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朝日は高島さんに相談した。
「私最近広中君と付き合ってるんですけど、よくドライブに行くんですよ。いつも彼が運転するんだけど、何かあった時のために私も運転できた方が良いんじゃないかと思って。でも私免許取って以来6年くらい運転してないから全然自信が無くて」
「自動車学校のペーパードライバー講習を受ければいいよ」
「ああ、そういうのがあるんですね」
「後は自分でも車1台買って時々運転するか」
「その車選びに付き合ってもらえません?」
「まあいいよ」
それで高島さんは中古車屋さんに一緒に行ってくれた。
高島さんは
「女の子は軽(けい)を買う子が多いけど、軽は扱いが楽ではあるけど普通車とは感覚が違いすぎて、軽ばかり運転してる人は普通車が運転できなくなるというのよ。だからコンパクトカーがお勧め」
と言っていた。朝日は軽とかコンパクトカーとか普通車とか用語が分からなかったものの、結局ヴィッツを買った。高島さんは駐車場を借りるのも手伝ってくれた。また保険のことも色々教えてくれた。
「練習の時、市の中心部の方には行かないほうがいいよ。ほとんどの区域が駐停車禁止だし、車線変更とかも難しいから、初心者は行きたい方向に進行できない。道が分からなくなっても車を停めて考えることも許されない。だから西区から今宿・唐津方面に走ったほうがいい」
「分かりました」
朝日は1月中はペーパードライバー講習に通い、2月からは夜中に車を出して西方向に走り、運転の練習をした。しかし2月中に3回、壁などにぶつけ、「安い中古で良かったぁ」と思った。
1月11日は成人の日で、また鏡開きでもあった。
留萌では前日の10日に成人式の集いが行われた。これは札幌や旭川などの大都市では11日に成人式がおこなわれるので、敢えて日程をずらしたものである。
それでP神社には10日に晴れ着で参拝に訪れる人が多く、御祈祷もたくさんした。和弥は15時くらいまで御祈祷を担当すると、星月を連れ、花絵・公世と一緒に旭川空港から神戸空港に飛び、姫路に戻った。11日は姫路で新成人の御祈祷に対応する。
留萌では11日は鏡開きだけなので、大量にぜんざいを作り、参拝客に振る舞った。善美・梨花・浅美・千里(ロゼ)などに加えて睦美も手伝いじゃんじゃんぜんざいを作り、小中学生巫女がどんどんぜんざいの容器を参拝客に渡した。
姫路では成人式と鏡開きがぶつかったので晴れ着で神社を訪れる人も多数あった。この人たちには、ぜんざいの材料セットをビニール袋に入れた物を渡している。この行事は、北町社のみでおこなった。上町社と2箇所でやるには人手が足りないし、余ったぜんざいの処理も大変である。御祈祷は、北町では主として和弥が、上町では主として花絵がしている。
雅では成人式当日!まで振袖を求めに来る人たちがあった。その多くは着付け不要の振袖21であるが、普通の振袖を買って着付け無料サービスで着付けしてもらい、そのまま成人式会場に向かう人もあった。このため、雅各店では着付けのできる人と写真屋さんにスタンバイしててもらっていた。
雅の福岡支店で篠崎君と悦美ちゃんが2月7日(日)に結婚式をあげることが発表された。当日は大安でもあるし、十二直が“開く”の縁談吉日でもある。
ふたりは11月頃から付き合い始めたらしい、交際3ヶ月での結婚というスピード結婚だが、これは妊娠したとかではなく、実は小倉(こくら)支店人事の問題があった。
