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管理会社の人の車に乗せてもらい、その駐車場まで行った。千里が駐車場の車止めをアンロックしてから Ibiza 1.6L 6MT を始動するとちゃんとエンジンが掛かる。
「ちゃんとエンジン掛かりましたね」
と絵姫。
「友人に頼んで月に1度くらい起動してもらっていたんですよ」
と千里がスペイン語で言うと、管理会社の人が頷いている。それで管理会社の人に
「Aqui esta llave」
と言って駐車場の鍵を返す。彼も
「Gracias」
と言って受け取った。
その時、絵姫はふと気付いたように
「あ、村山さん、海外運転免許証、発行してもらってました?」
と尋ねる。
「Tengo licencia europea(ヨーロッパ共通免許証持ってますよ)」
と千里がやはりスペイン語で言って見せるので
「うっそー!?」
と驚いていた。
「Tienes la licencia, tambien?(あなたも免許持ってますか?)」
と千里は絵姫に尋ねた。絵姫は
「Si」
と答えて自分の免許証を見せた。フランスで発行されたヨーロッパ共通免許証である。Elissa Vernierという名義になっている。工藤映玲南が偽名というのがバレてしまう訳で、こういうのを見せるのは無防備だなあと内心苦笑する。そこで千里はごく自然に言った。
「Entonces, Puede conducir este auto a Marseille? Elisabetta de la Vega」
(じゃこの車をマルセイユまで運転してもらえませんか?エリザベッタ・ドゥ・ラ・ヴェガ)
「Si(はい)」
と絵姫は言って運転席に座った。スペイン語での会話が続いていたので、絵姫は深く考えずに返事したのだが、今本名を呼ばれてそれに「はい」と答えたので、絵姫はこの瞬間、千里3の直接の眷属になっってしまったのだが、絵姫本人がそのことに気付いていなかった。
(絵姫は千里2が“仮の主”になって千里3に貸与していたので“正式の主”が居なかった。それで横取りしてしまったのである)
運転は途中途中で交代しながらマルセイユに向かった。千里3は運転を交替した直後に思い出したように言った。
「工藤さん、私このままマルセイユ・クラブである程度実力を見せたら、そのままロースターに入ってという話になる可能性もあると思うんです。そうなった場合のために、フランスでの就労許可証を取ってもらえませんか?」
絵姫はその話をどうやって切り出そうかと思っていたので驚いたが好都合だと思い、同意した。
「そうなる可能性はありますよね?すぐ申請します。あれ?でも以前スペインに居た時というのは?」
「スペインのDビザ(就労ビザ)を取ってますよ」
「だったら、フランスの就労ビザと長期滞在許可証もすぐ取れますよ」
シェンゲン圏は短期滞在ビザは全圏共通なのだが、就労ビザは国単位で発行され、各々の国によって発行基準もまちまちである。しかしスペインでプロ選手としての就労経験があり、特にトラブルを起こしてなければフランスでも許可が出る可能性が高い。もっともこの手の作業はだいたい時間が掛かる。
「と思うんですよね。当時私がいたチームは消滅したんですが、親会社は存続していますから、必要な書類とかは発行してもらえると思います」
と言って千里は運転しながら片手でバッグを開け、その中から古い選手名刺と親会社の副社長の名刺を取り出して渡した。
「バッグの中を見ずによく取り出せますね!」
と絵姫が驚いていたが
「え?ふつうできません?」
などと千里は言っていた。
4月26日(水)のお昼頃、鱒渕水帆の両親と兄に祖父母までやってきた。大勢で来たので、水帆自身が
「まるで私のお葬式みたい」
と言って笑っていた。両親たちは困惑したものの、元気な様子なのでホッとしたようである。
しかしその後、コスモス・紅川会長、両親と兄だけで医者から病状説明を聞くと、両親は厳しい顔になった。コスモスが両親に
「こんなになるまで気付かず、大変申し訳ありません」
と手をついて謝ったが、お兄さんは
「あいつは昔から全部自分で抱え込んで、人に弱音をはかない子だったんです」
と言った。
