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■春根(10)
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「結果的には、貴司自身も3月で辞めないといけないということだよね?」
と貴司から電話で状況を聞いた千里は言った。
もっとも千里は話の雰囲気から、そもそもこの会社、3月までもつのか?その前に倒産しないか?と不安を感じた。
「僕も含めてバスケ部全員ね。だからみんなの来年春以降の就職先を見付けてあげないといけない」
「それは貴司の立場上仕方ないだろうね」
現在のバスケ部員は全員貴司が勧誘して入社させた人ばかりである。
「貴司はBリーグに行く?」
「日本代表からも落ちて久しいし、今更採ってくれるチームがあるとは思えない」
貴司は2017年2月に日本代表に選ばれたのが最後になっている。
「下位のチームなら充分行けると思うけどなあ」
「それと引越先も探さないといけないし」
「少し周辺部になれば、結構安い所あると思うよ」
「うん。頑張って探してみる」
ところが、大阪の都心部に通勤可能な範囲で家族3人(貴司・美映・緩菜)が暮らせそうなアパートを探すものの、安い所が全く見つからない。
千里(せんり)のマンションは家賃が35万円だったが、会社からの住宅手当のおかげでこういう高額マンションに住んでいることができた。住宅手当は当初25万円で10万円の個人負担だったのが、2016年に船越監督が退任して、貴司がコーチ兼任になった時、住宅手当が35万円に増額され、家賃の負担はゼロになっていた。
それでこれまでは実質住宅費ゼロで暮らしていたのだが、この35万円がカットされてしまうので、それ以外の給料の分から家賃を払わなければならない。しかしその給料自体がここ数年どんどん減らされており、できたら5万円程度の家賃の所に住みたいのだが、5万円のアパートというのをチェックすると駅から極端に遠いところばかりである。現実的に歩いて駅まで行けそうな所だとどうしても8-9万円してしまい、新社長のもとで更に給与カットになりそうな状況では、とても負担できない。
給料自体、残業手当のオールカットが続いていることもあり、現在30万円を割り込んでいる。貴司はとても生活が成り立たない気がした。それで昨年夏に緩菜が産まれて以来、阿倍子への養育費の送金も滞っていたのである。
貴司は千里に泣きついた。
「ね、一時的にでもいいから、市川ラボに引っ越したらダメかなあ」
千里は極めて不快に感じた。あそこは貴司と千里のプライベートスペース、愛の巣なのである。そこに美映を入れるのはさすがに千里としても受け入れられない。こんなことを言ってくる貴司の無神経さに少し腹が立った。
「美映さんと即離婚したら、貴司と緩菜ちゃんだけなら、入居してもいいよ」
「いやそれは・・・」
千里は考えた。貴司の給料はかなり減額されているようだ。しかも緩菜が生まれてまだ1年も経たない状況で、子育ての費用がかなり掛かっていると思った。そんな状況で阿倍子さんへの養育費の支払いも滞っているのだろう。
「分かった。仕方ないから姫路の家を貸すよ。本当はそこで私が貴司と一緒に暮らしたかったんだけど」
「姫路?姫路にアパートか何かあるの?」
「近い内に貴司は美映さんと離婚してくれるだろうと思っていたから、その後で私が結婚して、一緒に暮らせるようにと思って一戸建ての住宅を建てていたんだよ」
「そんなものがあったの!?」
「姫路から貴司の会社までは、定期券代がJRと地下鉄と合わせて4万5千円くらいだったと思う」
「うちは係長級は7万円まで通勤手当が出るんだよ」
「だったら問題無いね。あの家はまだ私と貴司の思い出が作られていないから、市川ラボよりはいいよ。格安の家賃月20万円で貸してあげるから」
「ごめん、今20万円は払えない」
「だったら月2万円で」
「そのくらいなら何とかなるかな」
「差額は身体で払って」
「考慮する」
「あと、来年春までに美映さんと離婚してね」
