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3月8日(月・大安・みつ)、雅福岡店の花崎店長と高島副店長が結婚式を挙げた。
当日お店は店長・副店長が共に休みなので篠崎君が“店長代理”の名前で店を管理した。また京都からエニさんが来て手伝ってくれた。実は店長と副店長は社長命令!で一週間休みなので、この体制が一週間続く。
なお結婚式には悦美が職場代表として出席した。披露宴の司会は篠崎君たちの披露宴の時と同じ人がしてくれた。朝日は今日も振袖で出席し、左手薬指にはルビーの指輪を着けていた。
高島さんは花束を朝日に渡してくれた。朝日は自分の結婚式では花束を坂口君に渡そう!と思った。(きっと彼は花束リレーの意味が分かってない)
副店長は戸籍の上では花崎梢になるが、“花崎店長”と“花崎副店長”はとても紛らわしいので、副店長も悦美同様お店では旧姓使用することを宣言した。それでこれまで通り“高島さん”と呼ばれる。名札も“高島梢”のままである。お客様との契約文書にも高島梢で署名する。基本的に契約文書の名前は本人が特定できれば有効なので、旧姓を使用しても構わないとされる。
(アメリカのカーター大統領なんてニックネームを使って Jimmy Carter と署名した)
公世が1月に頼んだ和服ができたので受け取って来て、南邸で清香と双葉に披露した。
「おお、りりしい」
「そんな服着てると一瞬男の人かと思っちゃう」
「ぼく男なんだけど」
「まあ今日はそういうことにしておくか」
「袴は剣道の時のとは違うのね」
「さすがにあれで済ませるわけにはいかない。袴だけで5万円するところを千里ちゃんの顔で4万円」
「剣道用の袴なら1桁安いのに」
「正絹だからねー」
「それキュロット型?スカート型?」
「スカート型。剣道の場合は足さばきの問題があるからキュロット型を使うけど、礼装用はトイレの楽なスカート型使う人が多いよ」
「剣道の袴は確かにトイレが大変」
「色々簡略法はあるけど、全部脱ぐしかないからなあ」
「スカート型の袴は明治時代に生まれたと言ってたね」
「うん。華族女学校(後の女子学習院)の学監とかを務めた下田歌子が考案したと言われるね」
当時官命で皇族女子の教育体制構築のため欧州視察をしてきた下田歌子はベースとなるのは一般の女子教育だと感じ、華族女学校の運営に関わる一方で実践女学校(後の実践女学院)を設立している。
下田歌子が悩んだのが女学生の服装だった。それまでの和服を帯で締めるスタイルでは激しい動きに耐えられず裾が乱れる。昭和時代の時代劇の町娘によく見られたような黄八丈を帯で締めたような格好ではすぐに酷いことになっていたハズである。
そこで下田は女学生に袴を穿かせることを思いついた。
しかし当時男性が着用していたズボン型の袴では女子はトイレに困るので、スカート型の行灯袴(あんどんぱかま)を考案したのである、このようなタイプの袴は平安時代頃から宮中で女房たちが作業用に使用していた。
下田が発案し華族女学校が採用したのは海老茶色の袴であったが、同じ頃に袴を採用した跡見女学校は紫色の袴で、両者は海老茶式部・紫衛門と並び称された。これに油を使わず水だけで簡単にまとめられる“束髪”を採用しリボンを付けて明治時代の女学生スタイルが完成する。束髪にはS字巻き・花月巻き・イギリス巻き・イタリア巻き・マーガレット・夜会巻き・行方不明など様々なバリエーションが生まれた。
(日本髪はセットするのが大変だから長期間洗わず不潔であるとして簡単にまとめられる束髪が採用されたのに束髪の難しい巻きかたが流行し、それを崩さないよう髪を洗わない女子が続出した。本末転倒!)
