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7月9日(月).
千葉のアパートに青葉から桃香宛の荷物が届いた。青葉が愛用している数珠である。千里の性転換手術の後で、ヒーリングをしてあげたいから、その媒介に使って欲しいということであった。手術中はアクセサリーの類いもつけられないので、手術が終わった後で、千里の腕などにつけてあげて欲しいと青葉は言っていた。元々千里に買ってもらった数珠なので、青葉と千里の間に強力なコネクションを築くことができるらしい。
「青葉自身、同じ日に手術を受けるのに、ヒーリングなんてできるのかね」
と桃香は千里と話した。
当日、青葉は射水市の病院で16時から、千里はプーケットの病院で現地時刻の15時(日本時間の17時)から手術を受ける予定である。両者はほぼ同時進行になるはずだ。手術はだいたい3時間程度かかるものと思われる。
「無理しない方がいいと思うんだけどね。私は何とかなると思うし」
と千里も言う。
「それお母さんに言っておいてよ。絶対に無理させるなって」
「うん。伝えておく」
7月10日(火).
千里は桃香の友人・桜子が勤めている千葉市内の旅行会社の店舗を訪れ、頼んでいた航空券を受け取った。この代理店には青葉の家族の法事の時のチケットの手配などもしてもらったし、最近はローキューツの遠征の際のチケットの手配も毎回頼んでおり、千里は“上得意様”になっている。次のローキューツの遠征用のチケット代金も、ついでにカードで払っておいた。
「しっかし凄いカード持ってるなあ。私これ他で見たことないよ」
「年会費が凄まじいけどね」
「だろうね。念のためパスポート確認しておいていい?」
と桜子。
「うん」
と言って、千里は自分のパスポートと預かってきた桃香のパスポートを提示する。
「Momoka Takazono, April 17th, 1990, Sex Female; Chisato Murayama, March 3rd, 1991, Sex Female. 間違い無いね」
と桜子は航空券とパスポートの記述を照合して言った。
「うん。性別が間違っていたら大変だけどね」
と千里。
「桃香はSex Maleと書かれていた方がトラブルが無い気もするけどね」
と桜子。
「ああ。去年アメリカ行った時もアメリカ入国・出国両方で『あんた男じゃないの?』と言われて揉めたんだよ」
「桃香らしいや」
「でも千里ちゃん、このパスポート凄いね。大量に入出国してる」
「うん。作曲家の助手してる関係で頻繁に海外に出るんだよ。ある時なんて唐突に『ちょっとドイツまで行ってきて』と言われて、0泊で往復して来たし」
「大変だね!」
「だから現金もいつも日本円・ユーロ・ドルとある程度持っているんだよ」
とバッグの中身を見せると桜子は
「すごーい。ひったくりに気をつけてね」
と言った。
7月12日(木).
貴司はこの日から15日まで男子代表の第五次合宿で東京のNTCに出てきた。実際には始発に乗っても練習開始に間に合わないので、前日11日の夜に東京に移動し、アスリート・ヴィレッジに前泊してから練習に参加している。
代表合宿にも随分慣れてきた。しかし今回貴司は“困った問題”を抱えていた。
“その問題”は練習に影響が出るかなと思っていたのだが、急激な動作をした時に“あそこが痛い”ため、瞬発力が少し落ちる問題を除いては何とかなった。むしろ“あそこが邪魔にならない”おかげで、足を激しく前後に動かすドリブルは前より速度があがった気がした。
12日の練習が終わって、部屋に戻る。代表合宿って疲れるけど充実感があるなあと思い、取り敢えず大浴場で汗を流してこようかなと思って洗面道具を持って部屋を出た。そして脱衣場で脱ぎかけてから、
しまった!
