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■クロ子義経(16)

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ヒバリは解説する。
 
『静はその後、5月27日には、北条政子の娘・一幡に乞われて南御堂(勝長寿院)でも舞を奉納しています』
 
『それに先立つ5月14日には静親子が滞在している安達清常の屋敷に、鶴岡八幡宮の舞で伴奏した工藤左衛門尉祐経、梶原景時の息子・梶原三郎景茂、千葉常胤の孫・千葉平次常秀、八田太郎朝重(詳細不明)、頼朝の右筆の藤原判官代邦通など、多数が押し掛けてきて宴会を始めてしまったことがありました』
 
『歓迎して静の母・磯禅師が舞を舞ったのですが、この時、酒に酔った梶原景茂が静にエロチックな言葉を掛け、静が怒るシーンもあったと吾妻鏡には書かれています。吾妻鏡は鎌倉幕府側の記録なのに、義経にはほんとに同情的で、梶原一族は悪者という立場なんですね』
 
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『さて、京都の方では義経の義弟・源有綱(高島瑞絵@リセエンヌ・ドー)が、6月16日、奈良の宇陀に潜伏していた所を北条時定の手勢に発見され殺害されました。更に7月25日には伊勢三郎義盛(南田容子@リセエンヌ・ドー)が、発見され梟首されました(*16)』
 
「なんかさりげなくナレ死」とネットでは追悼のメッセージが書き込まれていた。
 

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(*16)「玉葉」巻46・文治2年7月25日(庚子)の記事に「九郎義行郎徒、伊勢三郎丸梟首」とある。「義経記」では伊勢三郎は義経の北行(文治3年2月)に同行し、衣川館で死んだことになっているのだが、義経記はあくまで小説でもあるし、玉葉の記事のほうが信頼できると思われるので、こちらの記述に従うことにする。
 
資料の信頼度としては、玉葉が最も信頼でき、吾妻鏡はそれより少し落ちるが、この2つがこの時期の記録としては最も信頼性が高い。
 
義経記は他の資料と比較して、あまりにも違いのある記述が多く、内容はほとんど信頼に値しない。例えば静が鶴岡八幡宮で舞ったのは出産の後ということになっている。工藤祐経の妻が口説き落として舞わせたとするが、そちらは或いは本当かも知れない。例によって最初に梶原景時が高圧的な態度で舞を命じて静が拒否したが、頼朝の意向に従わない者が居るという既成事実を作りたくないので工藤に改めて説得役を命じたとある。やはり梶原景時はどこの本でも徹底的に悪役である。
 
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《文治2年閏7月29日・安達清常邸》というテロップが流れる(*17).
 
ヒバリの解説。
『静、母の磯禅師、大姫(一幡)の侍女・蜜局君、それに北条政子が寄こした腹心の産婆が産屋に集まっています。出産なのだからと言って清常など男どもはここには近づかないように言っています』
 
『ここしばらくお腹に詰め物をして妊婦を装うのが大変でした』
と静(アクア)が言う。
 
『出産なさいましたらお腹も引っ込みますから、今夜までですね』
と産婆(オーディション選出の八坂さん)。
 
『ところで身代わりを務めてくれる女の赤ちゃんというのは、どなたの子供なのですか?』
と静が尋ねる。
 
『それなんですが、実は赤子に身代わりを務めさせることを同意してくれていた女房3人の内1人が昨夜、死産したんです』
と蜜局君が言う。
 
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『あらぁ』
『赤子は男の子でした。ですから結果的に身代わりとしては最適になります。母親は亡くなったゆえに手放したくないようでしたが、御台所様(北条政子)が説得して、身代わりとして出すことを同意して下さいました』
 
『それはお気の毒でした。自由の利かぬ身なのでお見舞いできませんが、よろしくお伝え下さい』
と静(アクア)。
 

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テレビを見ていて政子が騒いでいる。
 
「ね、ね、なんで上田雅水くんが大姫の侍女役をしてる訳?」
と訊く。
「それは大姫の侍女だからだと思うよ」
と私は答えた。
 
「そうやって義高を助けたんだ?」
「さあ」
「でも女を装うには、最低でも玉は取った方がいいよね?」
「玉を取ったら大姫が困ると思うけど」
「そこは何とかテクニックで」
 