3月11日、茨城県の航空自衛隊百里飛行場が民間共用を開始した。愛称は“茨城空港”である。
この飛行場については当初“東京北空港”とする案もあったが、“新東京国際空港”の名前が強く批判された成田空港より更に東京から遠い場所に“東京”を冠することには批判的意見が多く、結局常識的な“茨城空港”に落ち着いた。
(1970-1980年代の成田反対闘争では新左翼の人たちは“百里は東京に遠すぎるから”成田に民間空港の名目で飛行場を作り、そこを首都防衛用の軍事基地に転用するつもりだと主張していた)
3月13日、福岡地区の交通事業者3社が発行する交通系ICカード(西日本鉄道が発行するnimoca、JR九州が発行するSUGOCA、福岡市交通局が発行するはやかけん)の相互利用を開始。同時にこの3カードとSuicaの相互利用も開始され、福岡市内・都市圏の主要な鉄道・バスでSuicaを利用することが可能となる。
2010年3月14日(日)、千里の叔母である旭川の奥沼美輪子と長年の恋人・浅谷賢二の結婚式がおこなわれた。東の千里はこの結婚式の祝賀会発起人のひとりにもなっており、祝賀会の受付をし、またエレクトーン伴奏をした。
この結婚式・祝賀会では、千里と従姉の愛子は同じドレスを着ていた。2人は元々顔がよく似ているし、予め示し合わせて髪も同じ長さにしておいたので、出席者の中にはそもそも“2人居る”ことに気付かなかった人も多かった。気付いた人からはツーショットの写真をたくさん撮られた。結婚式の神主さんとかは目をゴシゴシしていた。
3月15日、東京、大阪の民放ラジオ局13社が、通常の放送と同時にインターネットにも番組配信する6か月間の試験放送を「radiko.jp」にて開始。
3月下旬、建築士の資格を取るため2006年春に大学に入学させていた関西組の面々が卒業するので、千里は各々を各地の工務店に入社させた。
卒業した人
神戸大学
令明→神戸市の倉橋工務店
追風→神戸市の酒田建設
この2人は国立大学の出でもあり就職先には困らないので一般の会社に入れた。
兵庫県立大:
九重→四丁目工務店
清川→洛北工務店
この2人は手元に置いておきたいので京都の工務店に入れた。
西宮市・M女子大:
前橋→三丁目工務店(姫路)
七瀬→大力工務店
虹彩→鈴蘭工務店(留萌)
西宮市・T大学:
南田兄→姫路ハウジング(神戸)
南田弟→朝日ハウジング(旭川)
3月23日(火)、東の千里は最初の会社“フェニックストライン”を設立した。主として音楽関係の収入を処理するためのものである。
夜梨子が立花K神社でご奉仕していたら、社務所にプリンスの田上がやってくるので夜梨子はロビンに声を掛けて入れ替わった。
「どうかしました?」
「村山さん、午後から時間取れません?」
「どこか行くんですか?」
「小浜(おばま)まで付き合っていただけないかと。内容は道々お話しします」
それでロビンはまゆりにひとこと言ってから田上のクラウンに乗った。
「福井県の嶺南(*32)地区に10個ほどの店舗を持つスーパー“みかた”の社長が亡くなりましてね」
と田上は言った。もうそれたけでだいたいの用事が分かる。
「ワンマン経営でナンバー2を作らない主義だったから、いざ社長が亡くなると誰も継げるような人がいなくて」
「ああ」
ナンバー2というのは、自分を脅かす存在になりかねないというので、ナンバー2ができないようにするワンマン経営者はけっこう居る。
(*32) 福井県は県の中央に山岳地帯があり、その南北で気候も文化も異なる。この北部を嶺北、南部を嶺南という。嶺北から富山県の呉西までが北陸文化圏である。嶺南は古来より京都との繋がりが強く、関西文化圏に属する。
(富山県は呉羽山を境に呉西・呉東に別れる。呉西までが西日本で呉東は東日本文化圏)
「息子さんが3人いるのですが、長男は関西電力、次男はJR西日本、三男は市役所に務めていて誰も経営とかの勉強してなくて」
「それはまた徹底してますね」
「それで株を相続した奧さんがメインバンクと話し合ってプリンスに経営指導の要請があったんですよ」
