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■クロ子義経(14)

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土佐坊が寺で休んでいると、そこに武蔵坊弁慶がやってくる。彼は笑顔である。
 
『鎌倉よりはるばるお疲れ様です。ぜひ伊予守が会いたいと申しております。良かったらご足労いただけませんか?』
 
土佐坊は「あいつ義経に言ったな?」と焦ったものの、怪しまれないようにするには義経に会っておかねばなるまいし、襲撃の下見にもなると思う。それで弁慶に付いていく。
 
『土佐坊よ。鎌倉殿より手紙などは無かったろうか?』
と義経(やはり後ろ向き)が訊く。
 
『手紙は預かっていないのですが、言葉で伝えてくれるよう頼まれておりました。遅くなってすみません。明日にもこちらに参るつもりでした』
と土佐坊。
 
『おぉ、何と言われた?』
 
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『京都の治安がしっかり治まっているのは義経様のお力だと思う。今後もよろしく頼むとおっしゃっておりました』
 
『ほんとか?』
 
義経は半信半疑ではあったものの、そのまま土佐坊を帰した。
 

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六条堀川の義経宅では土佐坊が帰るのと入れ替わりくらいに静(アクア)が帰宅した。
 
『どうも様子がおかしい。大通りに多数の武者が行き交っている。これは誰かがことを起こすつもりではあるまいか?』
と静(アクア)。
 
『今、土佐坊昌俊が来た所よ。あいつ頼朝殿から何か密命を帯びてきているようだ』
と義経。
 
『それはつまり、義経様を討つつもりなのでしょう』
と弁慶(品川ありさ)は言った。
 
『取り敢えず密偵に調べさせよう』
と静は言って、平清盛公から預かっていて、現在は静の配下になっている密偵を2人土佐坊が泊まっている寺に行かせた。
 
(清盛は常磐御前の夫なので、実は義経にとって義父である! この付近は平家物語の記述に基づいている)
 
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ところがその密偵がなかなか戻って来ない。静(アクア)は腕を組んで考えた。そして
『こういう時は女の方がかえって警戒されないかも知れない』
 
と言って、今度は女の密偵で香君(演:斎藤恵梨香@信濃町ガールズ)という者に様子を見に行かせた。すると香君は戻ってきて言った。
 
『先に見に行った2人は土佐坊が泊まっている宿の門前で斬り殺されていました。宿には鞍置き馬が多数集められております。鎧兜をつけ弓矢を持った武装の兵士も多数集まってきています』
 
『今夜にもやる気だな』
と静(アクア)。
 
『しかし困った。こんな時に、今この家には私たちしかおりませんぞ』
と弁慶(ありさ)が言う。
 
『佐藤忠信と駿河次郎はわりと近くにいるよな?』
と義経。
 
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『四郎殿(忠信)は母上様(常磐御前)のお宅にお使いに』
『香殿、すぐ呼びに行ってくれ』
『はい。行って参ります』
と言って、香君は飛び出していく。
 
『熊井が洛南の彼女の家に居ます』
『源三、すぐ呼んできてくれ』
『はい』
それで江田源三も飛び出していく。
 
『駿河次郎は鞍馬山かな?』
『仕方ない。私が呼んで来る』
と弁慶。
 
『私が戻る前に襲撃されたら・・・』
『大丈夫。私ひとりで30人くらい斬るから』
と静(アクア)。
 
『私も頑張れば10人くらいは斬れるかな』
とやや不安げに義経は言った。
 
『まあ忠信殿がすぐ戻れるだろうし』
と言って弁慶は馬に乗って出て行った。
 

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30分ほどで急を聞いた佐藤忠信(今井葉月)が戻ってきた。
 
『殿、私が戻りましたからには私が1人で20人くらい斬りますから』
と佐藤忠信(葉月)。
 
『そうか。静は1人で30人斬ると言っておるぞ』
と義経。
 
『負けたぁ』
 
『香君、あなたは戦闘向きではない。隠れていなさい』
と静(アクア)が言うので、香君は屋敷内の納戸に隠れていて、万が一の時は参戦すると言った。
 

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結局こちらの戦力は、義経・静・忠信の他は、静が呼び寄せた“戦闘もできる”密偵が3人と警備の武士5人の合計11人にすぎない。しかし向こうは70-80騎と思われた。
 
