劣悪な環境でまともに教えようとせず、勝手に盗み取れみたいな感覚のある所も多くて、今のままだと日本の友禅は絶滅してしまうと思います。今、多くの振袖は中国で染められています」
自分や玲央美が頼んだものも多分海外染めだろうなあと千里は思った。
「その内、日本では友禅は作れなくなってしまうのではと私は危惧しています。それなら人間の手ではたいへんな部分だけでも機械とコンピュータに置き換えて、基本的な技法自体は残していかなければならないと私は考えているんですよ」
と専務さんは熱く語った。
「ところで、この子たちに合う振袖を作れるサイズの生地ありますよね?」
「大丈夫ですよ。うちは外人さんの振袖なども制作しているので、このくらいは大丈夫です。身長2mを越える女性の振袖を作ったこともあります」
「凄い!」
「ちなみに大きい声では言えませんが、実は男性からの注文も結構ありまして」
「なるほど〜!」
「そういう訳で実は170-80cm代の振袖はわりとよく制作しているんですよ」
「なんか安心した」
専務さんは、みなさんが日本代表の方たちなら、無料にしてその代わり宣伝に使わせてもらえないかとも言った。しかし千里は、その辺りの話をバスケ協会とし始めると、やたらと時間がかかりそうだし、下手すると競争会社などにも見積もりを取ってなどと言い始めたりして、面倒なことになりかねないし、時間も掛かる可能性もあるので、お金は払いますから、できるだけ速く作って欲しいと言った。
「最近のバスケ協会って結局誰がコントロールしているのか、さっぱり分からないんだよなあ」
と玲央美なども言っている。
「それで実際問題として、振袖1枚、おいくらくらいで出来るものなんですか?」
と江美子が尋ねる。
「それは使う白生地の品質によりけりです」
と言って、専務はみんなを奥の倉庫のような所に案内してくれた。
「これがいちばん高い生地です。これで作った場合、皆さんの背丈でしたら。だいたい60万円くらいになるかと思います」
「きゃー」
「これは割とお勧めの生地で、これで30万円」
「なるほどー」
「これがいちばん安い生地で、これなら15万円で作れます」
「魅力的だ」
「実際触ってみて下さい」
と専務さんが言うので、触ってみる。
「なるほど〜。触り心地が全然違う!」
「振袖にした時の見た目も全然違いますよ」
と言って専務さんは実際に制作済みの振袖を見せてくれた。
「これは標準サイズなので、少し安い価格になっておりますが、皆さんの体格ですと、申し訳無いのですが、これの2割増しということで計算させて下さい。この50万円と書いているのが、みなさんの体格で作ると60万円になります」
千里たちは50万円、40万円、25万円、20万円、17万円、13万円と書かれた振袖を触ったり眺めたりしてみた。
「確かに違いが分かる」
「私たちって違いの分かる女ね」
「でも見た目に難があっても安いものには魅力がある」
その時、留実子が少し離れた所の棚に畳んで置いてある振袖に目を留めた。
「そこに置いてあるのは何ですか?8万円と書いてあるように見えるのですが」
「それは絹ではなくて、ポリエステルなんですよ」
「化繊ですか!?」
「化繊にしては高い気もするのですが」
「ちょっと触って見て下さい」
と専務が言うので触ってみる。
「これ本当にポリエステルなんですか?」
「なんか見た目もポリエステルに見えない」
「東レが開発したシルックという生地です。見た目も性質も絹にひじょうによく似ています。ですから正絹よりはずっと安いですが、普通のポリエステルよりはずっと高いです」