「ああ」
「山岸君(プリンスのシステム部長)に行ってもらってるんですが、社長がいないと動かないように会社が作られていて苦労しているようです」
「大変そう」
「それと奧さんが相続税を払えないと悲鳴をあげていて」
「ああ」
「面倒なことに本店の土地建物とかも社長の個人名義になってたんですよ」
「何か悪い見本ですね」
「全くです」
「で株を買ってくれないかということなんですね」
「そういうことなんですよ」
「どのくらいですか?」
「発行済み株式の7割、額面としては1400万円なんですが、それを7000万で買ってもらえないかと」
「7割こちらに渡しちゃっていいんですか?」
株式の2/3を所有すればその会社を自由にできる。
「向こうは最初6割と言ってたんですが、そこまで渡すのならいっそ67%くれと言って向こうも7割で妥協しました」
さすが田上である、
しかし現地に行き、千里と田上が先方の奧さん・息子たちおよびメインバンクの人と話し合うと、いっそ全株を引き受けてもらえないかということになった。それで天野産業が“みかた”の全株を7500万円で買い取り、子会社化することになった。向こうは1億円が希望だったが、実際の“みかた”の 貸借対照表・損益計算書から計算される企業価値は5000万円程度と出たので向こうも妥協した。
ただしこの損益計算書は、税金を安くするため実際より悪く作られている疑いがあると田上は後から言っていた。田上はここの本当の企業価値は8000-9000万円程度と見ていたようである。
それにしても奧さんも息子たちも経営のことはさっぱり分からないと言っていたので株式を少し残してもどうにもできない状況だった。従業員たちもこれまで全く経営に関わっていなかった奧さんや息子が社長になるのには不安があったようで、全面的にプリンス・プリンセスグループの傘下に入ることになりホッとしたようである。
プリンスからは御坊店長をしていた田上の従弟をみかたの社長として送り込んだ。
4月1日(木)朝、嶋田は三泊灯台での最後の勤務(夜勤)を終えた。ここの灯台は今夜からは自動化されるので灯台守は不要になる。嶋田は定年まであと半年ちょっとあるが、月曜日からは函館庁舎での勤務に入ることになっている。
実は函館には10年ほど前に建てた自宅があり、妻の実家も隣の北斗市にある。どうもそれで函館に異動してくれたっぽい。嶋田はかなり長く単身赴任を続けたので妻子との生活は久しぶりだ。求められたらどうしよう?俺セックスする自信無いぞ。腰がもちそうにない、などと思う。
荷物を整理していたら、漁協の皆さんがきて
「嶋田さん、今までお疲れ様」
と言ってくれた。そのまま送別会になる。色々食べ物が持ち込まれる。コーヒーで乾杯する。漁協の支部長さんも来てるし、この一年間たくさん将棋を指した村山さんも来ている。
「ビールでもやりたいところだけどこの後運転しないといけないし」
と言っている人がある。
「私もここにいる間は勤務中に準じるから飲めませんよ」
と嶋田も言った。
嶋田が最後にもう一度村山さんと将棋がしたいというので、みんなが見守る中で対局がおこなわれたが、これがなかなかの“迷局”であった。
「最近の桂馬って難しい飛び方するね」
「羽生さんが、コンピュータが人間の棋士に追い付いたら桂馬の飛び方を複雑にすればいいですよと言ってたよ」
「なんでその駒が取れる?」
「アンパッサンでは?(*33)」
「いつから銀って真後ろに下がれるようになったんだ?」
「男女平等社会だし」
「金銀どちらが男なの?」
「金は金玉で男、銀はAgでA girl 女」
「俺“四歩”って初めて見た」
(駒の系統的には金将はチェスの女王に相当するので金のほうが女かも)
(*33) チェスではポーン(将棋の歩に相当)は通常1駒だけ進むが2駒進める場合がある。この2駒進んだ場合、相手はあたかも1駒しか進まなかったかのようにみなしてそのポーンを捕獲できる(他幾つか条件がある)。これをアンパッサン(通過獲り)という。むろん将棋にはこのようなルールは無い。歩兵が2駒進むこともない。