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「花」武島羽衣(1872-1967)作詞・滝廉太郎(1879-1903)作曲
春のうららの隅田川、のぼりくだりの船人が
櫂のしづくも花と散る、ながめを何にたとふべき。
見ずやあけぼの露浴びて、われにもの言ふ桜木を、
見ずや夕ぐれ手をのべて、われさしまねく青柳を。
錦織りなす長堤に、暮るればのぼるおぼろ月。
げに一刻も千金のながめを何にたとふべき。
この歌は1.2.3番の最後のあたりのメロディーが微妙に異なっており、瀧廉太郎(滝連太郎ではない!)が歌詞のイントネーションを重視してそれに合わせたためであろうと言われています。なお、この歌のメロディーで瀧廉太郎のもうひとつの名曲『荒城の月』が歌える(逆もOK)というのも有名なネタです。
「荒城の月」土井晩翠(1871-1952)作詞・滝廉太郎作曲
春高楼の花の宴、巡る盃かげさして。
千代の松が枝わけ出でし、昔の光いまいずこ
秋陣営の霜の色、鳴きゆく雁の数見せて。
植うる剣に照りそいし、昔の光いまいずこ
いま荒城の夜半の月、替らぬ光たがためぞ
垣に残るはただ葛、松に歌うはただ嵐
天上影は替らねど、栄枯は移る世の姿
写さんとてか今もなお、嗚呼荒城の夜半の月
この曲は日本で最初に作られた西洋音楽の曲と言われている。この歌は土井晩翠の詩に曲を付けるコンテストに瀧廉太郎が応募して生まれた作品で、ふたりは制作前には会ったことはなく、制作後にも一度会っただけらしい。またこの曲は一般に後に山田耕筰が少し改変したメロディーで歌われることも多い(「花の宴ファファミ#レミ」の“え”の音の#を外した)
栄枯は移るというのは徳川の世が明治政府の時代に変わったことを表すと言われる。“植うる剣”とは多数の刀が地面に突き刺さっている状況を表し武士の時代が終わったことを示唆している。この曲は1901年に制作されているが、これに先立つ日清戦争(1895)の折、士族の団体から義勇兵結成の動きがあったものの陸軍は「もう刀で戦う時代ではない」として一蹴したと言われている。(令和の時代になっても戦争になったら国民を徴兵して刀持たせて突撃させろ、みたいに思ってる化石的な頭の政治家も居るようで困ったものである)
なおこの曲の出出しはメンデルスゾーンの交響曲第3番“スコットランド”の出出しとよく似ている。瀧廉太郎が記憶の片隅に残っていたものをうっかり借用したのかも。
なお土井晩翠の歌詞は上杉謙信が難攻不落だった能登の七尾城を何年も掛けて何とか落とした時に詠んだ詩がベースになっていると言われる。
九月十三夜陣中作
霜満軍営秋気清
数行過雁月三更
越山併得能州景
遮莫家郷憶遠征
霜は軍営に満ちて、秋気清し
数行の雁が過ぐ、月三更
越山併せ得たり。能州の景
遮莫、家郷の遠征を思うを
“鳴き行く雁”とか、ここからの引用ですね、三更は夜0時くらい。夜半の月ですね。
3月、千里がお正月に注文した京友禅の振袖ができたので受け取った。さすが本格的な手描き友禅で、とても美しかった。六角形の模様が多数鏤められており、その六角形の中に桜、松竹梅、四獣(青龍・朱雀・白虎・玄武)などが描かれている、おめでたいものである。四獣は刺繍で入っている。金糸・銀糸などもふんだんに使われている。
加賀友禅なら桜を直接描くかも知れないが有職模様の六角形を作ってその中に桜を描くのが京友禅的である。
千里はこの振袖が豪華すぎるので、4月になってから顔割れしてない雅小倉店で28万円のプリンタ染め振袖も注文した。小倉店の最初の大物(振袖・留袖・訪問着・紬・紋付き)売上になったと思う。
千里は札幌郊外に30m四方(270坪)ほどの土地を買いユニットハウスを置いて、そこを事務所として天野産業の子会社・天野航空を設立。“ヘリコプター・パイロット訓練生”を募集した(面接はきーちゃんがした)。20代の男性・坂本さんと女性・松下さんを採用。4月から国内のヘリコプター学校に入学させる。ちなみに30m四方の土地はここにヘリを降ろせるようにである。