雅では4月から九州で2店舗目の支店として北九州市の小倉(こくら)(*19) に支店を開設することになった。
(*19) 京都の小倉山とかは“おぐら”だが、福岡県の小倉は“こくら”である。小倉は北九州市の商業的中心地で新幹線の小倉駅もある。小倉駅は鹿児島本線と日豊本線の分岐駅でもある。北九州市は1963年に門司市・小倉市・若松市・八幡市・戸畑市の5市合併により誕生した。九州で最初の百万都市である(現在は福岡市のほうが人口は多い)。門司(もじ)は海の玄関であり、瀬戸内海航路などのフェリーが発着する。めかり神事で有名な和布刈(めかり)神社もある。八幡(やはた)は八幡製鉄所のあったところである。
実は最初、小倉支店長として高島さんに異動の内示があった。高島副店長は花崎店長と交際している。高島さんが小倉に行くとふたりは遠距離恋愛になる。博多−小倉間は新幹線で20分ではあるが、店によって店休日は違うし、ふたりとも店長だと、思うように休めない時もある。ふたりは一時はそれを覚悟した。
ここで篠崎君が小川社長に直訴したのである。
(1) 花崎店長と高島副店長は交際している。高島が小倉に行くと遠距離恋愛になってしまう。
(2) ふたりとも年齢的にもう結婚を諦めていた(花崎37 高島33)のが縁があって付き合い始めたのに遠距離になるのは気の毒である。
(3) 自分が高島の代わりに小倉に行ってもいい。
(4) その場合、自分は戸倉悦美と交際中なので、できたら彼女も一緒に異動してもらえないか。
小川社長は篠崎の訴えを聞いてくれた。それで多忙な中わざわざ福岡まで来て、花崎・高島・篠崎・戸倉と話し合った。それで篠崎が4月から小倉店長として赴任することが決まったのである。悦美も一緒に小倉店に異動する。
ただ幾つかの条件が提示された。
・無縁の男女を一緒に異動するのは変なので、篠崎と戸倉は異動の正式発表(3月下旬予定)までに結婚しておいてほしい。
・戸倉は副店長格(職名未定)とするから、それまでに着付けを勉強してほしい。
そこで2人は早々に結婚することにし、悦美は着付け教室に通い始めた。また福岡店は同時に2人も抜けるのでひとり補充に京都から経験者を派遣するらしい。福岡店は4月から現地採用の新卒女性を2人採用予定だが、未経験者である。
そういうわけで、篠崎君たちは2月に結婚することになった。すぐに京都に行き、悦美の両親への結婚申し込みと結納もしてきたらしい。悦美の両親は九州に行ってしまった娘が京都出身の男性と結婚するというので大歓迎だった。一方の花崎・高島も3月くらいに結婚する予定らしい。
それでクリスマスデートしたカップルの内2組が次々と結婚することになった。次は広中と朝日の番?そして春日君と坂口君??
坂口君はCM撮影で振袖が着られることが判明したから、きっと白無垢も着られる!?:あのCM撮影は前半の撮影と後半の撮影の間に実は一週間のギャップがあり、その間に坂口君はスネ毛を剃られ、ヒゲは脱毛している(脱毛後肌が落ち着くのに一週間待つ必要があった)、ついでに性転換手術してあげようかと言われたのは辞退したらしい。テントができないようにガードルを穿いている(*20) :性転換してれば春日君と結婚できたのに!?
(ガードルを渡されただけで立ってしまったので一度射精して、そのあとでショーツ・ガードルを着けている。ショーツとガードルは本人に贈呈したが癖にならないことを祈る!)
