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■クロ子義経(20)

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続いて場面は主演者一同が百人一首をしている場面に移り、エンドロールが流れる。
 
制作、監督、撮影、音楽、美術などのスタッフが表示された後、出演者の一覧が出る。最初に先頭でも表示されたように
 
高 ア 品
崎   川
ひ ク あ
ろ   り
か ア さ
 
とメイン3人の名前が出た後、出演者の名前が所属別!に表示された。
 
■§§ミュージック(アーティスト番号順。括弧内はデビュー年)
源頼朝 秋風コスモス
富樫泰家 川崎ゆりこ
佐藤四郎忠信・佐藤太郎行信 今井葉月(2015)
平教経 西宮ネオン(2015)
佐藤四郎忠信・佐藤太郎行信・建礼門院 姫路スピカ(2016)
木曽義仲 白鳥リズム(2017)
熊谷直実 花咲ロンド(2017)
巴御前 石川ポルカ(2018)
佐藤三郎継信 桜木ワルツ(2018)
浄瑠璃姫 原町カペラ(2019)
浪の戸姫 山下ルンバ(2019)
那須与一 桜野レイア(2019)
平敦盛 東雲はるこ(2020)
 
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■§§ミュージック・研修生・練習生
鷲尾三郎義久 木下宏紀
海野五郎浪安 坂田由里
平維盛 篠原倉光
義経の少年時代 渡辺灯美
 
■リセエンヌ・ド(lycéenne d'or)
亀井六郎重清 佐藤ゆか
源有綱 高島瑞絵
伊勢三郎義盛 南田容子
一条能成 山口暢香
 
■信濃町ガールズ(五十音順)
河越重房 青木由衣子
楯親忠 今川容子
海野幸氏 上田信貴
源義高 上田雅水
駿河次郎清重 大崎志乃舞
菊王丸 太田芳絵
香殿 斎藤恵梨香
根井行親 左蔵真未
今井兼平 桜井真理子
阿野全成 中村昭恵
平知盛 町田朱美
郷御前 水谷康恵
源義円 三田雪代
樋口兼光 悠木恵美
 
■§§プロ(デビュー順)
二位の尼 上野陸奥子
北条時政 立川ピアノ
乙和姫 大宮どれみ
平宗盛 日野ソナタ
佐藤基治 春風アルト
吉野の執行 冬風オペラ
磯禅師 満月さやか
薬師殿 桜野みちる
ナレーター 明智ヒバリ
 
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■オーディション選出(クレジット分のみ。登場順)
武田信義 竹原隼人
畠山重忠 勝沢成良
平知度 山崎宗志
源親義 宮田啓輔
平山季重 生方聖也
船頭(屋島合戦前) 猿田浩夢
近藤親家 多山雅治
祐殿 谷畑博子
江田源三弘基 簑田啓吾
工藤祐経 金井誠一
産婆 八坂千代
大姫の侍女 三田貴代
仮名・壱 河田瑛子
仮名・密 榊原柚花
 
■一般出演
藤原秀衡 北村圭吾
梶原景時 タンニ・バーム
堀彌太郎景光 マツ也(先割れフォーク)
千光坊七郎 スキ也(先割れフォーク)
廊御方 萩原愛美
源一幡 水原裕樹(劇団桃色鉛筆)
安徳天皇 間島志保美(劇団桃色鉛筆)
 
■エキストラ
10000人のエキストラの皆さん
 
■友情出演
玉虫の前 松梨詩恩
土佐坊昌俊 大林亮平(Wooden Four)
安達新三郎清常 森原准太(Wooden Four)
大納言平時忠 本騨真樹(Wooden Four)
常陸坊海尊 木取道雄(Wooden Four)
 
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■特別出演
後白河法皇 藤原中臣
 
最後(トメ)の藤原中臣は大きく“起こし”で表示された。
 
藤原さんは「ボクみたいな端役がそんな大物扱いされたら恥ずかしい」と本当に恥ずかしがっていたのだが、実際に放送されたドラマを見て咳き込んだ。
 
「蛍蝶さんが出てたの〜〜〜?」
 
「ああ。今井葉月のお父さんに頼む予定だったのですが、公演の日程とぶつかってしまって。そしたらお祖父さんが『ぼくが代わりに出ようか』とおっしゃって」
と秋風コスモスは説明する。
 
「蛍蝶さんが出てるのに、ボクがトメになったら叱られるよ!」
「蛍蝶さん、自分は引退した身だからとおっしゃってました」
 
「それにしても申し訳無い」
というので、藤原中臣さんは、柳原蛍蝶の所に、高級和菓子を持って“お詫び”に行ったらしいが、蛍蝶は「いや中臣君は充分トメに値する」と言っていたらしい。
 