彼らの学費はむろん天野航空が負担するし、ヘリコプター学校在学中も給与が出る。またヘリポートを作るのに、留萌のC町の山上、崎山灯台の近くと、鹿無島に小さな土地を買った。
千里が鹿無島の土地を買ったら、小平(おびら)の町役場から問合せがあった。
「鹿無島で何かなさいますか?」
「いえ、私、先日鹿無島の沖合の海女島の土地を買ったのでそこにヘリコプターで行けるようにヘリポート用なんですよ。鹿無島自体で何かする予定はありません」
「ヘリコプターですか!だったら急病人とかあった時には搬送のお願いできません?」
「いいですよ」
千里は坂本・松下がヘリコプター学校を卒業するタイミングでヘリコプターの実機を買うつもりだったが、こんなことを頼まれたのですぐにロビンソンのR-44(定員4。巡航速度200km/h 航続距離560km)を購入した。ロデムが使っているR-22の上位機である。多分夏頃には納品されるだろう。むろん何かの時にはロデムに操縦してもらう。千里も飛ばせるとは思うが無免許である。
崎山にヘリポートを作っていたら、すぐ傍に家がある杉村真広が
「千里ちゃん、何作ってんの?」
と訊く。
「ヘリポートだけど」
「すごーい。時々乗せてよ」
「いいよ」
「旭川から緊急呼び出しとかあったらヘリで駆け付けよう」
「じゃ旭川にもヘリが降りられるところ作らなきゃ」
「ああ、うちの敷地に降ろせばいいよ」
広い家のある人はさすがだ。
どうも真広のほうがたくさん使いそうなので、ヘリコプターが納品されたら崎山に駐めておこう、と思った。
このヘリポートを安全に使用するため、千里はC町のP神社の近くから崎山のヘリポートの所までの道(市道)に、市の許可を取って、熊除けの壁を両側に設置した。三泊陸上養殖場の外壁同様、通電した鋼鉄の壁とプラスチック壁の二重構造である。また感応式の街灯もつけた。感応式というのがミソで、ヒグマが中に入り込んでいた場合、遠くから発見できる。
この道は貞美が自宅に帰るのにも使うし留萌新鮮産業のスタッフが椎茸の栽培場に行くのにも利用する。もちろん通電壁に掛かったヒグマ・エゾシカは、峠の丼屋さん行きである。
朝日が結婚を前提として男性と交際していると伝えたら京都から姉が博多まで訪ねてきた。姉にスタールビーの指輪を見せた。
「そんな指輪を買ってくれるなんて本気じゃん。先方はあんたが元は男だったこと知ってるの?」
「元々彼からデートに誘われて『私男だけど』と言ったら『男でも構わない』と言われたからデートに応じた」
「あんた今は女だよね」
「うん」
「彼とセックスしてる?」
「もちろん」
「じゃ相手はゲイでもないわけだ」
「自分はバイだと言ってた」
「確かにバイセクシャルまたはパンセクシャルの人だけがトランスの人に許容的。ヘテロの人は元男と知った時点で捨てる。ゲイの人は性転換した時点で捨てる」
「パンセクシャルって?」
「相手の性別を気にしない人」
「それバイとは違うの?」
「バイは異性にも同性にも魅かれる人だよ」
「よく分からない」
姉と話していたら和彦が来訪(帰宅)する。
「お帰りー」
と朝日は声を掛ける。
「あ、いらっしゃい」
と和彦が姉を見て言う。
「和ちゃん、これうちの姉ちゃん」
「お世話になってます」
「こちらこそお世話になってます」
「カレー温めるね」
と言って朝日は台所に立つ。
その間、和彦は勝手にコーヒーを入れ、姉が持って来た生八橋を摘まみながら姉と話していた。
「あの子の性別のことはお聞きになってますよね?」
「ええ。でも朝日さんは女にしか見えないから問題無いですよ」
「確かにあの子小さい頃から女の子の和服着てて誰からも女の子だと思われてましたからね」
