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1906年(明治39年)、神社合祀令が出され「神社は1村に1つのみとする」ということになり、命理たちの村にも中央から係官が来て、それまで村の中に5つあった神社のうち4つが破壊され、命理たちの集落にあるN神社だけが残された。
村では名主や各神社の禰宜も含めて多数の村民による猛烈な反対運動が起きたものの無視される。そしてN神社の禰宜、辛島槙雄は中央の政策に協力的でないとして任を解かれ、翌1907年、中央から新たな宮司が派遣されてきた。
新しい宮司はN神社の御祭神を勝手に皇室につながる神に書き換えてしまい、神社の祭りも祈年祭・燈籠祭などの廃止を宣言。御輿や燈籠を「このような低俗なものはダメです」と言って全部破壊してしまう。更には、神社の裏手にある禁足地にある池を埋め立て、そこに結婚式場を建ててしまった。
これに猛反発・猛抗議した辛島家は新宮司に協力的な村長から村外への退去命令を受けてしまう。もうこれは暴動を起こそうと、幾人かの血気盛んな若者が辛島家に集まって不穏な空気が流れていた時、命理が15歳の「神の子」理(ことわり)を伴って、辛島家にやってきた。
「理が停めに行ってと言うので来ました」
と赤い紬の着物を着た命理が言った。命理は出産以来、ずっと女の着物を着て髪も庇髪に結って生活していて、村では実質女と同等と扱われていた。
「なんで停める?命理ちゃん、あんたもこんな酷いことするなんてって憤慨してたじゃないか?」
命理は村の男たちから他の女性と同様「ちゃん」付けで呼ばれている。命理も一人称に「私(わたし)」を使っていた。
「私もあの宮司さんのやり方は到底容認できません。しかしここで騒ぎを起こせば、ますます向こうの思うつぼです。反対派が村から一掃されて、この村の伝統は全て破壊されてしまいます」
「じゃどうしろと?」
「理がここはいったん退避してと言っています。うちの分家の資産家が宇治山田に住んでいます。辛島さん、御一家でいったんそこに退避しませんか? 下手すると辛島さんが暴動の首謀者として警察に逮捕されますよ」
「そういう事態は避けんといかんだろうな」
と名主の息子が言う。
「私もここで騒ぎを起こしてはいかんと、この人たちを説得していた所なのですよ。命理ちゃん、そちらを紹介してください。いったん村を去ります」
と元禰宜の辛島槙雄も言うので、この日の暴動は回避され、翌朝、命理と命理の父が案内して、辛島一家は宇治山田の奥田家の親戚の家に移った。そして理と同い年の辛島家の孫、辛島宣雄が宇治山田でも有力者である奥田家の口利きで神宮皇學館に入り、神職として正規の教育を受けることになった。
村では新しい宮司が来てから異変が続いた。1907年は大不作となった。村の水田の一部で巨大な陥没が発生し、その近辺の水の流れも変わって耕作不能となった。禁足地に作った結婚式場で結婚式をあげたカップルが翌朝死亡。その後、誰もそこで結婚式を挙げようとする者は無かった。
1908年には村のシンボルでもあった樹齢1000年の大木が倒壊。また村の水源のひとつである沼が涸れてしまった。この年は絶不作であった。1909年も1910年も異変が続き不作も続き、村では生活苦に喘ぐ者が多く出たが、元組頭の奥田家・元名主の石田家をはじめ、いくつかの資産持ちの家が、生活の苦しい人達に食糧を分けてあげて、何とか村は持ちこたえていた。
1911年暴風雨による崖崩れで道路が遮断され、村は半年近く孤立する事態となる。陸軍が救援隊を組織して食糧を運んでくれて、何とかひとりの死者も出さずに済んだ。
この時期、命理がしばしば夜中に裸でどこかに行くのを目撃した村人があった。乳房が発達し真っ白な肌に長い髪で、一見女と見まがうばかりの命理にドキッとしてその後を密かにつける者もいた。中には命理が男であることを忘れて手籠めにしたいと思うものさえあったという。
しかし彼らは一様に、破壊された神社のあった場所で神秘的な舞を舞い、この世のものとは思えないような美しい調べの歌を(普段聞いたことのない)女の声で歌って何かを祈願している命理の姿を見、その神々しい姿に畏怖したという。中にはその命理が歌い舞う天上に龍が三体舞い飛ぶのを見た者もあった。