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(*15)衣川館で亡くなった“義経の妻”について
 
吾妻鏡・文治5年(1189)・閏4月30日の記事はこのようになっている。
 
閏4月30日 己未
今日陸奥の国に於いて、泰衡源與州を襲う。これ且つは勅定に任せ、且つは二品の仰せに依ってなり。豫州民部少輔基成朝臣の衣河の館に在り。泰衡の従兵数百騎、その所に馳せ至り合戦す。與州の家人等相防ぐと雖も、悉く以て敗績す。與州持仏堂に入り、先ず妻(二十二歳)子(女子四歳)を害し、次いで自殺すと。
 
この女子4歳はその妻22歳が産んだ子であろうから、衣川館で義経と運命を共にした妻が1186年に女の子を産んでいたことになる。
 
義経の妻の数は6人という意見が多いようである。24人という説もあるらしいが、それはさすがに無理がある。様々な文献に出てくる名前は私が把握している範囲では7人である。
 
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■存在が明確なもの
郷(さと)御前 河越重頼の娘
蕨(わらび)姫 平時忠の娘
静(しずか)御前 白拍子
浪の戸 佐藤基治の娘
 
義経千本桜は河越重頼の娘が平時忠の養女になって義経に嫁いだとしているが、作者が混乱していたか、話を単純化するためにそうしたかと思われる。郷御前と蕨姫は別人のはず。
 
■存在がやや怪しいもの
浄瑠璃姫 兼高長者の娘
 
■存在が結構怪しいもの
久我姫 久我大臣の娘あるいは久我大将の娘。名前を良子御前と書いた文献も見るが出典不明。
 
■存在がかなり怪しいもの
皆鶴姫 鬼一法眼の娘
 

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取り敢えず皆鶴姫は無視する。
 
蕨姫(平時忠の娘)は1185年に義経と結婚した時23歳あるいは28歳だったというので年齢が合わない。静は1186年に鎌倉で男の子を出産したのだから違う。浄瑠璃姫は伝説の域を出ないが、彼女が東北に向かったのはもっと後と思われる(既に死亡していたという説もある)。
 
久我姫だが、義経記はこの人が衣川館で義経に殉じたとしている。
 
父親の久我大臣とは“久我内大臣”と呼ばれた源雅通ではないかと思われる。義経記には久我姫が9歳で父を亡くしたと書かれていて、久我雅通は1175年に亡くなっているので、久我姫が1168年生まれなら符合する。その場合義経の北行が1186年なら当時19歳。衣川館が襲撃された1189年には22歳になり、吾妻鏡の記述と一致する。
 
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しかし肝心の、源雅通にそのような娘が居たという記録が見当たらないのが困ったものである。源雅通の娘としては、藤原実守に嫁いだ人、建春門院の女房になった人(三条殿)だけが記録されている。義経ほどの人に嫁いだ娘がいたとしたら、記録されていて然るべきである。
 
義経記では、平泉に逃れるという時に、義経がこの人を連れて行くべきかどうかかなり悩むシーンがある。結果的に連れて行くのだが、なにせ深窓の令嬢なのでまともに歩けず、義経の郎党たちが「先に行ってますね」と言って置いていかれる始末である。かなり足手まといになっている。
 
この旅は物見遊山の旅ではない。
 
発見されれば全員命を落とす厳しい旅である。郎党たちは逆賊の汚名を着ても、これまでの恩義で義経に命を預けてくれている。それなのに個人的感情でこのような足手まといの女を連れて行ったとしたらあまりにも愚かすぎる。義経の性質としてそのようなことは考えられない。
 
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しかもこの姫は妊娠中で、旅の途中で出産するのである(男の子で亀鶴御前と名付けられる)。朝敵としてすみやかに捕らえるべく全国に号令が掛かっている中で、妊娠中の妻を連れて行くなんて、そこからして不可能である。義経記では姫を稚児に変装させているが、出産間近の女ではそのような変装は不可能。
 
要するにこの話は破綻している。
 
だいたい、女を連れて行けるのであれば、吉野で静と別れる必要が全く無かったのである。どう考えても大臣の姫君などより、堀川夜討での動きに見られるように戦闘的な静の方がずっと役に立つし、長旅にも耐えると考えられる。
 
そういう訳で妊娠中の久我姫を連れて逃避行したというのはあり得ないし、逃避行の時は別行動だったとしても、監視されているのは間違い無い義経の妻が後から赤子を連れて平泉に向かうというのもあり得ない。
 
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そういう訳で久我大臣の娘が一緒にあるいは別途平泉に行って衣川館で義経と運命を共にしたというのは不可能としか思えないのである。
 