「ごめん、それは約束できない」
ふーん。“約束できない”ということは別れるつもりはある訳だ。千里は今はそれだけでいいことにした。
「じゃそちらの都合のいい時を教えて。現地案内するから」
「助かる」
それで貴司は7月24日(水)に有休を取って姫路に行き、千里と落ち合った。
千里はオーリスを持って来ていたので、それに乗って2017年に播磨工務店のメンバーに練習を兼ねて建ててもらった一戸建てに行った。スマホで門を開けガレージに車を入れる。やはりスマホで玄関を開けて中に入る。
「そういえば千里、いくつもスマホとかガラケーとか使ってるね」
「私も何個あるのか分からなくなって来てる。これアプリはアップストアなりグーグル・プレイからダウンロードしてね。起動用のid/passはこれ。最初に貴司の携帯を登録するのに2階段認証が必要だから」
と言ってメモを渡した。
「2段階認証のこと?」
「今私なんて言った?」
「2階段認証」
「うーん。なんかそういうものよ」
千里のコンピュータ音痴は今更なので貴司も気にしない。
「美映のスマホにも入れていい?」
「仕方ないね。こちらは美映さん用。これも最初は2段々認証が必要」
と言って、別のメモを渡す。
ともかくも中を見て回る。
「すごいきれいだ」
と貴司は言った。
「使ってないからね。2017年10月に完成したんだよ。さすがにそろそろ阿倍子さんと離婚してくれるだろうと思ったからさ」
「その件は、ほんとに申し訳無い」
「1階にLDKと洋室1個にサービスルーム、2階に洋室3個とクローゼットに私の作業用の防音室。他に地下もある」
と言って、千里は1階洋室の押し入れ?に見える襖(ふすま)を開けると、そこに出現した階段を下に降りていく。
「こんな所に階段があるの〜〜!?」
「設計者はここを設計する直前に忍者屋敷を見てきたらしい」
「確かに忍者屋敷だよ!」
地下には小さめながらも、バスケットのハーフコート(16m×10mなので、むしろ1/3コート)が作られているのである。天井の高さは7mあり、40段の階段を降りてコートまで降りて行く。実はこれを作りたかったので奥行きが最低17mある土地を見付けてもらった。実際にはこれほど広い地下室には階段付きのドライエリア(空堀り)が必要なので、その分も入れると20m以上必要になる。ここの土地の奥行きは20.33mである。
(ドライエリアを設置しない場合は地下室の床面積は全て容積率計算に算入しなければならない。そもそも何かあった時に危険である。ただしドライエリアが無い方が遮音性は当然高い。安全性と遮音性のどちらを取るか、設計時に青池さんと千里で話し合いの上、ドライエリアは作ることにした)
「電気は来ているんだね」
「どうしても地下水が出るから、それを排出するためのポンプを常時動かしておく必要があるんだよ」
「なるほどー」
「でも実際にはその程度の電気代は太陽光パネルが生みだしている電力より遥かに小さい」
「太陽光パネルがあるんだ?」
「毎月電力会社からお金をもらっている」
「いいね!」
「まあ入居したら家電品とかを使うから、さすがにこちらが払わないといけなくなるだろうけどね」
「ああ」
地下バスケットコートの床はフローリング、壁は怪我防止のためのクッション板だが、これが防音効果もある。天井には吸音板が貼り付けられている。実は床のフローリングの下にも吸音効果のある素材を敷いている。ドライエリアとの間は二重窓になっている。出入り口のドアは気密ドアである。ドライエリアの開口部は道路のそばで、実は門の真下である。
「なるほど上はグレーチング(*7)か」
「グレーチングが無いと転落するからね」
「それ怖い」
「7mから落ちたら死ぬよ。ただし防犯のため下からは容易に開けられるけど、上からはワイヤーを切らないと開けられないようになっている。消防の人なら切断できると思う」
「なるほど」
(*7)格子状の鋼材製のふた。よく側溝などにかぶせてあるもの。多くはSS400という鋼(はがね:スティール)の本体に亜鉛メッキを施したものである。
