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■クロ子義経(12)

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知盛(町田朱美)は二位尼と先帝の身投げを見て満足そうに他の船に移って行った。船内では続いて建礼門院(演:姫路スピカ)が両袖に焼石と硯を入れて重しにして飛び込む。更に大納言佐が八咫鏡を持って海に飛び込もうとした所を源氏方の武士に袖を船端に射付けられて転び、身投げは叶わなかった。
 
彼女を保護して鏡の箱を回収しようとした武士が、中身を確認するのに箱を開けると、突然目がくらみ、鼻血が垂れた。すると近くに居た女性が
 
『それは御神鏡なるぞ。凡人は拝見しようとすれば命が無い』
と言ったので、武士は思わず退く。それでその女性が箱にふたをする。
 
そこに義経の部下・掘景光と渡辺党の渡辺源五右馬允眤(わたなべ・げんごむまのじょう・むつる)がやってくる。
 
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『どうかしたのか?』
『帝と二位尼、それに何人か女が飛び込んだ』
と箱を抱えている女性が言うので、船縁に出てみると、ひとりの女性が波間に浮かんでいる。それで渡辺が熊手で女性の髪を引っかけて船上に引き上げた。
 
『そなたは?』
と渡辺が尋ねると
『前(さき)の太政大臣・平清盛が長女・徳子と申します』
と名乗る。
 
『何と!建礼門院様であらせられますか!』
と掘も渡辺も驚いた。
 
ヒバリが画面隅に登場して解説する。
『建礼門院は重しにと硯などを袖に入れたのですが、硯程度が重しになる訳がないですよね。また彼女は死ぬ時にみっともない格好はできないと、正装の五衣唐衣裳を着ていたので、この何重にも重ね着した服が浮きの役割をして沈まなかったようです。この建礼門院の服装が「まるで十二枚くらい重ねたようだ」と言われ、ここからこの衣装を「十二単(じゅうにひとえ)」とも呼ぶようになったと言われています。つまり十二単という名前はこの時のエピソードをもとに生まれた鎌倉時代以降の俗称で、正式名はあくまで五衣唐衣裳(いつつぎぬ・からぎぬ・も)です』
 
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「あれ〜〜?姫路スピカちゃん、建礼門院だったの?」
とテレビを見ていた政子が声をあげた。
 
「え?どうかした?」
「スピカちゃんはてっきり義経役だと思っていたのに」
「まああの子はアクアと身長が近いから、結構ボディダブルやスタンドインをしているよね」
と私も答えた。
 
ネットでも、姫路スピカは義経と思っていたのに、という声が多数あった。
 

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別の武士が別の女性たちも掬い上げた。按察使局伊勢(あぜちのつぼね・いせ)という女性、それに平重衡の妻・大納言典侍などである。義経の妹にあたる廊御方(平清盛と常磐御前の娘。演:エキストラから昇格した仮名・萩原愛美さん)は、みんなが飛び込んだので自分も飛び込まないといけないのか?と、おろおろしていた所を弟の一条能成が保護した。
 
『姉上、死んではなりませぬ。あなたは清盛殿の血は引いていても、私や義経殿の姉妹ですぞ。私のそばにいてください』
 
また、波間に箱が浮いているのを見てひとりの武士が引き上げたが、神鏡の箱を抱えている女性が
『それは神璽なるぞ。私が預かる』
と言う。女ならば、いざという時には力尽くで奪い取れるだろうと考え、武士はその箱を女性に預けた。
 
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掘景光は腕を組んで、自分たちに飛び込んだ女性たちを助けてあげてと言った人物を見ていた。彼女は神鏡の箱と神璽の箱を膝に抱えている。
 
『女房殿、どこかで拝見つかまつったことが無かったろうか?』
『あはは。吉次くん、久しぶり〜』
『そなたまさか平時忠殿か?そなた充分女に見えるぞ!?』
『僕、鏡と珠を守ったんだから、殺さないでぇ』
『俺は戦意の無い奴は殺さん』
 
『それよりこの神宝、判官(ほうがん:義経のこと)殿に預けたい。連れて行ってくれ』
『分かった。剣は?』
『二位尼が腰に差して飛び込んだ』
『何と!?』
 
掘が近くにいる武士を見る。
『探してきます』
と言って3人の武士が甲冑を脱いでから海に飛び込んだ。
 
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明智ヒバリが解説する
 
『源氏方は、他に安徳天皇の皇太子扱いであった7歳の守貞親王を乳母の治部卿局とともに保護しました。親王はこのあと出家しますが、後に承久の乱の後、天皇になったことのない身でありながら異例の“治天の君”に就任しています』
 
『なお、この治部卿局というのは実は平知盛の妻です。その知盛はあちこちの船に自決を促して回った上で、浮かび上がって辱めを受けてはならないと、鎧を二重に着て水中に身を投げました』
 