コスモスは彼女の治療費は退院するまで全額事務所で持つこと、その間の給料もこの1年間の実際支給額の平均と同額を毎月払い、ボーナスも出すことを言明した。また今回のご家族の佐渡・新潟からの交通費・宿泊費はもちろん、今後もお見舞いのために出てくる時の費用は全て出すことも言明した。
ところでアクアのツアーは目前である。鱒渕のダウンで緊急に代理のツアー統括者を決めなければならない。コスモスと紅川は誰に代わってもらうか話し合ったのだが「その前に何をしなきゃいけないんだっけ?」という話になり、病床の鱒渕にもすべきことをリストアップしてもらったのだが、コスモスも紅川もその作業項目の多さに絶句する。
実際問題として代理が務まりそうなのは沢村か月原しかいないのだが、とても1人では無理だとコスモスは判断した。
「それに2人とも大きな会場を経験していないよ」
と紅川も指摘した。
沢村は2万人クラスまでは経験しているがドームは経験が無い。月原は5000人クラスまでしか経験していない。
「それと2人ともアクアの性的な傾向を誤解している気がします」
とコスモスは言う。
鱒渕は中学生の時のクラスメイトに性別の曖昧な友人がいたらしく、わりとこの付近について理解があったのである。
アクアの場合は、一般的なトランスジェンダーや同性愛者とは明白に異なるのがひじょうに難しい。あくまで彼は“ふつうの男の子”なのである。といって彼は一般的な男の子タレントと同様の扱いでは、うまく行かない。それを理解しているのは、鱒渕以外にはコスモスくらいである。
「∞∞プロの菱沼伊代さんにお願いできないでしょうか?」
と川崎ゆりこが提案した。
「あの人か!」
彼女は∞∞プロで大物アーティストを何人かマネージングした経験があり、ドームや巨大アリーナのツアーも何度も経験している。そして彼女は丸山アイの最初の担当だったのである。現在は丸山アイからは外れて、ゴールデンシックスの専任だが、幸いなことにゴールデンシックスはゴールデンウィークのツアーが無い。
「丸山アイちゃんは、ある意味アクアと似たアーティストかも」
とコスモスも言った。
「あの人、たぶんtwo-spiritですよね?」
と川崎ゆりこ。
「その付近は公開してないけど、それに近いと思う。リボンの騎士のサファイヤなどと似たタイプ」
とコスモス。
「結局あの子って、肉体的には男なんだっけ?」
と紅川。
「ふたなりではないかという気がします」
とコスモス。
「え〜!?」
「つまりアイちゃんって、たぶん肉体的にも精神的にも両性具有なんですよ」
「うむむ」
「アクアの場合は両性具有ではなくてむしろ両性具無に近い“性的未分化”の状態だし、心も性的モラトリアムに近くて、two-spiritではなく gender flex に近いと思うんだけど、two-spirit の人を見ていればアクアは理解しやすいと思う」
とコスモスは難しいことを言った。
それで紅川会長が∞∞プロの鈴木社長に電話した所、ゴールデンウィークの間だけなら菱沼を貸すのは問題無いと言ってもらえた。
それで26日の夜、テレビ番組の収録が終わって、帰宅しようとしていたアクアの所に菱沼がコスモスと一緒にやってきて言ったのである。
「アクアちゃん、今晩一晩私とデートしよう」
「えっと・・・」
「セックスくらいさせてあげてもいいよ」
「ごめんなさい!僕、性欲が無いんです」
とアクアは言ったが、一瞬コスモスが嫉妬するような顔をした。アクア本人も、やはり社長、僕のことが好きなのかなあと思いドキドキした。
番組収録をやっていたのはアクアFなのだが、男の子の身体でないとまずいかもと感じて《わっちゃん》に直信して、トイレ(女子トイレ)の中でMと交替した。
それでアクアMが深夜、菱沼とデートした。
菱沼はアクアを裸にまではしなかったものの、ホテルのダブルルームでベッドに並んで腰掛け、「高校生だからこのくらいはいいでしょう?」などと言ってワインを飲ませて(未成年飲酒)、明け方近くまで話し合った。それで
「だいたいアクアちゃんのことが分かった」
と言った。
「アクアちゃんって実はふつうの男の子なんだ」
と菱沼が言うので
「そのつもりですけど、みんな絶対に“ふつうの男の子”ではない、と言うんですー」
などとアクアは言う。
「うん、みんなが言うことも当たっている」
と菱沼は言いながら、アクアのお股を少し悪戯した。そこはアクアの意志に反して健全な男の子の反応をする。