この件は多くの視聴者が驚いたようだが、番組では敢えて解説はしなかった。
 

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(*17) 文治2年閏7月29日はグレゴリウス暦では1186.9.21で、この出産日から逆算すると、受精日は1185.12.29となり、これは文治元年11月29日である。しかし静が吉野の執行に保護されたのは11月17日である。つまりこの御産は予定日より最低12日以上遅れた晩産であることになる。いくら義経と静が大胆でも、吉野の執行に拘束されている間に密会していたことはないであろう。
 
恐らくは、2度と会えないかも知れないという状況の中でお互いに激情の中で熱く愛し合った最後の夜に受精したのであろう。
 

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安達清常が数人の侍と一緒に宴会をしているシーンが映る。多くの友人たちが酒を飲んでいるが清常は飲んでいない。今から場合によっては赤ん坊を殺さなければならないと思うと、憂鬱な気分で酒など飲む気にはなれないのである。戦場では多数の武士を斬ってきた彼だが、赤ん坊を殺すのは何とも罪悪感が大きい。
 
『しかしまだ産まれないのかな』
と言って清常は立ち上がり、産屋の様子を見に行った。
 
ところが庭に何かを抱えている女がいるのに気付く。
 
『何者だ?』
と清常が訊く。
 
『いえ、私は怪しいものでは・・・』
と答えるのはオーディション選出の三田さんという高校生である。ローカルな集団アイドルに所属しているが演技力があったので採用した。公的書類の確認などはしていないが、たぶん女子で、女子高生だろう。
 
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『充分怪しい。何を持っている』
と問い詰める。提灯の灯りを近づけると、おくるみに包んだ赤ん坊のようである。
 
(清常は赤子を産屋から連れ出した所と思ったのだが、実は連れ込もうとしていた所)
 
『赤ん坊が産まれたのか?男か?女か?』
『えっと・・・』
『貸せ』
と言って清常は提灯を投げ捨てて両手で赤ん坊を奪取しようとするが、女はなかなか渡さない。
 
『渡さないということは男だったな?渡さないと斬るぞ』
 
騒ぎを聞きつけた磯禅師(満月さやか)が産屋から飛び出してくる。
 
『赤子を渡しなさい』
と磯禅師が命じて、赤ん坊をおくるみごと女から取り上げる。
 
清常が赤子の股間に触る。
 
『付いてる。確かに男だ。こちらによこせ』
『はい、申し訳ありません』
と言って磯禅師が赤ん坊を安達清常に渡した。
 
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清常はその赤ん坊を抱えると、近くの崖まで走り、赤ん坊を崖の下に向けて投じた。
 
彼は大きく息をつき、それから崩れるように座り込むと泣いてしまった。
 
追いかけて来た磯禅師(満月さやか)と蜜局君(上田雅水)が悲しんでくれている清常の姿に涙していた。
 

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「ここのシーン、赤ん坊を抱えて出てくるのが蜜局君の役でさ」
と私は言った。
 
「うん」
「言い争いから安達清常はその女房を斬ってしまうという台本だったんだよ。最初は」
「え〜?」
と政子が声をあげる。
 
「その結果、大姫は恋人をほんとうに失ってショックで寝込み衰弱死する」
「それは悲劇がすぎる」
 
「昔の年末年始の大型時代劇でそういう場面があったのを脚本家さんが覚えていて、同じ筋立てにしようとしたんだけど、撮影現場で、満月さやかさんが『ここは殺される必要無いと思います』と言って、それで検討した結果、清常は蜜局君を殺さないことになった」
と私は解説する。
 
「それがいいと思う」
と政子も同意した。
 
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ヒバリの解説
『出産から少しおいて身体を休めた上で、静と磯禅師は9月16日、解放されて京都に戻っていきました。北条政子と大姫が静を気遣って、多数の品を持たせてあげました。正史では静に関する記述はこれで終わっています』
 
『静たちは半年に渡って自分たちを泊めて親切にしてくれた安達清常に感謝の言葉を掛けましたが、清常は静の産んだ子供を殺したことに罪悪感を持っていたので「申し訳なかった」とあらためて謝りました。磯禅師は「お役目だから仕方ないです」と彼を気遣いました』
 
『静が京に向けて旅だってすぐ、京都では義経の部下の掘景光(マツ也)と佐藤忠信(今井葉月)が相次いで捕縛され殺害される事件がありました。景光は少年時代の義経が平泉に初めて行った時同行してくれた人ですし、佐藤忠信は兄弟のように仲が良く、本当に義経に献身してくれた人で、義経は彼の死に涙しました』
 
