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■春牛(14)
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2月下旬のある日。
和実が石巻市内の胡桃のアパートに寄ったら、胡桃が住宅情報誌を見ていた。
「姉ちゃん、これ昨日打ち合わせで東京に行ってきたからお土産」
と言って、東京ばな奈を渡す。
「ありがとう。これ美味しいよね。私もだいたい東京土産はこれ」
と言いながら、早速箱を開けて食べている。和実は勝手知ったるアパートなのでコーヒーを煎れて胡桃愛用のスナフキンのカップに入れて渡す。
「さんきゅさんきゅ」
和実も自分用のミニーのカップが置いてあるのでそれに入れて飲む。
「さすがプロだよね。私が入れたのと味が違う」
「何見てたの?森田さんのアパート探してあげるの?」
「あの子のアパートも探してあげないといけないのかな?その前に自分の引越先のアパート探していたんだけど、仙台市内はやはり高いね」
「姉ちゃんは、うちに引っ越してきてくれるのかと思ってた」
と和実が言うと、胡桃はハッとしたように
「そうか!その手があったか!」
「家賃は要らないよ。朝、私と一緒に出勤しようよ。ガソリン代も要らないし」
「そうさせてもらおうかなぁ」
「それで月曜日(美容室の店休日)は、希望美と明香里の面倒見ててよ」
「それが目的か!」
「淳はいつこちらに来てくれるのかなあ」
「まだ日にち決まらないの?」
その日、淳は熊田専務のデスクの前に行き言った。
「専務、先日からお話ししていた件ですが」
「ああ、旦那さんが住んでる仙台に引っ越す件ね」
「向こうが妻で、私は夫なんですが」
「そうだったっけ?ごめんごめん」
「**興行のシステムも順調に動作しているようなので、あと少し資料整備などもして、3月いっぱいで退職させて頂きたいのですが」
「ああ、その件で話さなきゃと思ってた。ちょっと外で話そうか」
と言って、専務は淳を応接室に連れて行った。例によって応接室のドアは開放したままである。最初お茶を飲みながら世間話をしていたのだが、近くの高級割烹の仕出しが届く。
淳はとてもいやな予感がした。専務からこの高級割烹に連れられていく度に、淳はたいへんな仕事を押しつけられているのである。今回はコロナ騒動でお店で話すのはやばいので仕出しになったのだろうが、どっちみち鬼門っぽい。でも今回はもう退職するんだから大丈夫かな?などと考える。
「いただきます」と言って食べ始める。食べる最中はあまり話をしない。それで美味しく食べ終わってから、専務は唐突に思い出したように言った。
「そうだった。君にこれを渡す」
専務は淳に書類を渡した。
「辞令!?」
「月山君、君を仙台支店長に任命するから」
「仙台支店!?そんなものいつできたんです?」
「4月に開設する」
「そこに赴任しろと?」
「要は仙台に移住できたらいいんだろ?仙台の南町通りにオフィスを確保したから。あおば通駅の近くだよ」
「スタッフは?」
「現地で経験者2名と大卒の女子1名、専門学校卒の男子2名を採用予定。あと事務の女の子。高卒の18歳で簿記2級・英検2級・漢検2級、秘書検定にMOSも取ってる。実はこの子男の娘なんだけど、君はそんなの気にしないよね?凄く可愛い子だよ。絶対性別を間違って生まれて来たとしか思えない。その6名を君の配下に組み込むから。でも新人ばかりでは不安だろうから、墨田君にも仙台支店副支店長兼営業部長として赴任してもらう。彼は塩竈市出身なんだよ。月山君のほうは支店長兼システム部長ね」
と専務は一気に言った。
「それで前々から話があった東北衣料さんのシステム、構築を頼む。君が以前構築したフュナールのシステムと似たような感じになると思うんだよ。こちらも女性用下着が主力だし。まあ若干男性用も作っているのと、年齢層が少し高めかな。東京から毎回打ち合わせに行くのも大変だと思っていたんだよね」
そうだ。前々回専務に高級割烹をおごってもらった時、そのフュナールのシステムの構築を頼まれ、先方が女性SEにやって欲しいと言っているからと言われて、淳はそれ以来、女性SEとしてこの会社に勤めているのである。あれがもう8年近く前のことである。
大学を出てこの会社に入り、8年間は男性SEとして勤務(淳の公式見解)し、8年は女性SEとして勤務した。なんか女として勤務するようになってから、凄く“楽”になったような気もした。
「東北衣料は山本さんがすることになっていたのでは?」
「彼女は2月いっぱいで退職するというから」
「私も3月いっぱいで退職すると言っていたはずですが」
「君の退職願いは却下」
「彼女の退職願いは受け付けて、なんで私のは却下なんです!?」
と淳はさすがに怒った。
「彼女は結婚して熊本に行くというからさ」
「私も結婚していて仙台に行きたいんですけど」
「うん。だからうまい具合に仙台の案件だから、ちょうどいいじゃん」
「そんなぁ」
「君は我が社初の女性支店長だよ。女子社員の希望の星だから頑張ってね」
「初の女性支店長って、そもそも初の支店なのでは?」
「うん。だから頑張ってよ。東京本社とはVPN(仮想プライベートネットワーク)で結ぶから、本社のリソースは全部そのまま使える。東京本社にいるのと大差無い環境で作業できるはずだから」