と思う。慌てて服を着直してそのまま部屋に戻る。脱衣場の出口で龍良さんとすれ違う。
「あれ?もう終わったの?」
「はい。お風呂頂きました。お疲れ様です」
と言って、急いで部屋に戻る。
龍良さんはやばい。絶対やばい。俺、愛人にされちゃうよ!と貴司は思った。それでその日は自分の部屋のシャワーで汗を流した。
13日も同様に練習後自分の部屋で汗を流す。
そして14日。この日練習が終わった後、部屋に戻ろうとしていたら龍良さんがいきなり貴司の肩に手を回すと
「ほ〜そ〜か〜わ〜君、今回はまだ一緒にお風呂入ってないよ。入りに行こう」
と言った。
貴司はとっさに右手で胸の付近をガードしたので“バレずに”済んだものの、お風呂というのは絶対にやばい。
「すみません。ちょっと頑張りすぎたみたいで。眠たいので今日はこのまま寝ます」
と貴司は言い、取り敢えず逃亡した。
その貴司の背中を見ながら龍良は腕を組んで何か考えていた。
「どうしたん?ショウちゃん。細川が気に入った?」
と須川主将が訊く。
「いや。あいつ絶対怪しい」
「へ?」
「まあいいや。次の合宿では正体をあばいてやる」
「正体???」
2012年7月14日(土).
この日の朝起きると千里は自分の身体が「男の子の身体」に戻っていることを認識した。
「なんかこの身体頼りないなあ」
と思わず声に出して言ってから
『これってもう男の子になるのは最後だよね?』
と《いんちゃん》に尋ねる。
『そうだよ。もう性転換手術受けちゃうからね。千里、やっと5年前からの借金を返せるんだよ』
千里が突然《性転換手術後の身体》になってしまったのは2007年5月21日の朝である。
『そっかー。私が女子バスケット選手をしてきたのはたった5年間か』
その5年間の間に随分色々あったよなと千里は思った。
『それ以前からほぼ女の子だった気もするけどね』
と《いんちゃん》が言うと、眷属たちとは別の方角でクスクスと笑う声もあった。
朝御飯を食べてから、成田空港に向かう。成田には札幌から玲羅もわざわざ出てきていて、千里を見送ってくれた。玲羅の大学はまだ夏休みに入っていないのだが、土日なので出てきてくれたのである。東京に出てきたついでにライブに参戦してから帰ると言っていた。
「姉貴が今更何の手術を受けるつもりなのかよく分からないんだけど」
「私もよく分からないのよね〜」
「その手術死んだりしないよね?」
「ごく稀に死ぬ人はいるみたいだけど」
「じゃ死なないように気をつけてね」
「ありがとう」
飛行機の座席に座ってから千里が愛用のスントの腕時計を見るとSAT 14 JUL 10:40 という文字が表示されていた。「あ、日付も時刻も1と4だ」と思う。
飛行機の中では桃香がたくさんおしゃべりをして、少し寝ておきたかった千里もそれにずっと相槌を打っていた。バンコクに着いてから入国審査を通り、国内便に乗り換えるのに空港内を歩いていた時、ふと時計を見るとFRI 14 JUL 17:47 という表示になっていた。
あれれ?日付が変わって金曜日になったんだっけ?でも日付は14日のままだよ。時差だっけ??と、よく分からないことを考えて千里は桃香に尋ねた。
「タイって時差は2時間だったよね?」
「うん。2時間だよ。あ、千里の時計、日本時刻のままでしょ」
「うん。タイ時間に直せる?」
「OKOK。貸して」
と言って、桃香が直してくれる。この腕時計には世界時の機能があるので都市名をBKKに設定してくれたようである。実は千里はこういうのが苦手なので、海外遠征に行く時はいつも玲央美に直してもらっている。
「はいできたよ」
「ありがとう」
それで受け取った腕時計はFRI 14 JUL 15:48になっている。17時台から15時台に時間が2時間戻っているが、曜日は金曜日のままである。あれ〜?何でだろうと思ったが、まっいっかと思った。
NRT 7/14(Sat) 10:50 (TG6003/NH953 77W) 15:25 BKK (6h35m)
BKK 16:45 (TG217) 18:05 HKT
その後国内便でプーケット空港(HKT: Phuket International Airport)行きの便に乗り継ぐ。1時間20分のフライトで到着し、アテンダントさんに案内されてタクシーでTAH(Tanputa Aesthetic Hospital)に入り、すぐ入院手続きをした。
