広告:オトコのコはメイド服がお好き-Illust-stories-2012-カスカベアキラ
[携帯Top] [文字サイズ]

■クロ子義経(2)

[*前頁][0目次][#次頁]
1  2  3  4  5  6  7  8  9 10 11 12 13 14 15 16 17 18 19 20 
前頁次頁目次

↓ ↑ Bottom Top

明智ヒバリの解説は続く。
 
『平治の乱の後は、二条天皇の側近も後白河上皇の側近も多くが賊軍として捕らえられあるいは殺されたため、代わって平清盛が政治の実権を掌握することになります。ここで武家政治が始まったのです。また平治の乱で源氏の中心人物の多くが死亡したため、世は平氏の天下となり、二位の尼(清盛妻)の弟・平時忠が“平氏にあらずんば人にあらず”と暴言するような状態になります』
 
『3人の幼い息子を連れて脱出した常磐御前は捕らえられますが、平清盛は彼女の美貌に驚き、彼女に自分の妾になるよう言います。息子たちの命も掛かっているので常盤御前は応じますが、清盛と常磐御前の間に生まれた女の子が廊御方で、お母さんに似て絶世の美女だったそうです。彼女は平家一門と一緒に行動し、後に壇ノ浦の戦いで建礼門院などと一緒に保護されています。もっとも清盛は祇王の物語でも分かるように女にすぐ飽きるので、常磐御前はその後、一条長成と再婚し、一条能成ともうひとり女の子を産んでいます。一条能成は源義経の弟として、平泉まで義経と行動を共にしました。彼は平泉での戦いの時はたまたま京都に来ており、義経の家人の中で数少ない生存者となって、頼朝の死後は官位に復帰しています』
 
↓ ↑ Bottom Top

『常磐御前が源義朝との間に産んでいた3人の男の子のうち上の2人・今若丸と乙若丸は醍醐寺・園城寺で出家させたのですが、幼い牛若丸はまだ出家には早いだろうと、出家しないまま鞍馬寺に預けられました。しかし牛若はこの鞍馬寺で、幼い頃からカラス天狗たちに武芸を仕込まれます」
 
ここで§§ミュージックの練習生ではあるが、まだ“信濃町ガールズ”にも入っていない小学2年生の渡辺灯美ちゃんがアクア同様に小袖に垂髪姿で、カラス天狗の面を付けた山伏衣装の人たちと剣術の練習をしているシーンが映る。
 
山伏の役をしているのは時代劇の殺陣(たて)専門の役者さんたちである。渡辺灯美ちゃんは実は幼稚園の時から剣道を習っているので、剣術の練習が様になっている。実はそういう特技を持っていたので採用したのである。
 
↓ ↑ Bottom Top

「ね、ね、かわいい子だね。やはり男の娘?」
と政子が訊くが、私は
「女の子だけど」
と答える。それで政子は
「なーんだ」
とがっかりしたように言った。
 

↓ ↑ Bottom Top

『やがて成長した牛若丸は勝手に自分で元服して義経の名前を名乗ります。これは父の名・義朝から1字、清和源氏の祖先である経基王(清和天皇の孫*2)から1字づつ取ったものです』
 
『彼は、母・常磐御前の新しい夫となった一条長成の親族(*3)である奥州藤原氏の藤原秀衡を頼って平泉に行きました。この道の途中、矢作宿(愛知県岡崎市)で義経は兼高長者に歓迎され、その娘・浄瑠璃姫と夜を共にします。浄瑠璃姫は義経の旅に同行することを希望しましたが、厳しい旅なので断念し、義経は自分の愛用の笛を与え、印としました』
 
ここでアクアと浄瑠璃姫役の原町カペラが見詰め合っている様子。愛用の笛を渡すシーン。そして旅立って行く義経をカペラがじっと見詰めるシーンが映る。
 
↓ ↑ Bottom Top

『義経は奥州藤原氏の元でしばらく過ごしていましたが、やがて藤原秀衡の勧めで今日では“狐忠信”で名高い佐藤忠信の妹・浪の戸姫と結婚しました』
 
ここでアクアと浪の戸姫役の山下ルンバが結婚式を挙げるシーンが映ると、ネットには女性ファンたちの悲鳴が書き込まれる。
 
「山下ルンバは今日女性のアンチを1万人くらい作ったね」
と政子がいうが
「だからルンバが引き受けたんだよ。若い子がやったら可哀想だもん」
と私は説明する。
 
「なるほどー。偉い」
「ついでにアクアとルンバの年齢を考えるとカップルとして成立しにくい」
「それもいえる!」
 
と言いつつ、私は桜木ワルツと今井葉月の関係は怪しいよなと思った。ワルツは葉月のお姉さん代わりを自称しているが、葉月側はむしろお母さんのように慕っている。そしてワルツ側は自分で姉代わりと言いつつも、姉弟(姉妹?)以上の感情を持っているようにも見えるのである。
 
