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■クロ子義経(17)

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(C)Eriko Kawaguchi 2019-05-05
 
ヒバリの解説。
『一行は東海道は目立つし、東山道は難所も多いのでということで北陸道を行くことにしました。そして現在は石川県小松市にある安宅関に掛かりました。(*19)この関を管理していたのは富樫泰家でした』
 
関所のセットに、義経一行が入ってくる。
 
先頭に立っている弁慶(品川ありさ)が言う。
『ここに関所がございましたか』
 
関守の富樫左衛門(川崎ゆりこ)が言う。
『そなたたちはいづれの御方か?』
 
『平家によって焼かれた南都東大寺再建のため国々へ勧進をお願いに参っております。我らは北陸道を承っております。どうか関所通過をお願いします』
 
『あいにく現在、山伏は通してはならぬというお達しが来ているので、申し訳ないが通すことができません』
 
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『なぜそのようなことが?』
『判官殿(源義経)と二品殿(源頼朝)が不仲になられて、判官殿が山伏の格好をして奥州に向かっているという報せが来ておるのですよ。ですから山伏は一切通さないことになっています。ここ数日で抵抗した山伏数名をやむを得ず斬りました』
 
『なるほど。それはニセ山伏を通してはならんということですよね?でしたら本物の山伏なら通ってもよいでしょう?』
 
『いえ、本物の山伏であっても通してはならぬと言われております』
と富樫(川崎ゆりこ)。
 
『困ったものですな。私たちはどうしても通りたいのですが』
『無理に通るというのであらば斬るしかないが』
 
『そうですか。我々は引き返すことは許されていない。とあらば斬られるのも仕方ない。でしたら、斬られる前に最後のお勤めをしてから殺されましょうぞ』
と弁慶(品川ありさ)。
 
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富樫もその「最後のお勤め」を認めたら、弁慶は
 
『それ山伏とは役行者(えんのぎょうじゃ)の行義を受け、即身成仏の本体をここにて打ち止め給わんこと、明王の照覧はかり難う、熊野権現の御罰当たらんこと、たちどころにおいて疑いあるべからず。オン・アビラウンケン』
などと唱えて大きな数珠を押しもんでいる。
 
ここに居る役人たちは全員仏罰を受けて死んでしまうだろう、などという呪いのことばである。その様が、いかにも本物の山伏にしか見えないので、富樫も役人たちも慌てる。
 
これは本気で上級の山伏を怒らせたか?と焦ったのである。
 

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『待たれい!そなたたちは東大寺再建のための勧進をしているとおっしゃったか?』
『いかにも』
『では勧進をなさっているのであれば、勧進帳を持っておられるか?』
『もちろん』
『ではその勧進帳を読んで見せてはもらえないか?』
『よかろう』
 
と言って品川ありさは巻物を1つ取り出した。
 
むろん、勧進帳などではない。取り出したのは実は近頃流行の小説が書かれた巻物である!越前で商人から買ったもので、静が昨夜は大笑いしながら読んでいた代物だ。しかし弁慶は本当にそこに勧進の趣旨が書かれているかのように“読み”始めた。
 
『大恩教主の秋の月は涅槃の雲に隠れ、生死長夜の長き夢、驚かすべき人もなし。ここに中頃、帝おはします。御名を聖武皇帝と申し奉る。日頃三宝を信じ、衆生を慈しみ給う。たまたま霊夢に感じ給うて、国土安泰、天下安穏のため、廬舎那仏を建立し給う』
 
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テレビカメラは品川ありさが“読んで”いる巻物を映す。そこにはそんな難しい文章などは書かられておらず
 