1907年から1911年に掛けての大不作・天災の連続の時期に、村の人たちが何とかまとまっていたのは、資産家たちによる救済と、「神の子を産んだ」命理が何か特別な秘法で村のために祈ってくれているようだという噂の広がりによるものが大きい。実際その5年間に天災は続いたもののひとりの死者も出していなかったのである。山崩れで30戸もの民家が押し流された時も、直前に命理が「みんな逃げて」と1戸ずつ戸を叩いて危険を知らせて回ったおかげで、全員無事であった。
しかし1912年の大災害は村の窮状に追い打ちを掛けた。この年の夏、昨年を上回る超大規模な暴風雨が村を襲った。堤防の決壊で多数の民家が破壊され、3人が死亡した。死亡したのはみな新宮司に協力的であった人たちであった。
その年はまともに稲が実った田が無かった。奥田家では所有していた大阪府内の土地を売却し、また宇治山田の分家さんにも頼んで資金を融通してもらい、村人の救済に当たった。元名主の石田家も奈良市と堺市に所有していた別宅を売却したりして救済に尽力した。そして村では若い者を中心に不穏な空気が流れた。
11月。宮司が突然行方不明になった。
宮司が村人からかなり反発されていたことから、県警本部から刑事が来て、村人に事情聴取を行ったが、誰も宮司のことは知らないと言った。1ヶ月近い捜査の結果、県警は事件性は無いという結論を出した。実際誰も何も言わないのでそういう結論を出す以外無かった。
そして神社局は後任の宮司を決めず、N神社の神職は当面空席にすると通達してきた。神社局内部にも、行方不明になった宮司のやり方は強引すぎたのではという意見が少なからずあったようで、今新しい宮司を派遣すると、二の舞になるという空気があったらしい。
1913年の2月1日。元名主の石田家に、命理の父、元百姓代の竹若家の当主、氏子総代の鈴木家の当主が集まった。命理と理も特に招かれて出席した。
「祈年祭をしよう」
ということで、一同の意見は一致した。
本来は神社の禁足地になっている場所でやるのだが、そこには宮司が建てた「結婚式場」が建っていて使えない。そこで、理の勧めで神社の鳥居前に幕を張ってその中でやることにした。
当日。深夜0時。命理の父が笛、鈴木さんが太鼓を鳴らし、石田家の娘さんが踊り始める。命理が「おーーーー」という神を呼ぶ声を出す。やがて「来た」
という感触を一同は感じた。命理は声を出すのを止め、笙を持って吹き始める。娘さんと神がひとつになって踊り続ける。
この年、祈年祭の踊りは2時間も続いた。朝には7年ぶりに巫女舞もやはり鳥居前で奉納された。そしてこの年、村は7年ぶりの豊作になったのであった。
翌1914年には理自身が自ら名乗り出て祈年祭の踊りを踊った。
「神様が神様と踊るの?」
と命理は笑いながら訊いたが理は
「僕の人間体と珠龍神の神体とが踊るんだからいいんだよ」と言っていた。
その年の3月。辛島家の息子、宣雄が神宮皇學館での修行を終えた。後見人である奥田家の根回しの結果、彼はこの村の神社の宮司に指名された。それに合わせて辛島一家も宇治山田から戻って来た。(村長も新任の人に交替していた)
新たに宮司となった辛島宣雄が最初にしたのは、御祭神の復帰である。前宮司が祭っていた皇室系の神を境内の東側に新たに建てた「太陽社」に移し、本殿の御祭神は旧御祭神である常光水龍大神・常愛水龍大神・若宮水龍大神に戻した。
「でも実際には本殿には何も神様は入ってなかったですよ。空っぽでした」
と宣雄は説明した。そういうのが分かるような神職であれば、あんな無茶なことはしなかったのであろう。また本来の御祭神である三柱の神は命理が毎晩祈祷をしていた分社跡の所にいたらしい。そこに神様がいたからこそ、村はギリギリ守られていたんですよと宣雄は言った。そして宣雄は実際、その分社跡の所から、新たに作った3つの御輿に乗せ、遷宮する形で、本社に三柱神を招き入れたのである。
その分社跡(通称S神社)には「行宮(あんぐう:御旅処)」の名目で鳥居と祠を設置した。またもうひとつ、N神社の元々の所在地だったと伝えられる神社の跡(通称K神社)にも「元宮」の名目でやはり鳥居と祠を設置した。この三社体制が命(めい)の時代まで引き継がれることになった。祠は戦後にきちんとした神殿に建て替えられた。
禁足地の「結婚式場」については、命理と理さえも「手を付けたくない」と言ったが、放置もできないということで、慎重に処分をすることにした。
解体と池の再整備をする人足には、多大な報酬を提示した上で、作業前一週間の禁欲と潔斎を命じた。セックスはおろか自慰もしてはいけないし、その間は肉や魚も食べてはいけないとした。