「すみません。出した後ではこんなの着るのは凄い罪悪感を感じます」
「そうだよ。君はちんちん悪戯してたから罰として男を辞めさせられることになったんだよ。だからもう男の下着を着ることは許されないから女のパンツを穿かなければならない。このあと君の家に行って男物のパンツは全部捨ててしまうから」
「えー!?」
「女の子パンティたくさんプレゼントするね」
ペティコート・パニッシュメント?(*28)
「男みたいに立って小便するのも禁止だからこれからはちゃんと座ってするように」
「来週にはちんちんを病院で切除するから」
「ちんちん無くなっちゃうとどっちみち女物のパンツしか穿けなくなるね」
「(1)ちんちん切るだけ (2)ちんちん切って割れ目ちゃんを作る (3)ちんちん切って割れ目ちゃんとヴァギナを作る。この3つのどれがいい?」
「その三択なんですかぁ?」
「どっちみち男ではなくなるから名前も“邦代”と変えよう」
「健康保険証も性別を変更して再発行するね」
(*20) 昔東京にあった女装サロン“エリザベス”では立ってしまって和服の着付けができなくなる客がよくあったらしい。
最近の男の娘は男性ホルモンが弱いからショーツだけで女物が着られるが昔の女装サロンの客には、普段は男の中の男みたいな生活をしていて月に一度サロンに来て普段と真逆の時間を過ごすなどという人がかなり居た。健全な男性のペニスは頑丈そうである。
また80年代頃までは女装で和服を着る人も多かった。昔の女装者は身体をいじめてないから、完全な男性体型では女物の洋服が着られないのもあったと思う。だいたい昭和30年代頃以降に生まれた女装者だと子供の頃から丸山明宏(現・美輪明宏)とかピーター(池畑慎之介)とかを見て育ち、努力して女らしい体型を作ってきている。
丸山明宏は女物のズボンとかを穿いていて“シスターボーイ”と呼ばれた。この世界の先駆者である。
戦後女装略史
1950 東京新橋に戦後初のゲイバー“やなぎ”オープン(*21)。江戸川乱歩もよくここを訪れていたらしい。
1950-1951 東京で永井明(明子と改名)が性転換手術を受け法的な性別も女性に変更。これは世界的にも戦後最初の性転換手術である。
1959 映画『日本誕生』公開。ヤマトタケルを演じた三船敏郎が女装している。
1961-1962 松本清張が『時間の習俗』(*23)を発表。
1962 丸山明宏デビュー
1963,1964,1965 カルーゼル(*24) の日本公演。彼女たちは“ブルーボーイ”と呼ばれた。
1967 男女2つの魂を持つ王子(王女)サファイヤ(*25)を描く『リボンの騎士』のアニメが放送される。
1968 遠藤周作のユーモア性転換小説『大変だァ』が連載開始。
1968 丸山明宏が女盗賊を演じる江戸川乱歩原作『黒蜥蜴』の舞台公演が始まる。
1969 ピーターがデビュー。
1970 多数の一般人女装者が登場した『三枝のさかさまショー』が日本テレビ系列で放送される。南こうせつとかぐや姫(初代)(*26) がレギュラー出演。十二単(じゅうにひとえ)を着てバンド演奏していた。
1973 カルーセル麻紀がモロッコで性転換手術を受けて話題になる。
1973 男女の友人が10分間入れ替わる『へんしん!ポンポコ玉』が放送される。
1979 東京に女装サロン“エリザベス”(*27) ができる。
1981 松原留美子が“六本木美人”として話題になり『蔵の中』で映画デビュー。彼女は“ニューハーフ”と呼ばれた。
1981 『ストップ!! ひばりくん!』の連載開始。
1984 女装雑誌『くぃーん』創刊。
(*21) 後に銀座にゲイバー“青江”を作る通称“青江のママ”もこの“やなぎ”に在籍していた。
日本には昭和初期にもゲイバーは存在したし、江戸時代には陰間茶屋があったが、戦後はこの“やなぎ”が最初である。
(*23) 身元不明の男性の遺体が見付かる一方で事件の鍵を握る女性の行方がつかめない。
と書いただけで現在の人ならすぐ仕組みが分かってしまうが、発表された1961年には衝撃的なトリックだった。