やがて門の外が騒がしくなる。義経は警備の武士に門を開けさせた。
 
土佐坊たちは、どうやって屋敷内に突入しようかと算段していた所に向こうから門を開けたので、一瞬たじろぐ。
 
義経は馬に乗って、ただ一騎で門の外に走り出る。そして大きな声で叫ぶ。
 
『夜討ちにも、また昼戦(ひるいくさ)にも、義経をたやすく討つべき者は、日本国には見たことないぞ」
 
と言うと、襲撃側の武士たちは皆圧倒されて数歩下がった。
 

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警備の武士たちが矢を射かける。密偵たちがちょこまか走り回って敵方の武士の鐙を切ったりするので彼らが落馬する。静と忠信が落馬した武士たちをどんどん薙刀や槍で刺し殺していく。義経は馬で走り回り、乗馬の武士たちを倒して行く。
 
義経側が圧倒的に少人数なのに、やられるのは襲撃側の武士ばかりである。
 
そんなことをしている内に、江田源三弘基と熊井太郎忠基が戻って来た。
 
『おお、心強いぞ』
と佐藤忠信。
 
『俺たちが来る前に片付けておいてもらわないとな』
と江田源三。
 
それでこちらの戦力が少しだけ増すことになる。江田はさっき叱られたこともあり、かなり奮戦した。人数が増えたので、佐藤忠信は静の傍にきて、静を守るように闘った。
 
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それで15分くらい戦闘している内に、とうとう弁慶と駿河次郎が到着した。
 
『弁慶だ!』
『弁慶が来てしまった!』
という声が敵陣からあがる。弁慶は挨拶代わりに義経の近くに迫っていた武士を2人、あっさり串刺しにする。
 
『ダメだ。かなわない』
『あいつひとりで百人分くらいあるぞ』
『強すぎだ』
と言って敵兵は逃げ出してしまった。
 
それでこの日の夜襲は失敗してしまったのである。
 
弁慶は『まだ10人しか斬ってないのに』と文句を言っていた。
 

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義経が馬を下りてじっとそれを見ていた。
 
『江田?』
と言って駿河次郎が駆け寄った。
 
『私を守って矢に倒れた』
と義経が言った。
 
江田源三弘基が首に矢を受けて絶命していたのである。
 
『源三よくぞ義経を守った』
と言って静(アクア)が彼の遺体を抱きしめて涙を流した。
 
(源三役の簑田くんは「アクアちゃんって女の子みたいな感触だから、抱きしめられて思わず立っちゃった」などと後で言っていた)
 

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(**)静御前については、吾妻鏡に書かれている、運命に翻弄される元白拍子という、はかないイメージが世間的には強く印象付けられているが、平家物語に描かれた堀川夜討での静はまさに「かっこいい」静である。この物語のように戦闘にまでは参加していないものの、密偵を放って状況を調べさせたり、義経が甲冑を着けるのを手伝ったりしている。
 
平家物語を読んだ上で吾妻鏡を読めば、あのような“戦う静”なら、頼朝の前でも臆せず強気な歌を歌うのも道理なのだが、おそらく中世にはこういう“強い女”は庶民感情に合わず、あまり話題にされなくなっていったのかも知れない。
 
だいたい吾妻鏡の記述でも、静は義経の行方についてデタラメをまくしたて、聞かれる度に違うことを言って、鎌倉方を混乱させているのである。つまり義経たちを逃がすために静はわざと捕まったともとれる。
 
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ヒバリの解説。
 
『土佐坊昌俊は鞍馬山に隠れましたが、鞍馬山は元々義経のシンパの多い場所です。あっという間につかまって、弁慶が連行してきました。土佐坊昌俊は確かに頼朝の命令で義経を襲ったことを自白します。義経は土佐坊が素直に自白したので、頼朝の所に帰してやろうかと言いました。しかし土佐坊は、自分は兵衛佐殿(頼朝)に命を預けた身なので、義経殿を討たないままおめおめと鎌倉には戻れないから打ち首にしてくれと言いました。それで義経は「全くあっぱれな武士である」と彼を褒めて、駿河次郎に命じて斬首させたのです』
 
『義経はもはや頼朝との対決は避けられないと考え、後白河法皇に言って、頼朝討伐の命令を出してもらいました』
 
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場面は後白河法皇(藤原中臣)と義経(アクア!)が密会している場面である。後白河法皇は頼朝討伐の命令書を文官に書かせて義経に渡した後、更に義経に鼓(つつみ)を渡した。
 