背景では平知盛役の町田朱美(信濃町ガールズ)が、着ている鎧の上に更に鎧を着て、海に飛び込むシーンが出る。実際には町田は水深2mほどの所に飛び込んでおり、海に入っていくシーンはスタントマンさん、更に鎧を重ね着した知盛が海中深く沈んで行く様子は人形を使って撮影している。
 
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ヒバリは更に語る。
 
『そしてその辱めを受けたのが知盛の兄で平家一族の中心だったはずの平宗盛と嫡男・清宗でした』
 
『宗盛は弟の知盛から自決を促されたものの、死ぬのが恐くておろおろしている内に部下から「見苦しいですぞ」と言われて、息子の清宗と一緒に海に突き落とされてしまいます』
 
『しかしそれでも死にきれずに海面を泳いでいたら、義経の部下・伊勢三郎が熊手で2人を船上に引き上げてしまいました。それで親子共々源氏に拘束されることになりました』
 

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『最後まで戦ったのが平教経(のりつね、演:西宮ネオン)です。彼は敗戦濃厚な戦場の中でもひとり気を吐き、多数の源氏の武士を斬っていきます』
 
とヒバリ言ったところで、ヒバリの映像は隅に縮小されて、戦闘画面になる。西宮ネオン演じる平教経がひたすらエキストラの武士役の人たちを斬っていく。
 
『くそぉ、雑魚ばかり斬っても仕方ない。どこかに大物は居ないか?』
などと言っていた時、遙か向こうに立派なV字型の、牛の角のような兜と金色の鎧を着けている武士を見る。
 
『よし、あいつを斬ろう』
と言ってそこに突進するが、その武士はこちらに気付くと、ひょいと他の船に飛び移る。
 
『ん?』
と声を出しながら教経もその船に飛び移るが、向こうは更に別の船に飛び移る。それでこちらもまた飛び移る。これを5〜6回繰り返した。
 
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『こら!どこの誰か知らんが俺と勝負しろ!俺は平教経だ!』
と教経役の西宮ネオンが叫ぶが、向こうは船から船へと飛び移るばかりである。
 
八艘くらい飛び回った所で、小柄で御高祖頭巾の上に兜を着け、水色の鎧を着けた武士が教経の前に立った。
 
『ん?女か?どけ。俺はあの牛みたいな兜を着けた武士を追っている』
と教経(西宮ネオン)が言う。
 
多くの上級武士はこの時代、むしろ烏帽子を着けた上に兜をかぶっている。この時代の兜には烏帽子の先を出す穴まで空いている!
 

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『あいにく九郎判官殿は忙しい故、妻の私が相手しよう。佐藤静(さとうしずか)である』
 
『何?あいつが義経なのか!?逃げてばかりの根性無しだな。しかし義経殿の奥方が武芸ができるとは知らなかった。悪いが、女の相手はしていられない。どいてくれ。義経殿と勝負したい』
 
『我が兄、佐藤三郎継信は、屋島の戦いでそなたの弓に討たれた。仇を討たせてもらう』
と静(アクア)。
 
『ああ、思い出した。お前はあの時、義経の後ろを走っていた奴だ。俺の矢が少し逸れてお前の所に飛んでいったら、近くにいた別の武士が身をもってかばった』
と教経はその時のことを思い出す。
 
『よかろう。先に奥方を斬ってから、義経殿を斬る』
と言って教経は刀を抜いた。
 
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静も刀を抜く。
 
双方睨み合うが、一瞬西宮ネオンは『え?』と呟く。しかし気を取り直して相手を睨む。
 

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双方突進する。
 
教経が真横から太刀を払うようにして静の鎧の隙間を狙うが、静は空中に飛び上がってそれを避け、回転しながら教経の後ろから彼の鎧の継ぎ目に刀を刺した。
 
(このシーンはバネの利く飛び板を使って撮影したが、体重の軽いアクアは本当に西宮ネオンの頭上を飛び越えている。このシーンは5回くらいやって成功した。ちなみに刀は刺すと刀身が三脚の足のように折りたたまれるタイプ。時代劇の撮影では昔からよく使われる小道具である)
 

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静はすぐに刀を構え直すが、教経はそのまま前のめりに倒れてしまった。物凄い血が出ている。船板が赤く染まる。静はじっと倒れた教経を見ている。
 
『死んだかな?』
と呟いたら、教経は倒れたまま身体を反転させてこちらを見た。
 
『あはは。俺ともあろうものが最後に女に負けるとはなあ。しかし静殿、気合いが物凄い。最初あまりの気迫に一瞬たじろぎそうになったぞ。そなたは日本一の武芸者だ。男だったら俺の妻にしたいところだ』
 