(*24) カルーゼル(回転木馬という意味)はパリの老舗のキャバレー。ここには女装のホステス、豊胸手術をしたホステス、更には性転換手術も済ませたホステスが多数いた。毎年ピックアップメンバーで世界ツアーをしていたが、1965年の日本公演のあと、メンバーが乗っていた英国国外航空のB707型機が富士山上空で空中分解。乗員乗客124名が死亡した。カルーゼルの看板ホステスだったソニー・ティールなども死亡した。
この飛行機には『007は二度死ぬ(You only live twice)』の撮影を終えた制作スタッフ(アルバート・ブロッコリーやハリー・ザルツマンなど)も搭乗予定だったが、直前に忍者ショーがあると聞いて搭乗をキャンセルしそれを見に行ったため、奇跡的に難を逃れた(『007スタッフは二度死ぬ(007 crue live twice)』とブロッコリーが言ったらしい)。フィルムも無事だった。
(*25) この物語の主人公の名前は発表当時“サファイヤ”と書かれた。一方宝石のsapphireは日本語の正書法では“サファイア”と書かれる。恐らくは手塚治虫のミスと思われる。そのため後に刊行された本では物語の主人公の名前も“サファイア”に訂正されている。しかしファンは正書法がそうだからといって固有名詞を書き換えるのはおかしいとして発表時の“サファイヤ”という表記にこだわる。小説家で虫プロに在籍していた辻真先なども“サファイヤ”派である。
(*26) この当時のかぐや姫は、後によく知られたメンバーとは違う。このあと、こうせつ以外のメンバーがやめたので新たなメンバー(伊勢正三と山田パンダ)を加えて2代目かぐや姫が結成され『神田川』などのヒット曲を出した。
この番組の出演者には実際にはトランスの人、メンズスカートの人、コスプレの人が混じっていたと思う。
この番組は制作したテレビ局の社長が国会!に喚問されて注意されたため終了した。
(*27) エリザベスは最初は普通のランジェリーショップだったが、客の中に結構男性がいた。しかも奧さんとかに贈るのではなく自分が使うっぽかった。そこでいっそのこと男性専用のランジェリーショップにしてみたら繁盛した。しかし買った客がその服を着られる場所が無いし、服の隠し場所も無いと悩んでいた。そこで女装ができる部屋を作り、また荷物も預かるようにした。
女装サロンはそれまでも幾つか存在したが、多くは数人の友人が仲間内だけでやっていたもので誰でも女装できる場所というのは画期的だったという。
(*28) ペティコート・パニッシュメント(petticoat punishment)とは、昔西洋で男の子に、トイレの失敗やオナニーなどの罰として、ペティコートなど女物の服を着せたこと。ピナフォー・パニッシュメントとも言う。ピナフォー(pinafore)とはエプロンドレス。
最初はおねしょなどトイレの失敗などに対する罰としておこなわれていたが、西洋ではその内行儀が悪いとか宿題をちゃんとしてなかった時の罰としてもおこなわれるようになった。
日本でも悪いことをしたり何かの失敗(遅刻や忘れ物など)をした男の子にスカートを穿かせて教室の後ろに立たせるなどという罰がおこなわれた時代があった。
普通の男の子はスカートなんて穿きたくないから反省する。でも男の娘はスカート穿かせてもらって嬉しがる!
何度か書いているが、筆者の通った幼稚園でもこれに使う赤いスカートがロッカーに数枚置かれていた。ほとんどの男子が一度は穿かされている。私はドジな性格なので何度も穿かされた。みんなで寄ってたかって取り押さえられ、無理矢理ズボンを脱がされて赤いスカートを穿かされていた。むろん私は喜んでいた!
このままスカートで家に帰る場面とか女の子になっちゃう状況とかを妄想していた。
しかしそもそも西洋では20世紀初頭までは小さい男の子はスカートを穿いていた。ルノワールの息子・ココのスカート姿などは多くの絵画に残されている。これはジッパーが発明されるまではズボンの着脱は小さい子供には非常にたいへんだったので、ズボンではトイレが間に合わなかったためである。
子供が成長して自分でズボンの着脱ができるようになってからスカートをズボンに変更していた。これをブリーチングと言った。ブリーチはズボンの意味。オペラなどで女性が男の役を演じるのをブリーチロールと言う。日本語では“ズボン役”と直訳される。