ここは2004年にできた病院で、院長のテンプータ先生はバンコクの有名なプリーチャ先生のお弟子さんらしい。プリーチャ先生のChollada Clinic や 2002年に設立されたPAI (Preecha Aesthetic Institute)にもおられたらしい。
この日14日は“金曜日だったので”、時刻的には18時を過ぎていたものの、病院の平日のシステムがまだ動いていた。それで、千里は病院に入るとすぐに血液検査・尿検査を受け、心電図やMRIも取られた。テンプータ先生の診察も受けた。
一方この日7月14日(土)に青葉は卓球の地区大会に出ていた。別に卓球部ではないのだが人数が足りないからと言われて助っ人だったのである。青葉は昨年7月14日付けの「睾丸が存在しない」という診断書を持っていたので、今年の7月14日以降なら県大会までは女子選手として出られるという中体連の認定をもらって出場したのである。
翌7月15日(日)には、富山市に行き、コーラス部の県大会に出場した。青葉のソプラノソロをフィーチャーした『合唱組曲・立山の春/五番・愛』を歌い、1位になった。これで今月29日の中部地区大会に進出することとなったが、29日は青葉は性転換手術の11日後でとても歌えないので、2年生の葛葉がソロパートを歌うことになっている。
青葉は16日(月・祝)には入院の準備などをし、17日(火)は学校はあるものの休ませてもらい、射水市の病院に入院した。母はこの日から会社を休もうかと言っていたのだが、
「今日手術する訳じゃ無いから大丈夫だよ。明日は付いてて」
と青葉が言うので、結局この日は会社に出て行き、18日に有休を取ることにした。この日の夕方には、彪志も千葉から来てくれた。彪志はこの日は青葉に面会した後、青葉の家に泊まって、手術当日、母と一緒に病院に出てきた。
一方プーケットでは、手術までの間桃香はすることがないので、青葉からお土産なら何か宝石を使った安いアクセサリーをと頼まれていたしと思い、プーケットに到着した翌日の7月15日(土)には町に出て、わりと庶民的な雰囲気のするジュエリーショップに入った。
タイ語でもお店の名前が書いてあるが桃香には読めない。しかし英語でもJewelry Shop Colognと書かれているので、きっとタイ語でも同様のことが書かれているのだろうと考える。
桃香が入って行くと、店員さんが出てきて何やら中国語で話しかけてこられたので桃香が焦って「えーっと」と言うと、こちらが日本人であったことに気付いたようで
「お兄さん、彼女へのプレゼントですか?」
とやや片言っぽい日本語で話しかけられた。
桃香は「お兄さん」と言われたことは気にしないことにして、
「妹へのお土産なんです」
と答えた。
もっとも向こうは微妙に日本語が分かってないようで、日本語と英語のミックスで会話をする。結局、銀色の星形のプレートに三日月型の青い石がぶらさがり、その先に赤い小さな石もぶらさがっているイヤリングを選んだ。お店の人はプレートは銀、青い石はブルースピネル、赤い石はルビーだと言っていたが、それは値段からしてかなり怪しい気がした。それでもきれいなイヤリングなのでそれを買うことにする。
「これピアス仕様だけどイヤリング仕様、ear clip typeに変更できる?」
「できますよ。金具はどれにします?」
「ゴールドフィルド(金張り)のある?」
「これがGold Filledだよ」
「じゃそれにして」
「分かったよ。では金具代入れて加工代サービスで10000バーツ(約2.5万円)です」
「おお安いね〜。6000バーツか」
「いえ、10000バーツですけど, It is TEN thoudand bahts」
「うん。6000バーツってなかなか素敵だね。SIX thousand bahts is a good price」
お店の人と桃香はお互いに「こいつは手強いぞ」という視線で微笑み合う。
そして10分間に及ぶ戦闘!の結果、8500バーツで妥結した!桃香もお店の人も、お互いなかなか好敵手であった!?と認め合い、最後は握手した。
「お兄さん、なかなかやるね。ここまで僕に張り合った人は初めてだよ」
と店員さんは言いながら金具の交換をやってくれた。
それで8500バーツ払い、レシートをもらった。
そのレシートの日時は 11:30 Sat July 15 2006 と印刷されていたが、ここで年が2006になっていたことに桃香は気付かなかった。