「そこ触るの勘弁してくださーい」
「機能確認してるだけ。でもてっきり去勢して女性ホルモンもやってると思っていたのに」
「ボク、男の子だから去勢するつもりはないです。女性ホルモンは欺されて飲まされちゃうこと、よくあるけど。丸山アイさんとかフェイさんとかうまいんですよ」
「あはは。でもおっぱいは膨らんでないし、あそこも機能があるから、効くほども飲んでないね」
と菱沼は、またアクアの(ブレストフォームを外した)胸を悪戯していた。
そういう訳でこの夜はアクアは菱沼にたくさん“セクハラ”(ほぼ性犯罪)されたものの、童貞(?)も処女(!?)も守ったのであった。
「伊代さんは好きな男の人、あるいは女の人って居ないんですか?」
「気になる男の子はいたんだけどねぇ」
と言って、彼女は遠くを見るような目をした。
「その子、性転換して女になっちゃったんだよ。だから永久にセックス出来なくなった」
「そんな人がいたんですか」
「でもごめんね。一晩付き合わせて。今日は学校はお休みだよね?」
「いえ、ちゃんと行きますよ」
「ツアーの直前なのに学校に行くの!?」
「契約書で、学校絶対優先ということになっているので、特別な場合を除いて学校は休みません」
「あんたが過労で倒れそう!」
「北野天子ちゃんとか何度か倒れてますね」
「あんたの方がどう考えても天子ちゃんの10倍働いていると思うけど」
「今井葉月がリハーサルを全部引き受けてくれるから、実際には負荷はわりと低いんですよ」
「それでも今の仕事量をこなすには、アクアちゃんが最低でも2〜3人居ないと無理な気がする」
「ああ、時々自分が3人くらい欲しいと思います」
とアクアが内心冷や汗を掻きながら言うと、菱沼さんは頷いていた。
菱沼さんは早朝タクシーを呼んでアクアを自宅に帰した。実際に徹夜になったアクアMはその日は1日自宅で寝ていて、学校にはFが出て行き、夕方からのツアーの打合せにはNが出て行くことにした。
「ところであんたお酒飲んだよね?」
とFから訊かれた。
「勧められてワインを少し」
「僕たちまで酔っちゃったじゃん」
「1人がお酒飲むと全員酔うのか!?」
「ホルモン剤もひとりが飲むと全員に効くかもね」
「というかFの卵巣で作られている女性ホルモンとMの睾丸で作られている男性ホルモンが現時点では中和している気がする」
菱沼本人は少し仮眠した上で9時に§§ミュージックの事務所に出て行き、27日いっぱい、エレメントガードのヤコ、応援に呼んだゴールデンシックスの花野子・梨乃(2人はアクアがデビューした頃、バックバンドを務めていた)、それにコスモス・ゆりこも入って話し合い、何とか翌々日から始まるツアーの手順書を完成させたのである。
結局、今回のツアーの管理は、菱沼が吉田和紗を助手に使って遂行することにし、菱沼の人脈から、丸山アイのマネージャーである楠本京華もサポートで入ることになった。手順書の清書と印刷配布は研修生の羽藤玲香(後の桜木レイア)と川内峰花(後の山下ルンバ)が手分けして行った。彼女たちも今回のドームツアーに同行して助手を務める。また葉月も「ボクも雑用で使って下さい」と申し出たので、どんどんこき使われることになる!
結局5〜6人で分担してやらなければとてもできないようなことをこれまで鱒渕は1人でやっていたのである。コスモスは会議を通じて、これは本格的にスタッフを増員しなければヤバいと感じた。
なお、27日にアクアは(アクアFが)学校にちゃんと行ったのだが、葉月は前日に続いて途中で呼び出されて学校を早引きし、会議に参加している。
ちなみに葉月は前日の26日に鱒渕さんのお見舞いに行ったが、本人が元気そうなので驚いていた、
もっとも鱒渕の病状は、本人は元気そうに見えるのに身体の内部が衰弱しているのが、大きな問題なのである。実際本人はツアーの間だけ休ませてもらってその後すぐ業務に復帰するつもりだったようだが、医者から「最低療養3ヶ月」と言われて、かなり不満を言っていた。
人工透析も受けたが、透析のあと
「あ、なんか身体が快調」
と言い、
「透析前の状態が最悪だったんだけど」
と医者から言われて
「そういえば辛かったかも」
などと言っていた。
なお本人が“実は瀕死の状態”であることは、本人には言っていないし、言わないようにしようと家族と事務所は申し合わせていた。