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ヒバリの解説。
『佐藤家では本来の佐藤行信と義経に戻った2人ですが、藤原一族でこのことを知っているのは藤原秀衡だけだったので、すぐに佐藤行信が義経を装い、本物の義経は小袖姿に振り分け髪で女装して過ごしていました。しかしこれから1189年の春まで、浪の戸姫にとって至福の時間が過ぎていったのでした』
アクアの義経(小袖を着て女装し“静”を装っている)と山下ルンバの浪の戸姫が、じゃれあったり、一緒に寺社参拝などしている様子が映る。ネットではルンバを非難する書き込みが溢れている!
『義経が秀衡に送った密書に秀衡はすぐに返事をよこしました。奥州藤原氏は義経殿を歓迎するから、ぜひ平泉まで参られよということでした。それで義経一行は別ルートでこちらに向かっていた千光坊たちが到着してから、義経の妻・浪の戸、および佐藤家の手の者も付いて、平泉に向かったのです』
『秀衡は実は、関東の覇者となった頼朝が東北も支配下に収めるつもりではないか、自分たちを攻め滅ぼすつもりではないかと疑っていました。そこで頼朝に対抗するため、平家を倒した優秀な将軍である義経を歓迎したいと考えたのです。それで一行は平泉の衣川館に入りました。あくまで佐藤行信が義経を装い、本物の義経が女装で侍女として付き従っているのを見て藤原秀衡は笑っていましたが、このことは秀衡の息子たちは知らないことでした』
背景に、藤原秀衡(演:北村圭吾)が立派な部屋の椅子に座り、“義経”(佐藤行信:演=今井葉月)、弁慶(品川ありさ)、静(アクア)、佐藤基治(春風アルト)、乙和姫(大宮どれみ)、が手前側に座って、和やかに話し合っている所が映った。
ちなみに乙和姫は藤原清衡の孫なので、秀衡の従兄妹にあたる。
ヒバリの語りは続く。
『藤原秀衡が生きている間は頼朝も平泉には手を出せずにいました。なんといっても東北の覇者なので、秀衡が号令を掛ければ数十万の兵が動員できる可能性があります。そこに義経がいたら、もしかしたらこちらが負けるかも知れないと頼朝も考えます。後白河法皇はコロコロ態度を変えるので全くあてに出来ません。義経有利とみたら即自分は朝敵にされてしまうでしょう』
『しかし秀衡は文治3年(1187)10月29日に亡くなります。秀衡は息子たち6人に、仲良くひとつにまとまって義経殿と協調してやっていくように遺言しました』
背景には病床の秀衡の周囲に6人の息子が並んでいるところが映る。
『秀衡の死を聞いて、頼朝はチャンスだと思いました。秀衡あってこその奥州藤原氏であり、秀衡に恩のある領主は沢山いましたが、息子たちにはそれほどの人望がありません。翌文治4年(1188)2月、秀衡の後をついだ藤原泰衡に、義経を追討せよという宣旨を出させるのです』
『これが頼朝(実際には多分北条時政か梶原景時)のうまい所で、頼朝自身に追討の宣旨を出すのではなく、泰衡に出して、内輪揉めを誘っているのです。しかしこの年は泰衡はちゃんと秀衡の遺言を守って義経と協調する態度を示していて、事は動きませんでした』
『しかし秀衡が亡くなって1年も経つと、秀衡の息子たちの結束が乱れ始めました。意見の対立から兄弟間に疑心暗鬼が起きます。この時、兄弟の中の1人、藤原高衡が実は梶原景時と通じていることに、他の5人は気付いていませんでした』
『文治5年(1189)2月15日、藤原泰衡は弟の頼衡を殺害してしまいます。更に一週間後の2月22日には、明確な義経派であった忠衡とその同母弟・通衡も殺害してしまうのです。忠衡の妻は佐藤兄弟の姉妹・藤の江姫で、義経とは義兄弟になっていました』
(佐藤七郎前信・次郎治信・太郎行信・三郎継信・四郎忠信・五郎重光・藤の江・浪の江・浪の戸が兄弟姉妹で、藤の江は藤原忠衡の妻、浪の戸は源義経の妻。一番年上は七郎前信らしい。この兄弟姉妹の中には、佐藤基治と正室・大窪太郎女の子供と、継室・乙女姫の子供、更には基治の兄・佐藤正信が亡くなったので正信と梅唇尼との子供たちを養子にした者が混じっている)