「きちんと潔斎せずに作業すると、死にはしないけど天罰で、私みたいに男の機能が無くなって、女みたいな姿形になっちゃうかもよ」
などと命理が言ったのが一番効いた感もあった。
「まだ男はやめたくねー」
「男じゃなくなっちまったら女房に離縁されちまう」
「でも報酬が凄いから一週間我慢だな」
などと村人たちは言っていた。
「でも命理ちゃん、チンコあるんだっけ?」
「美智を作る時だけ臨時に付けてもらったけど、もう今は無いよ」
と命理は笑って言っていた。
「でも最近、命理ちゃん、若返った感じ」
「俺の女房と同い年とは思えん」
前宮司による神社の祭神書き換えで、神社に村の三柱の守り神が居られなくなり、結果的に村が不作になっていた時期に、命理は分社跡に密かに神籬(ひむろぎ)を3本埋め、自分の生殖器と寿命の一部を犠牲として捧げる禁法を使って守り神を呼び戻した。そのことを知るのは奥さんの阿夜と理だけである。寿命を捧げて命理は老けるのかもと思っていたが実際は若返った感があった。
実際当時の命理は41歳(数え年)の男の筈が、27-28歳の女に充分見えていた。また命理は女としても美人だった。声も中性的な声で普段は話していた。
「阿夜ちゃんがいなかったら俺、命理ちゃんを嫁さんにしたい気になってたかも」
などともよく言われていた。
「結婚式場」解体の実際の作業では、理が作業をする人足全員をチェックして禁をおかしている者は排除し、きちんと潔斎できている者だけにして、裸で水垢離させた上で宣雄が特殊な祝詞を唱えてお清めをしてから禁足地に入り、作業を進めた。解体した木材は禁足地内に穴を掘って中で焼却した。焼却した木材の煙は不思議なことに地上5mくらいで消えてしまい外には漏れなかった。
最後に池のあった場所の地面を掘り池を復元した。それまで枯れていたかのようになっていた3つの泉が、池をきちんと元通りにした途端、水を湧出しはじめた。そして神社の参道の清流も復活した。ただ水量は以前より少なかった。水量を戻す方法は理も分からないと言った。
なおこの作業に当たってくれた村人の家ではみんな何か良いことが起きていた。長らく子宝に恵まれていなかった者に赤ちゃんが生まれたり、病気がちだった家族が回復した所もあった。商売がうまく行くようになった所もあった。
「この木材を焼却した所って、どうなるの?」と命理は理に訊いた。
「200〜300年でふつうの場所に戻ると思う。それまでは誰かに呪いを掛けるのには使える場所になるだろうね。でもお母ちゃんみたいに特殊な人以外はこの禁足地に入るだけで天罰を受けて、下手すると呪いを掛けようとする前に死ぬ」
と22歳の理は言った。
「まあ、僕やお母ちゃんなら、誰か不届きな奴を呪い殺そうとすれば使えるよ」
「うーん。でも私は怨みのある人なんていないから」
「お母ちゃんって、誰かに酷いことされても、全然それを恨まないよね」
「そんな酷いことされたことあったかなあ」
「そう思っているのがお母ちゃんの凄いところだよ。ね、神社も元に戻ったし、おちんちん新たに作ってあげようか?」
「うーん。。。私はそれを放棄して祈願したんだから、要らないよ。阿夜もこれで結構楽しんでるし」
「そのあたりって、よく分からないなあ」
「まあ、愛には色々な形があるのさ」
と言って命理は微笑んだ
翌1915年。祈年祭は正式に復活した。この復活した祈年祭では理の妹、美智が禁則の地で踊った。そして美智は祈年祭の翌日、神社の神殿で辛島宣雄と結婚式を挙げた。式は宣雄自身が花婿なので、神宮皇學館の時の友人で奈良市内で神職をしている人に祭主をお願いした。
前宮司時代に「結婚式場」で式を挙げたカップルが死亡したので、結婚式場にも誰も近寄らなくなっていたが、この神社で式を挙げようという人もいなくなっていた。そこで、もうこの神社で式を挙げても大丈夫というのをアピールする狙いもあった。
ふたりは無事であったし、いつも仲良くしている所を村人たちは見ていた。そして年末には長男・琴雄が産まれた。美智は男の子を3人産み、琴雄がこの神社を継いだほか、他のふたりも近畿地方の神社の神職になった。1915年の年末頃から、神社で結婚式を挙げるカップルがポツポツと出るようになった。
この宣雄と美智が結婚した年も、前年に続く大豊作であった。3年連続の豊作で村は息を吹き返した。
なお、祈年祭で使う御輿、燈籠祭りで使う燈籠・屋台などは、前宮司が破壊した時に命理が密かに回収していた「コア」を使い、新たに作り直した。