『男では妻にはできないと思いますが』
『あ、そうか。俺は何を言っているんだ?』
 
画面がスイープされてヒバリが登場し
『きっと「男にしてやりたい」と「俺の妻にしたい」が混線したんです』
とフリップを持って解説したが、ネットでは
 
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「アクアは男であっても俺の嫁さんにしたい」
「アクア様を私の奥さんにしたい」
という書き込みが多数であった。
 

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テレビを見ていた政子は
「ね、ね、女の子を男の子にするには、ちんちんが必要だよね?ネオン君のちんちんを取ってアクアに移植するのかな?」
などと言っている。
 
「アクアにはちんちん付いていると思うけど」
「ほんとかなあ」
 

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画面は再度スイープされて教経と静の場面に戻る。
 
『言い残すことがあらば、頼盛殿なり誰なりに伝えるが』
と静(アクア)が言うと
『頼盛?あんな裏切り者に伝えることはない!』
と教経(西宮ネオン)は怒ったように言う。
 
そして立ち上がった。
 
『まだ動けるのか』
と言って静が刀を構えるが、そこに怪力で知られた安芸太郎・次郎の兄弟と、兄弟の郎党の大男がやってきた。
 
『静殿、危ない所でした。ここは我らにお任せ下さい』
と言う。3人はさっきの戦闘を見ていないので、まさか静が教経を斬ったとは思ってもいない。
 
それで真っ先に郎党の大男が突撃するが、教経は既に瀕死の状態なのにその大男を軽く海の中に放り投げてしまった。大きな水音がする。
 
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静は思わず『凄い』と声をあげた。
 
それで安芸太郎・次郎が左右から同時に飛びかかった。しかし教経はこの2人を各々片腕で脇に抱え込んでしまう。
 
『何て力なの!?』
と静(アクア)が驚いたように言う。
 
『さらば、おのれら死途の山の供せよ』
と言って、教経はその2人を抱えたまま海に飛び込んでしまった。
 
3人はそのまま浮き上がってこない。静は刀を収め、その海に向かって合掌した。
 

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明智ヒバリが解説する。
 
『壇ノ浦の合戦は『玉葉』では申の刻(午後4時頃)終わったとされています。それからしばらくの間、この近辺には多数の遺体が打ち上げられます。しかし安徳天皇らしき遺体、二位尼らしき遺体は見つからず、また源氏方が大量の人員を動員して海底を捜索したものの、三種の神器のひとつであり、二位尼が腰に差して入水した、天叢雲剣(あめのむらくものつるぎ)、別名・草薙剣(くさなぎのつるぎ)は発見できませんでした』
 
(安徳天皇の遺体は下関の浜に打ち上げられたという説、網に引っかかっていたのが見つかったという説もあるが信頼出来ない。二位尼の遺体が広島の宮島に打ち上げられたという説もあるが、遠すぎて考えにくい)
 
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『但しこの剣は元々崇神天皇の時代に作られた形代、つまりコピーであり、本物はずっと名古屋の熱田神宮に置かれています。壇ノ浦の合戦の後、伊勢神宮より新たな形代とすべき剣が贈られ、現在はその剣が宮中に置かれています』
 
(正確には一時的に清涼殿昼御座の剣で代用していたが(失われたのは夜御座の剣)、1210年、3代将軍・源実朝の時代に、順徳天皇が即位した時、伊勢神宮から神庫(ほくら)にあった剣の中から選ばれた剣が天皇に贈られ、それがその後、天叢雲剣の形代として宮中に保管されている。なお熱田神宮の剣は太平洋戦争の直後、米軍による接収を恐れて水無神社に移されていた)
 
『合戦の後、あちこちで剣を発見したといって、奉献されたものもあるのですが、いづれもニセモノと判定されました。判定の基準はよく分かりません。その中のひとつは平野神社に預けられたと太平記にありますが現在その所在は不明です』
 
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『壇ノ浦の戦いから6年後の建久2年(1191)、後鳥羽天皇の勅命により戦場近くの阿弥陀寺に安徳天皇の御影堂が建立され、建礼門院の乳姉妹で、少将の局命阿尼という人がそこに奉仕することになりました。ここには平家一門14人の供養塔も並んでいます。阿弥陀寺は明治時代に寺から神社に変更になり、赤間神宮と改名されました』
 
と言うヒバリの背景に、現代の赤間神宮の水天門が映る。
 
『明治天皇の皇后・昭憲皇太后宮はここで「いまも猶、袖こそぬるれ、わたつみの龍のみやこのみゆき思へば」との御歌を奉献なさいました。それをきっかけに、安徳天皇が龍宮に行かれたのであれば、それにふさわしい門をということで、このように竜宮城のような門が作られたのです。昭和33年に完成しています』
 
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