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通説では衣川館で死んだのは郷御前(河越重頼の娘)とするが、上記久我大臣の娘同様、彼女も厳しい北行の旅が可能だったか、大いに疑問がある。
 
義経の北行の時期は、西国に逃れようとして嵐に遭い、大物浜でバラバラになってしまった文治元(1185)年の11月よりは後である。また郷御前が文治2(1186)年に子供を産んだとしたら、この年の最後の文治2年12月29日に産んだとした場合でも、この日はグレゴリウス暦では1187.2.16になり、ここから逆算すると受精日は1186.5.26ということになり、これは文治2年4月29日である。
 
そういう背景で郷御前が1186年に子供を産んだのなら考えられるのは次のようなケースである。
(a)義経と郷御前の双方が文治2年4月29日までに平泉に到着しており、そこで受胎した。(b)京都で受胎し、文治2年の夏の間に平泉に移動してそこで出産した。(c)京都で受胎・出産し、それが文治5(1189)年閏4月30日までの間に平泉に移動した。
 
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監視がある中での妊娠中の移動はやはり考えにくいので、あり得るとしたら(a)か(c)である。(a)の問題点は厳しい冬の東北を姫君の足で踏破できるのかという問題である。すると(c)のケースが考えられるが、赤子あるいは幼少の子供を連れての旅は無理が出来ない。監視のある中でそういう旅をするのはやはり厳しいのではないかという気がするのである。
 
そうなると、郷御前が衣川に移動して義経に殉じたという考えも、微妙に困難なことと思われる。
 

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近年注目されたのが、衣川館で死んだのは、元々東北に住んでいた、佐藤基治の娘・浪の戸姫とする説である。つまり佐藤継信・忠信兄弟の妹である。
 
佐藤兄弟の献身は尋常でないが、それも妹が義経の妻であったなら、妹のためにも必死で頑張ったというのが納得できる。
 
元々浪の戸姫は東北にいたので、東北に亡命してきた義経の傍に付いていても全く不自然ではない。但し、もし浪の戸が1186年に女の子を産んだとしたら先ほどの考察のように、義経は文治元年(1185年)11月17日に吉野で静と別れた後、文治2(1186)年4月下旬頃までには東北に移動していたことになる。その場合、1186年頃に盛んに京都の近辺に義経が出没していた噂が流れたのは、佐藤忠信や掘景光あたりの仕業という可能性が出てくる。
 
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なお浪の戸はこの女の子の他に安居丸という男の子も産んでいて、その子は佐藤家の血筋の者に育てられ佐藤基信と名乗ったともいうが、そういう子がいたら、どうやって助かったのか、あるいはなぜ衣川館で女の子の方だけを道連れにしたのかがよく分からない。普通は、女の子は見逃されたとしても男の子は確実に殺されていたはずである。
 
以上のような考察をまとめると、このような結論が導かれる。
 
−衣川館で義経と運命を共にしたのは浪の戸姫
 
−義経は文治元年11月に都落ちした後、文治2年4月頃までには平泉に移動しており、そこで浪の戸との間に女の子を作った。
 
−義経の郎党たちは文治2年夏頃までは京都周辺でわざと騒ぎを起こして鎌倉方を牽制していたものの、源有綱・伊勢三郎・掘景光・佐藤忠信が相次いで捕らわれたことでそういう活動は鳴りを潜め、残った者たちは少しずつ平泉に移動した。
 
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−浪の戸と義経の間に男の子も産まれていたという話は怪しい。
 

この物語はこの「衣川館で死んだのは浪の戸姫」という説に沿って書いたものです。この説を唱えられている人のサイトを私は2015年1月に見て、それに沿って青葉物語の『春宴』を書いたのですが、あらためて探してもそのサイトを見つけることができませんでした。今回はあらためて義経記や吾妻鏡の原文を読んだ上で、独自に考察してみた結果、やはり浪の戸姫説が最も納得がいくように思い、その線でまとめてみました。
 

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「ところで結局義経を演じていたのは誰だっけ?」
と政子は訊いた。
 
「アクアだけど」
と私は答えた。
 
「アクアは静御前じゃないの?」
「このドラマでは静御前というのは架空の存在で、義経が静という白拍子の振りをしていて、今井葉月演じる佐藤行信が義経の振りをしていたんだよ」
 
政子はしばらく考えていた。
「つまりアクアは女装してたんだ?」
「何を今更。最近アクアは女役だけでいい。男役はさせなくてもいいという意見が強い」
「賛成。これ録画してる?」
「してないけど」
「なんで録画しないのよ!?」
「DVDが発売されるから、それ買ってあげるよ」
「おぉ!楽しみだ」
 
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■クロ子義経(20)

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