「そのVPNは誰が構築するんです?」
「仙台に行って最初にする作業がそれかな。まあ何度か東京と仙台を往復することになるかも知れないけど」
淳は「お店が2つになって大変になるから、色々お店のことで手伝ってね」と言われていたのに、和実に何て言おう?と悩んだ。
3月17日(火)、日本サッカー協会の田嶋幸三会長がコロナ陽性であることが判明したと発表されたが、田嶋氏の妻・土肥美智子はJISS(国立スポーツ科学センター)の医師であり、合宿している様々な競技の多くのトップアスリートと接している可能性が考えられた。
この事件はサッカーだけでなく、スポーツ界全体に激震が走った。
(幸いにも土肥は感染していなかった。また4月上旬JISSを含むHPSC全体が閉鎖された)
美映は参ったと思った。起きたら身体が熱っぽいのである。体温計で測ったら38.5度もある。やばぁ、これ風邪かな?インフルかな?まさかアレじゃないよね?と思う。貴司は3日前から青森に出張中だ。
「ママ大丈夫?」
と緩菜が心配そうに言う。緩菜に移してはいけない。
「ママは寝室で寝てるから、緩菜はひとりで御飯とか食べられる?」
「うん。大丈夫だよ」
それで美映は葛根湯を飲んで寝室に入って寝たのだが、お昼頃になると熱は39.1度まであがっていた。
「辛いよぉ。これ病院に行った方がいいのかなあ」
こんな時、誰も頼れる人がいないのは困りものだ。親は尼崎だし、親友的な人も関西にしかいない。埼玉に来てから入ったバスケチームのチームメイトはいるものの、こういう時に頼るのは悪い気がするし、今のご時世、風邪症状の人に好き好んで近づいてくれる人は無いだろう。関西にいるのなら、ミナちゃんとかテッカちゃんなら、こういう時でもお互い遠慮なく頼れるのになどと思う。
美映は心底関西に帰りたいと思った。
緩菜が寝室に入ってくる。
「ママ、誰かに連絡しなくていい?」
「緩菜、ママは病気だから、この部屋に入ってきたら移るかも知れないから入って来ちゃダメだよ」
「ママのお母ちゃんに連絡する?」
「うーん・・・」
最後の最後はその手かもとは思うが、実は美映は貴司と結婚したことも埼玉に引っ越したことも母に話していない。それを今更言うと叱られる気がした。
その時、ふと思いついた。
「ちょっと不愉快だけど」
と思いながら、美映はスマホから千里の電話番号に掛けた。
美映の電話は千里1のガラケーに掛かった。これは昨年春に千里(ちさと)が由美ちゃんを連れて関西四十五箇所?とかを巡っている途中でバッテリーが切れたので充電させてと言って千里(せんり)のマンションに寄った時、念のため番号を交換しておいたからである。
電話を受けた千里(ちさと)は「すぐ行く」と言ってきてくれた。マスクとゴム手袋をしている。
緩菜には「ママの病気が移ったら大変だから緩菜は向こうに居なさい」
と言って居間の方に行かせる。
それで千里は美映の熱を見た後
「ちょっと鼻水を取らせてね」
と言って、何かの試験紙のようなものを美映の鼻孔に入れて鼻孔の端に押しつけるようにした。
「数分待ってね」
と言って、その間に千里は窓を開け、換気扇を掛けて部屋の換気をした。寝室も換気する。居間のテーブルの上と寝室のベッドのヘッドボードに置いたのはクレベリンのようである。
「ああ結果出たよ」
と千里は言った。
「これは普通のインフルエンザ」
「良かったぁ。でも千里さん、そんな試験紙持ってるのね」
「ああ、妹の旦那が製薬会社に勤めているから何枚かもらっておいたんだよ」
「へー」
「でもどこで移されたのかなあ。チームメイトさんたち大丈夫?」
「電話してみる」
と言って美映はキャプテンに電話して、熱が39度出てインフルエンザと診断されたけど、他にも掛かってる人がいないか心配だと言った。
するとキャプテンもダウンしていたことが分かる!他にも2人風邪で寝ているらしい。
「ビバノンがインフルなら、多分私や他の子のもインフルだな。一週間寝てるよ」
「それがいいかもですねー」
(チームは結局このインフル騒動の後、活動休止になってしまう)
千里は美映が栄養のつくものを食べたいというので、ニラレバ炒めを作ってあげた。
「ありがとう。助かる」
「去年は私が助けてもらったしね」
「お互い様かな」
元々美映はあまり細かいことを気にするタイプではないので、何となく千里と仲良くなってしまった。
「千里さん、緩菜がスカート穿いてても何も言わないのね」
「だって緩菜は女の子だからね」
「そうだよね。やはりこの子、女の子だよね」
「千里さんさあ、私がもし貴司と離婚したらどうする?」
「ドロップキャッチかな」
「じゃ離婚する時には千里さんに連絡するよ」
「うん。よろしくー」
千里はその後3日間通ってきて、美映の体調をチェックするとともに、御飯なども作って洗濯もしてくれた。緩菜にも御飯をチンだけすればいいようにして冷蔵庫に入れてくれた。また千里はインフルエンザに利く薬も“買ってきた”といって渡してくれた。それで美映は4日目には起き上がれるようになった。幸いにも緩菜には移らなかった。貴司が出張から戻って来たのは10日後だった。
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