↓ ↑ Bottom Top


『義経が京都の五条天神で弁慶と出会ったのは彼が平泉に行った2〜3年後のことで、当時義経は平泉を本拠地としながらも、時々都の様子を探りに来ていたものと思われます。そんな時に弁慶という貴重な戦力を獲得することができたのです』
 
『なお、義経と弁慶が出会った場所は、唱歌では五条大橋となっていますが、実際にはその近くの五条天神であったそうです。しかし天神の境内で立ち回りをすると迷惑なので両者同意の上、近くの五条大橋に移動して戦ったともいいます。この五条大橋は現在の五条大橋より少し北側の、現在の松原大橋の場所にありました。現在の松原通りが当時は五条通りと呼ばれていました。実際五条天神に面した通りが松原通りです』
 
↓ ↑ Bottom Top

と明智ヒバリは地図を指し示しながら説明した。
 

 

↓ ↑ Bottom Top

(*2)経基王の父は清和天皇の皇子・貞純親王とされ、そのためこの流れを清和源氏といっていたのだが、近年、実は経基王の父は陽成天皇の皇子・元平親王なのではという説が強まっている。陽成天皇の子孫なのに何故清和源氏を名乗ったのかというと、陽成天皇が宮中の女性たちに裸で舞をさせるなど変態的趣向のあった人で、その子孫を名乗るのが恥ずかしかったので、陽成天皇の父である清和天皇の子孫であると名乗ったという説である。
 
遍照僧正の『天つ風、雲の通ひ路吹き閉ぢよ、乙女の姿しばし留めむ』というのも実はこの宮中の女性のヌードダンスの様子を歌ったものではという説もある。曇ると女性の姿がよく見えないので、月を隠さないでくれ、ということである。
 
↓ ↑ Bottom Top


(*3)藤原秀衡は、一条長成の伯母の曾孫の夫に当たる。
 

 

↓ ↑ Bottom Top

明智ヒバリは続いて義経と弁慶が出会った後のことを語る。
 
『義経が平泉に行ったのが1174年、京都に偶然出て来たところで弁慶と出会ったのが1176年か1177年くらいなのですが、1180年には後白河天皇の皇子・以仁王(もちひとおう)が平氏打倒の宣旨を出します。以仁王自身の蜂起は失敗したものの、この宣旨を源義朝の弟で、頼朝や義経の叔父にあたる源行家が全国に伝え歩き、平治の乱の後各地で雌伏していた源氏の残党たちに蜂起を促して回りました。その中で、伊豆の源頼朝、土佐の源希義、木曽の源義仲などが実際に挙兵しました』
 
『これに対して平家方は四国で挙兵した源希義の軍を鎮圧。源希義を殺害します。頼朝の軍も平氏の軍に敗れて、頼朝は木の洞穴に隠れて何とか逃れました。頼朝は海を渡って房総半島に退き軍を建て直し、そこに頼朝の弟・阿野全成(今若)、次いで源義円(乙若)も駆けつけました」
 
↓ ↑ Bottom Top

『そして1180年10月富士川』
と言ったところで明智ヒバリは言葉を停めた。
 

大きな川を挟んで大軍が対峙しているところが映る。
 
「凄い人数だね」
とテレビを見ながら政子が言う。
 
「エキストラは§§ミュージックのファンクラブの人たちから募集した。原則として撮影地に数時間で来られる人。交通費は自腹。日当5000円、お弁当とお茶は出る」
と私は説明する。
 
「それでも凄い費用が掛かったのでは?」
「いくつかの戦いの場面をまとめて撮っているんだけど、この撮影には1万人が参加している」
「すごっ」
「まあお弁当代と衣装代だけでも2億飛んでる」
「なんか凄い予算掛けてるね!」
 
「衣装は全部インクジェットプリンタで作ったから、昔ほどは掛からないんだよね」
「文明の利器は凄いね」
「鎧も刀もプラスチックだしね」
「鉄だと重いよね」
「鉄だと海の戦闘シーンで落ちると沈むしね」
「それは恐い!」
 
↓ ↑ Bottom Top


画面ではお互いに鬨(とき)の声があがっている。
 
画面には平氏の大将・平維盛役の篠原倉光くん(研修生)と、源氏の大将・源頼朝役の秋風コスモスが交互に映る。源氏の軍隊と平氏の軍隊は、お互いの空気を読みながら仕掛ける時を伺っている。しかし両軍動かないまま夜を迎え、全てが闇になる。お互い鬨の声もやみ、静かになる。
 
画面には仮眠を取っている平氏たちが映っている。各々の大将が幹部の武士と話し合っている所も映る。これら端役の役者さんたちは全てオーディションで選ばれた人たちである。町の劇団などに属している人、中には旅役者さんなどもいて、みんな演技力が高い。
 

↓ ↑ Bottom Top

↓ ↑ Bottom Top

前頁次頁目次

[*前頁][0目次][#次頁]
1  2  3  4  5  6  7  8  9 10 11 12 13 14 15 16 17 18 19 20 
■クロ子義経(2)

広告:にょたいかっ。 1 (MFコミックス)