『自分の味方であった忠衡が討たれてしまったことから義経は身の危険を感じます。それで東北を出て西国に落ちていった方がいいかも知れないと考え、誰か受け入れてくれる人がないか、駿河次郎に密書を持たせて西国に向かわせました。しかし誰かに密告されたようで駿河次郎は京都で捕縛され、鎌倉に送られて斬られてしまいました』
『閏4月30日。この日衣川館に居たのは、こういう面々です』
『源義経、弁慶、片岡、鈴木三郎、亀井六郎、増尾十郎、熊井忠基、備前平四郎(*20)』
『義経記はこの日、常陸坊海尊ほか11名が朝からお寺の参拝に外出していたと記しています』
(*20)義経記では源義経、弁慶、片岡、鈴木三郎、亀井六郎、鷲尾義久、増尾十郎、伊勢三郎、備前平四郎、十郎権頭兼房、喜三太、それに久我姫と2人の子供、と記している。この物語では衣川館で亡くなったのは浪の戸姫という立場を取るので、久我姫の従者である十郎権頭兼房は採用しない。また伊勢三郎については、前述(*16)のように、この物語では既に3年前に亡くなっているという立場を取る。
なお、吾妻鏡では文治5年6月26日の記事に「奥州兵革有り。泰衡弟泉の三郎忠衡(年二十三)を誅す。これ豫州に同意するの間、宣下の旨有るに依ってなりと。」
と書かれていて、忠衡の死は義経の死より後になっている。しかし忠衡が生きていたら、泰衡は義経を殺すことはできなかったのではと思えるので、この物語では先に忠衡が殺されて、その後、義経が襲われたという、義経記の記述に沿った。
『大変です。物凄い軍勢がやってきました』
と亀井六郎が走って義経(今井葉月)の所にやってくる。
『何と。常陸坊も千光坊も出ているというのに』
と“義経”(葉月)。
『だから良かったかも知れませんよ』
と浪の戸姫(山下ルンバ)。
浪の戸姫は館内にいる侍女たちに呼びかけた。
『侍女たちは逃げなさい。敵方も女までは殺しません』
それでほとんどの侍女が逃げて行く。
『あなたたちも逃げなさい』
とまだ数人残っている侍女に浪の戸姫が言う。
『姫様はどうなさるのですか?』
『私は非力ながらも軍勢を足止めするために戦います。その間に襲撃に気付いて主は逃げてくれるはず』
『でしたら私も戦います』
『私も戦います』
と残っている侍女たちは言う。
『逃げなさい。犬死にですよ』
『犬死にで結構です。姫様に殉じます』
『分かった。だったら弓矢なり薙刀なり持って戦いなさい』
『はい!』
館の正面では弁慶がひとり気を吐いていた。大量の敵の前で舞を舞う余裕を見せる。それを敵方もじっと見ている。みんな弁慶が物凄く強いのを知っているので突撃するのが恐いのである。やがて舞を終えた弁慶が突撃するが、敵の兵たちはみんな退いて弁慶のそばに行かないようにした。
鈴木三郎はひとりで十数人斬ったものの、やがて倒れてしまった。亀井六郎もやはり十数人斬ってから倒れた。やがて増尾十郎が討ち死にする。備前平四郎も多数の敵を斬ってから倒れる。熊井も10人くらい斬ってから倒れた。
弁慶と片岡はお互い背を向け合って敵と戦っていた。ふたりは大量に敵を斬っていく。弁慶が恐くてみんな近づけないものの、それでも弁慶の方からやってきて敵を斬っていく。しかしその内、片岡が倒れてしまい、ひとり弁慶だけが残った。
敵兵はひたすら弁慶に矢を射たが、弁慶は敵兵たちを睨んだまま立っていた。それで更に矢を射る。しかし弁慶は立っている。
その状態で10分くらい経過する。
その内誰ともなく言う。
『ひょっとして死んでいるのでは?』
『でも立っているぞ!?』
ひとりの武士が弁慶(品川ありさ)の傍を走り抜けたら、弁慶は倒れてしまった。
弁慶が“動いた”気がしてみんな、おののくのだが、弁慶は倒れたままである。
恐る恐る近寄って見ると、もう死んでいることが分かった。
『なんと!立ったまま死んでいたのか!』
『恐ろしき強者(つわもの)の中には死んでも立ち続けるものがあると聞く。弁慶は誠の強者(つわもの)であった』
と敵方の武将たちは弁慶の強さに感激した。
館の中に突入してきた武士たちを義経(実は佐藤行信)はひたすら斬って行っていた。浪の戸の侍女たちがあるいは義経の楯になり、あるいは浪の戸姫の楯になって倒れていった。残るは義経(今井葉月)と浪の戸(山下ルンバ)だけである。
『主は充分遠くまで逃げられたであろうか?』