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このヒバリのナレーションに『え〜〜!?葉月ちゃん、まさかのナレ死!』
と驚きと追悼のツイートが多数なされた。
 

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市女笠を持ち、壺折った袿(うちき)を着た旅姿の静は一軒の家に入ると
 
『疲れたぁ!』
と声をあげた。
 
『お疲れ様でした。鎌倉はどうでしたか?』
と声を掛けたのは弁慶(品川ありさ)である。
 
『頼朝殿はあれは長くないな』
と静は言った。
 
『ご病気か何か?』
『頼朝殿の一番の腹心であったはずの河越殿親子が誅せられ、本当の味方は誰も居なくなった。もう鎌倉の中心は北条時政だ』
と静(アクア)は言う。
 
『郷御前はたいそう心を痛められて寝込んでおられるそうです』
『河越に返してやりたいが、あそこも危ない。母君(常磐御前)の元に置いておくのがよいだろう』
『蕨姫はどうでしょうか?』
 
『能登まで同行しようかと思う』
『なるほど』
と言ってから弁慶は静に尋ねた。
 
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『いつ出発しますか?』
『3日後に発つ。同行できる者を集めよ』
『分かりました』
 

テレビを見ていた政子は混乱している。
 
「ねぇ、これ静だよね?」
「そうだけど」
「話している内容がまるで義経なんだけど?」
「まあそういうこともあるかもね」
 
ネットでも随分混乱している書き込みが多かった。
 

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一行は深夜すぎに、その家を旅立った。
 
一行は、義経のほか、静(アクア)、武蔵坊弁慶(品川ありさ)、常陸坊海尊(木取道雄@Wooden Four)、鷲尾三郎義久(木下宏紀)、海野五郎浪安(坂田由里)、の合計6名である(*18).
 
義経以外の6人は山伏姿(アクアも男装の山伏姿)、義経だけはできるだけ顔を隠させるために強力、つまり荷物持ちということにした(実際顔が見えない)。
 
ヒバリが解説する。
『山伏姿を選んだのは、坊さんに化けた場合、髪を剃らなければならないのが面倒ですし、行き先を詮索される可能性があるものの、山伏なら「熊野の山伏が出羽に行くところ」とか「出羽の山伏が国に帰る所」などと言えるからというのがありました。また弁慶によく似た讃岐坊という山伏が出羽にいることから、弁慶は彼を装うことにしたのです。他の者も適当な名前を名乗ることにしました』
 
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『結局蕨姫は別行動をとることにし、武士ではなく公卿なので“お尋ね者にはなってない”義経の弟である一条能成(山口暢香)の手の者が同行して能登国にいる父親・平時忠の許へ落ちていくことになりました。彼女は元々行動の自由がありますし、父親の所へ行くのに人にはばかることはありません』
 
(なお義経シンパである蕨姫の兄・平時実は上総国に流されている。鎌倉の近くなので近寄れない。彼は義経が奥州で倒れた後、京都に戻され官位にも復している)
 
『また義経たちは自分たちの居所を推察されにくいように、囮の一行も仕立てました。この囮のパーティーはこのような面々でした』
 
千光坊七郎、亀井六郎重清(佐藤ゆか)、駿河次郎清重(大崎志乃舞)、熊井太郎忠基、片岡太郎常春、備前平四郎房成[義経役]。
 
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『亀井と駿河がこちらに入ったのは2人は義経の郎党としてわりと顔が知られているからです。鷲尾と海野はわりと新しく義経の家人になった人なのであまり顔が知られていないことから本物のパーティーに参加しました』
 

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(*18)義経の北行に同行した伴は、物語により異なっている。
 
義経記では全部で16人で、増尾七郎、片岡(経春?)、武蔵坊弁慶、常陸坊海尊、伊勢三郎、熊井太郎、鷲尾三郎、亀井六郎、駿河次郎、といった面々を含む。その他に久我大臣の娘とその従者の兼房が付き従うことになる。あまりにも大人数で目立ちすぎである。ただ義経記は最初に16人と書いていたのに、久我姫が加わった後も16人と書いている。
 
能の『安宅』では、弁慶・義経・強力のほか9人とされるから全部で12人。これも多すぎる。
 
歌舞伎の『勧進帳』では、武蔵坊弁慶・源義経・亀井六郎・片岡八郎・駿河次郎・常陸坊海尊の1行6名である。目立たないように行動するなら、このくらいが限界。むしろこれを3人ずつ2組に分けたいくらいである。
 
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