「そういう人は本来女の子なんだと思いますよ」
「あの子が小学1-2年生の頃、親はあの子が4年生くらいになったらちんちん取る手術受けさせようとか話してましたけどね」
「そんな小さい内に手術したんですか」
和彦は横山時代に噂のあった『小学生の時に親から娘になって欲しいと言われて女の子になる手術を受けた』というのが本当なのかなとも思った。
「もっとも私はあの子にちんちんが付いてるのなんて見たことないですけどね」
「お姉さんも見てないんですか」
「朝日のことは最初から妹だと思ってたから、なんでお母ちゃんたちこの子を男の子扱いするんだろと思ってましたね、あの子が小さい頃お股に触ってみたことあるけど、ちんちんなんて付いてなかったし」
「へー」
「私が小学5年生、あの子が2年生の時、宮島(みやじま:広島県)に旅行に行ってお母ちゃん・お祖母ちゃんとも一緒にホテルの大浴場に入りましたけど、やはりあの子にはちんちんなんてありませんでしたよ」
「ほお」
「だからほんとにちんちんがあって手術して取ったのならかなり小さい内に手術したんでしょうね、あるいは男の子というのが大嘘だったのか」
「その嘘という説を信じたいですね」
3月13日(土)、朝日と和彦は有休を取り一緒に早朝の新幹線で京都に戻り、双方の実家に挨拶に行った。
「あっちゃんの性別のことは何も言わないから」
「うん」
「どうせバレないし」
「そうだね」
午後には、和彦の両親が朝日の実家に「朝日さんを頂きたい」と挨拶に行った。そして朝日の姉、和彦の弟たちも入れて一緒に御飯を食べ、親族としての交流をした。
和彦が朝日に指輪を贈り、朝日は和彦に腕時計を贈っていることから、もう結納は省略し、夏頃に結婚式を挙げることで双方合意した。
千里のところに富山県の木彫り作家・伊川さんから「千手観音ができた」という連絡があったので、前橋親子・白井親子と一緒に富山まで見に行った。
「一木造りで彫られたんですか!」
と千里たちはびっくりした。千手観音の一木造りはとても難しい、というより完成するのが奇跡に近いので、千里は「寄せ木造りでよい」と言っていたのである。
「いや、そちらから凄いお金もらったからやる気出して頑張ってみた」
と伊川さんは言っている。
寄せ木造りとは像のパーツを彫ってつなぎあわせるもの。一木造りとはひとつの木から像の全体を彫り出すもの。千手観音は42本の腕(合掌する2本の腕の他に色々物を持った40本の腕)があるので寄せ木造りでも腕同士がぶつからないように配置するのはかなり大変である。一木造りはそれを最初から木の中から掘り出すように彫り出す必要があり、非常にデリケートな作業の持続が必要である。
(三十三間堂タイプは2本の腕が胸前で合掌し2本は腹で組んで宝鉢を持ち残り38本に色々な物を持たせている)
「これ900万じゃ申し訳無いです。倍、お支払いしますよ」
と千里は言ったが、例によって奧さんがそんなにもらう訳にはいかないと言う。結局、今年と来年の2回に分けて800万円ずつ払うことにした。来年800万払う“言い訳”に仁王像(左右ペア)を彫ってもらうことにした。
(二十八部衆の部屋の入口に置かれることになる)
この像の搬送は万が一にも破損したら大変なので運送会社の支社長さんが直々に立ち会って指揮し、丁寧に梱包して、たっぷりクッションを入れ慎重に運んだ。伊川さんも姫路まで来て千手観音が二十八部衆の部屋の中央に納まったのを見たが
「素晴らしいね。これを見ると、また新たなシリーズを彫ろうという気持ちになる」
と言っていた。この第2シリーズは岡山県のお寺に納められることになっている。そのお寺では千手観音と二十八部衆を納めるお堂を建築すべく現在設計中である。
そこのお寺さんは千手観音の左右に14体ずつ眷属が並ぶ形を考えていたが、イーグレット美術館の展示を見て、こちらと同様に中央に千手観音を置き、周囲を二十八部衆が取り囲む配置に設計変更した。