《そういうわけでボクはあの子のことが忘れなくなったんだ》
《でもあんた、その子の名前とか訊かなかったの?》
《訊きたかったけど、その子の顔に見とれていて》
 
などと、安っぽい恋愛小説にありそうなセリフが書かれていて、アクアや葉月が描いた落書きの絵まで入っている。
 
しかし品川ありさの“朗読”は続く。
 
『然るに去んじ治承の頃、焼亡しおわんぬ。かかる霊場絶えなむ事を嘆き、俊乗坊重源、勅命を被って無常の観門に涙を流し、上下の真俗を勧めて、かの霊場を再建せんと諸国、勧進す。一紙半銭、奉財の輩は現世にては無比の楽に誇り、当来にては数千蓮華の上に座す。帰命稽首、敬って白す』
 
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弁慶の読む“勧進帳”がどうにも本物っぽいので、富樫はむしろ感動している。そして念のためと思い、弁慶に山伏の意味や服装などについて、また呪文などについても問う。しかし弁慶は元々が仏門の修行をした身なので、よどみなく富樫の質問に答えた。
 
富樫(川崎ゆりこ)は言った。
 
『このような御高僧を疑ったりして、誠に申し訳無かった。私もその勧進を致しましょう』
と言って、富樫は白綾袴・加賀絹などを弁慶に奉った。
 
『これはありがたい。そなたの現当二世は安楽ですぞ。では通ってもよいか?』
 
『はい、どうぞお通り下さい』
と富樫は弁慶に礼をして通過を認めた。
 
それで一行が関所を通って、出口へ行こうとする。弁慶が通り、常陸坊が通り、鷲尾三郎が通り、海野五郎に静までも通り、最後に義経が通ろうとした時、富樫が彼を見とがめた。
 
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『その強力(ごうりき)、待て』
と富樫は言った。
 

『どうかしましたか?』
と弁慶が平静を装って尋ねる。
 
『その強力、九郎判官殿に似ている気がする』
と富樫が言う。
 
『何と!判官殿に似ているとな?何と腹立つことだ。今日はこのまま能登辺りまで行こうと思っていたのに。強力のくせに僅かしか荷物を持っていないから怪しまれるのだ。更に判官殿に似ているとは、お前の業(ごう)のせいだ。こうしてくれる、こうしてくれる』
 
と言って、品川ありさは強力姿の義経(演:?)を持っていた金剛杖で打ちつける。弁慶があまりにその強力を叩くので、富樫が停めた。そして言った。
 
『本当にその強力が判官殿であるなら、その家臣が主君を叩いたりする訳がない。疑いは晴れた。通ってよいぞ』
 
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ここでヒバリが登場して解説する。
 
『富樫は弁慶の態度からむしろその男が義経であることを確信したのです。しかしまた同時に、弁慶の義経を思うその深さに感動したのです。疑いを晴らすために敢えて自分の主君を杖で叩くなど、普通思いもよらないもの。きっと弁慶はこのあと主君を打ち据えた罪で自死したいと言うかも知れない。その自分の命を捨てて主君を守ろうとしている弁慶に感動し、富樫もまたそのような部下を持った義経のためなら、自分が処罰されてもいいと覚悟を決めたのです』
 

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『通ってもいいのか?』
と弁慶が尋ねる。
 
『うむ。通ってよい』
と富樫は言った。
 
それで弁慶も強力(義経)も、関所の出口を出て行ったのであった。
 

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(*19)富樫はここで義経一行を見逃したことで、頼朝の怒りを買い、官職を剥奪された・・・ともいうのだが、実際問題としてこのエピソード自体が完全な創作で、そもそも安宅の関なるもの自体が存在しなかったと言われている。
 
この物語は本来、石川県の安宅ではなく、富山県の小矢部川を渡る“如意の渡し”での出来事として義経記に見られるものである。話のパターンはほぼ同じで、義経が疑われたので弁慶が手加減なく義経を打つ。それでこの渡しを管理していた平権守が感動して、川を渡してあげたというものである。
 
それをもとに室町時代に舞台を安宅に移し、勧進帳を“読む”エピソードを加えて能の『安宅』が生まれ、更に江戸時代にこれをもとに歌舞伎の『勧進帳』が生まれた。
 
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義経記にも富樫介という人物が出てくるが、怪しんだりせず、勧進をしているという弁慶に、それはご苦労様ですと言って、寄付をしてくれているだけである。
 