『これは何か意味があるのでしょうか?』
『鼓ってふつうどうする?』
『鼓は打つものでは?』
『うん。だからそうしなさい』
 
『つまり「打て」と「討て」の掛詞で、義経に頼朝討伐を命じている訳です』
と明智ヒバリは説明する。
 

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『義経が頼朝討伐令にもとづき武士を召集したのに対して、頼朝も義経を討つべく御家人を召集します』
 
『ところがこの義経・頼朝双方の武士召集令については、どちらにも兵が集まりませんでした。要するにへたに“兄弟喧嘩”に関わって、自分が味方した方が万が一にも負けると自分の身が危ないと、みんな尻込みしてしまったのです』
 
『やむを得ず頼朝は自ら腹心だけを連れて鎌倉を出て京都に向かいました。しかし義経側も寡兵なので、戦っても仕方ないと考え、いったん支援者の多い西国に退こうとして、11月3日、都落ちします』
 
『この時義経に付き従ったのは吾妻鏡によると、平時実(時忠の子で蕨姫の兄)、一条能成(義経の弟)、源有綱(義経の妹婿)、堀彌太郎景光、佐藤四郎忠信、伊勢三郎能盛、片岡八郎弘綱、弁慶法師ほか300騎とされています』
 
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『ところがそこに頼朝のシンパ・太田頼基らが襲いかかります。河尻の戦いです。義経側が一応撃退したものの、義経はここで多くの兵を失いました。更に11月6日、西国に向かおうと乗船した船が暴風雨に遭い、一行はバラバラになってしまったのです』
 

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明智ヒバリは語る。
 
『頼朝と義経の対立の原因は今日ではよく分からないという意見が多いです。吾妻鏡は義経が勝手に任官などを受けたからと書いていますが、その任官を頼朝は受け入れている形跡があります。梶原景時の讒言のせいだというのも後世広まった説ですが、梶原景時という人は誰のことも悪く言う人で、そういう人の言葉に果たして頼朝が影響されたかは疑問もあります』
 
『近年強くなっているのは、北条家の意向が強く出たのではないかという説です。要するに北条としては、あまりにも有能で実績もあげた義経が鎌倉の政権に加わった場合、自分たちの好きなようにできないので、排斥してしまったというものです。実際北条は頼朝の死後、残っていた源氏の血筋の者をことごとく攻め滅ぼしてしまいました。更に幕府の中で誰が中心になるのかについても争いが続き、梶原景時の変(1199)・比企の乱(1203)・畠山重忠の乱(1205)などといった事件により、北条氏以外の勢力が排除されていくのです』
 
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『義経の船が難破したのが11月6日ですが、頼朝?は11月12日、唐突に義経の正妻ということになっている郷御前の父・河越重頼の所領を没収し、重頼とその子(郷御前の兄)重房を処刑してしまいます。謀反人の妻の父と兄だからという理由ですが、そもそも河越家は頼朝と深い関わりのある家で、そこから郷御前は頼朝側のスパイとして義経の元に送り込まれた人です』
 
『そして頼朝は郷御前の母、この人は頼朝自身の乳母の娘で、頼朝の嫡男・頼家の乳母でもあるのですが、彼女の所を訪れ、彼女を哀れんで、本領である河越荘の安堵を約束し、地元の名主たちにもちゃんと河越尼の指示に従うよう命じています。この河越一族に対する頼朝の行動はどうにも首尾一貫性に欠けます。あるいはこの頃から既に頼朝は鎌倉幕府内での実権があまり無くなっていたのかもしれません』
 
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『なお、義経の妻たち、郷御前、蕨姫、久我姫は、義経の都落ちの後は常磐御前の家に保護されたのではないかと言われています。この時期“義経の妻”が1186年に女の子を出産したことが、吾妻鏡には書かれており、通説では産んだのは郷御前ではないかとするのですが、異論もあります(*15)』
 
『しかしそういう訳で平家討伐の英雄から一転して幕府に追われる身となってしまった義経は、船の難波の後、静・弁慶・源有綱・掘景光のわずか4人の伴を連れて吉野の山に紛れ込んだとされます。佐藤忠信は連絡役として京都市内に潜伏しました』
 
『しかし義経たちはこの後1年ほど、後白河法皇の手駒として、頼朝を苦しめることになるのです』
 

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