と“義経”がつぶやく。
『常陸坊殿が付いていますから。弁慶殿は直情の強者ですが、常陸坊殿はずるがしこくて、メンツより実を取る人。きっと大丈夫ですよ』
と浪の戸(ルンバ)も答える。
『ではそろそろ終わりにするか』
『はい』
それで葉月とルンバは各々目の前にいる兵に突撃し、ルンバは最初の1人を斬ったものの、次の兵に斬られて倒れた。葉月は、なお5人斬ったものの最後は相手の兵2人に左右から刺されて絶命した。
(義経の代理をしている佐藤行信と浪の戸姫は兄妹である。念のため)
「葉月ちゃんもルンバちゃんも格好いい!!」
とテレビを見ていた政子は叫んだ。
「ふたりともこのシーンで随分ファンが増えたよね」
と私も言った。
ヒバリが登場して語る。
『この日衣川館を不在にしていた常陸坊海尊・千光坊七郎・鷲尾義久・海野浪安について、泰衡は捜索させたもののその行方を掴むことはできませんでした。泰衡は常陸坊たちと一緒にいたはずの、浪の戸姫の“侍女”については、全く注意も払っていませんでした』
背景でひとりの武士が泰衡に申し上げる。
『予州様の御子様の遺体が見当たらないのですが』
『それは死んでいたということにしておけ。めんどくさい』
と泰衡は言った。
『では奥方のそばで刺されて死んでいたことにします』
それで鎌倉の方には「義経の子は義経が自決する時に先に刺し殺した」と報告したものの、この後、常陸坊海尊が義経の子を連れて逃げたらしいという伝説が生まれることとなった。その助かった子・般若は後に伊達家の祖になったという説もある(真岡市遍照寺の伝承)。
『衣川館で死亡した“義経”の首は酒樽に浸けて、1ヶ月以上掛けて鎌倉に送られました。首実検は梶原景時と和田義盛によって行われました』
背景に今井葉月の“首”(3Dプリンタで作って、桜木ワルツと山下ルンバの2人で着色し、乾かない内に!水を掛けて適当に崩したもの)が置かれたのを梶原景時(タンニ・バーム)らが見て
『確かに義経殿に似ていると思いますが』
『あまりにも崩れすぎて、確信は持てません』
などと言っていた。40日間も経てば、人相を確認するのはかなり困難である。
頼朝(秋風コスモス)がしかめっ面をしていて、その後ろで北条政子(高崎ひろか)は忍び笑いをしていた。
北条にとっては「義経は生きているかも」と思わせておいた方が色々便利なのである。
ヒバリは語る。
『藤原泰衡は義経を殺したから、これで頼朝には奥州を安堵してもらえるだろうと思ったのですが、そう甘くはありませんでした。頼朝は泰衡に対して「義経はわが家人である。自分の家人を勝手に殺したのは許しがたい」と言って、30万騎の大軍を奥州に進めたのです』
『圧倒的な力の差で、まずは国衡が討ち死にし、泰衡は逃亡しました』
『ところが泰衡は部下の河田二郎に裏切られて殺されてしまいました』
『そして河田二郎が得意げに泰衡の首を持ってくると、頼朝はただちに河田を捕縛しました。そして「主君を裏切るとは言語道断」と言って河田二郎を処刑してしまったのです。この処断について頼朝は多くの人から称讃を受けました。やはり武士の世界でいちばんやってはいけないことは主君を裏切ることなのです』
『さあ行くよ!』
と元気な声をあげて、壺袿姿で元気に歩いているのは浄瑠璃姫(原町カペラ)である。
『姫様、お待ち下さい。私は疲れました』
などと言いながら彼女に付き従っているのは侍女の薬師殿(演:桜野みちる)である。
『頑張ろう。暗くなる前に追分宿にたどりつきたい』
ふたりは矢作宿を出発してから、さすがに東海道は避け、中山道から日光街道・奥州街道を目指していた。
『予州様が生きているというのは本当なのですか?』
と薬師殿が言う。
『間違い無いと思う。陸奥の昆布商人が八戸(はちのへ)で見たと言うのよね、伊予守様に生き写しの女人で、そばに凄い大男も居たって。大男は弁慶様か千光坊様じゃないかなあ』
と浄瑠璃姫(原町カペラ)
『弁慶様はよいとして、いつから予州様は女人になられたので?』
『あの人はほとんど女だよ』
『女なら契れないのでは?』
『ほぼ女の子なのに、契るための器官はちゃんと付いているから』
『でも逆賊ですよ?』
『逆賊と思っている人なんて居ないって。伊予守様は英雄だよ』