なお現代の「安宅」「勧進帳」では、弁慶たちが関所を通過した後、富樫が追いかけてきて、一緒に宴会をするシーンがあるが、さすがにこれはあり得ない。そんなことをすれば富樫の部下に、やはりあれは義経では?と疑う者が出て、元も子もない。おそらくは最初はそのようなシーンは無かったのが、それだと富樫は愚かなので、弁慶に美事に欺されてこれは義経では無いと思ったのだろうと解釈する観客があったので、そうではなく、富樫は弁慶の心に打たれて敢えて欺されてあげたのだというのを観客に伝えるために付け加えられたシーンだろう。
 
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(**)義経と頼朝の呼称について。
 
義経は九郎、判官、伊予守・予州(旧字体では伊豫守・豫州)などと呼ばれる。
 
九郎というのは源義朝の九男だからであるが、吾妻鏡では六男と書かれている。実は八男ではないかという説もある。しかし本人は九郎を自称した。
 
判官(ほうがん)というのは役所の第3官のことで、義経は一ノ谷合戦の後で左衛門少尉に任じられており、この少尉というのが第3官である。
 
ここでトップは左衛門督(さえもんのかみ)、次官は左衛門佐(さえもんのすけ)、第3が左衛門尉(さえもんのじょう)である。この尉には大尉と少尉があるが義経は少尉である。現代の軍隊の階級ではトップが将官、次が佐官、次が尉官であるが、こういう昔の衛門の官位名が流用されている。江戸時代の名奉行・遠山景元は左衛門尉であった。
 
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なお「判官」は本来「はんがん」と読むのだが、近世以降、慣習的に義経のみ「ほうがん」という読み方が定着した。「判官贔屓」は「ほうがんびいき」である。
 
また義経は既に頼朝との仲が険悪になっていた文治元(1185)年8月(壇ノ浦から5ヶ月後)、伊予守(いよのかみ)に任じられている。それで義経に近い人たちは彼のことをそれ以降、伊予守あるいは婉曲表現で予州(よしゅう)と呼ぶ。予州とは本来伊予国そのものを指すことばである。
 
なお、義行あるいは義顕というのは、義経と対立した頼朝が“勝手に改名”したものであり、義経本人も知らなかったかも知れない!?
 

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頼朝は三郎、兵衛佐、鎌倉殿、二品などと呼ばれる。
 
三郎は三男だからである。
 
兵衛佐(ひょうえのすけ)とは頼朝が右兵衛権佐に任じられていたからだが、この任官は平治の乱の第一段(藤原信頼がクーデターで信西らを倒した事件)の直後であり、平治の乱の第2段(平清盛によりクーデター派が倒された事件)でキャンセルになっている。頼朝が右兵衛権佐であったのはわずか14日間である。
 
しかし頼朝はこのわずか14日間の任官により、兵衛佐(ひょうえのすけ)、佐殿(すけどの)、あるいは唐風に武衛(ぶえい)などと呼ばれていた。
 
二品(にほん)というのは元暦2(1185)年の壇ノ浦合戦が終わった後、従二位に叙せられたからで、二品は二位の別称である。
 
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鎌倉殿は鎌倉におられる方ということで、彼が鎌倉を本拠地として活動したからであるが、次第に「鎌倉殿」の実態は曖昧になっていき、頼朝本人の意向より政権全体の意向が「鎌倉殿」の名前で発表されるようになっていく。
 

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ヒバリの語り
『安宅の関を越えた義経一行は現在の金沢市金石町付近で、別行動をしていた蕨姫の一行と落ち合いました。蕨姫は再会を喜び、一緒に奥能登の現在の町野町にある、平時忠の屋敷まで行き、歓待されます。ここで義経は蕨姫に鳥羽天皇由来の“蝉折の笛”を託します。鳥羽天皇が亡くなった後、平家の誰かが所持していたものを、義経が預かっていたものでした。この笛は現在は須須神社(珠洲市)に収められています』
 
『平時忠の家で休んだ義経たちはその後、蕨姫と別れて、能登半島先端・珠洲の港から現在の新潟市に相当する蒲原津(かんばらのつ)まで船で移動し、そこから陸路を信夫郷(現在の福島市付近)にある佐藤基治の屋敷まで行きました』
 
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『ちなみにこの間、千光坊たちの囮一行は東山道の厳しい道を突破した後も、信夫郷には行かず、取り敢えず磐城方面で待機していました』
 
『義経たちが藤原秀衡の所に直接行かず、佐藤基治の所に来たのは、佐藤が義経にとって“身内”だからでした。秀衡はあくまで東北の支配者ですから、身内の情で動く訳にはいきません。それで佐藤家に入って、秀衡の意向を伺ったのです』
 

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佐藤家に到着した“静”(アクア)は、まずは佐藤継信・忠信の両親である佐藤基治と乙和姫の前に手を突いて頭を下げ謝った。
 
『申し訳無い。継信殿、忠信殿を失ってしまいました』
 
『頭をあげて下さい。ふたりとも伊予守殿のために戦って散ったのです。どちらも類い希なる源氏将軍の部下として幸せであったでしょう』
と佐藤基治(春風アルト)。
 
『どうかしばらくこちらで休んで下さい。二品殿(頼朝)ともきっと和解できる時が来ますよ』
と乙和姫(大宮どれみ)も言った。
 
両親への挨拶を済ませ、仏檀で手を合わせ立ち上がると、浪の戸姫(山下ルンバ)がいます。
 
『あなた、お帰りなさいませ。お疲れ様でした』
と浪の戸姫が言う。
 
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『ただいま。寂しい思いをさせたね』
と山伏姿のままのアクアは言った。
 
そのアクアに山下ルンバが抱きついた所で画面は切り替わる。
 

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テレビを見ていた政子が言った。
 
「なんか怪しい気がしていたけど、実は静の方が義経だったのね?」
「まあそういうことだね」
と私。
 
「だから静は義経の黒子(くろこ)として活動していたのさ」
 
「ほんとにクロウ義経じゃなくてクロ子義経だったんだ!」
 

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明智ヒバリが登場して解説をする。
 
『頼朝が伊豆で挙兵した時、義経はすぐ馳せ参じるつもりだったのですが、藤原秀衡と佐藤基治は、義経があまりにも優男で背も低く、そんなひ弱に見える若武者には誰も従おうとしないことを危惧しました。それで義経の身代わり・影武者を立て、義経本人は、優男でまるで女のようにしか見えないのを逆手に取って、義経の妻・浪の戸の侍女で、夜のお世話も命じられている“静”を名乗ってずっと“義経”に付き従い、実際の指揮をしていたのです』
 
『このことは、ごく近い腹心だけが知っていましたし、静が素顔で義経として指揮をする場合、例えば一ノ谷の鵯越のような場合は、“義経”の身代わりを務める佐藤行信が御高祖頭巾で女装して静の振りをしていたのでした』
 
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『なお、鎌倉に行く時に静の母役をしてくれた磯禅師は、実は義経がまだ子供の頃、京都で知り合っていた人で、白拍子の元締めのような仕事をしていた人です。義経は彼女から一通り白拍子の舞を習っていました』
 
画面ではこれまで義経を演じていて、強力姿を解いた佐藤行信(演:今井葉月)が両親に挨拶してから仏檀に手を合わせるところが映った。
 
テロップで「佐藤行信・佐藤忠信:今井葉月・姫路スピカ(ダブルロール&ダブルキャスト)」と表示された。
 

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「ああ。やはりスピカちゃんも代役を務めていたのね?」
と政子は言った。
「そそ。忠信の顔が映っているところでは、義経の影武者役はスピカが演じている」
と私。
 
「なんか凄く複雑なことしてない?」
「だから簡単には説明できないって言ったでしょ?」
「私、5分後には分からなくなっている気がする」
「そういう視聴者も多いと思うよ〜」
 

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■クロ子義経(17)

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