なお開口部は雨水が流れ込まないよう周囲に溝を作り、またハンプ状に盛り上げており、さらに上部に屋根を作って門のようにして、雨の降り込みを軽減している。そうしないと大雨の時に地下室が水没する危険がある。
なお地下水や雨水は全てタンクにいったん溜めて“中水”として使用するので、この家は大きさの割に水道の使用量も少なくて済む仕組みになっている。ひじょうにエコな住宅である。
「1階の洋室は私と貴司の寝室ね。だからそこから降りてくればいい」
「なるほど」
「2階は子供部屋とお客様を泊める時の予備」
「ああ、それでいいよね」
「それでお願いがあるんだけど」
と千里は貴司に言った。
「うん」
「寝室で美映さんと寝て欲しくない。あの寝室は私と貴司のものだから」
「分かった。だったらあの部屋は書斎にするよ。サービスルームの方にベッドを置くことにする」
「それならいい」
一応1階のサービスルームにも窓はあるので結構明るい。ただその窓の面積が床面積の7分の1に僅かに足りないのでサービスルームとしたものである。むろんそこに居住者が勝手にベッドを置いて寝室として使うのは何も問題無い。
なお、実際には貴司は美映と同衾していないのだが、貴司としてはそのことは現時点では千里にあまり言いたくない。たぶんサービスルームが美映の部屋(*8), こちらが自分の部屋になるかなと思った。同衾しない理由は貴司の“ちんちん”が立たないからだが、それはニセモノなので立つわけがない。本物は千里3に取り上げられたままである。貴司は2018年3月以来、1年以上去勢状態にある。
「バスケットの練習室を美映も使うのはいい?」
「うん。それはバスケットをする人全てが使っていい」
「了解」
(*8)1階の居室用洋室は東北方位にあり、サービスルームは南側にある。実を言うと貴司は1989年生男で坤、千里は1991年生女で乾、2人とも風水上“西四命”なので、東北は吉方位、南は凶方位になる。そこでわざと東北の吉の部屋は居室、南の凶の部屋はサービスルームになるようにしたのである。
ところがこのサービスルームには美映が住むことになるが、彼女は1986年生女で坎、“東四命”になり、貴司や千里とは吉凶が逆転する。彼女は東北の部屋が凶で、南の部屋が吉である。つまり美映本人は吉部屋に住むことになり、運気は上昇するのである。しかも彼女は南西にある玄関を使わずに東にある通用口から多く出入りしていた。
玄関のある南西は貴司・千里には吉、美映には凶。しかし通用口のある東は貴司・千里には凶で美映には吉なのである!
つまり姫路のこの家は、貴司・千里と美映は吉凶反転する物件なのに、各々の使い方がうまく行って3人ともに吉になる住宅となっていた。
ちなみに緩菜は女命で見れば乾で貴司や千里と同じ西四命、男命で見れば離で美映と同じ東四命になる。実際には美映は子供の世話などする気はほとんど無かったので、たいてい貴司の部屋(東北の居室)のベビーベッドに寝かされていて(悪く言えばネグレクト)、そのお世話はほぼ《てんちゃん》の日常のお仕事となっていた。それで緩菜は女命でうまく行っていたのである。
地下室を見た後、千里と貴司は、いったん1階に戻ることにする。
「あ!エレベータがある」
「よく見付けたね」
「これどこに出るの?」
「乗ってみれば分かるね」
それでエレベータに乗って1階のボタンを押す。着いた所には襖がある。それを開けると元の寝室である。
「この押し入れみたいに見えるものの、左側がエレベータで右側が階段だったのか」
「貴司は足を鍛えるのに毎回階段で上り下りしよう」
「考えておく」
それで更に2階に行こうとする。
千里はキョロキョロしている。
「どうしたの?」
「2階に行く階段はどこかなと思って」
「それもどこかの部屋の中にあるとか」
LDKにもサービスルームにも上に行く階段は見当たらない。隠し階段かもというので戸棚なども開けてみるが見当たらない。玄関付近にも無い。
「トイレの中に階段があるとか?」
「まさか」
念のため覗いてみるがそのようなものは無い。バスルームや洗面所も見たが、やはり階段は見当たらない。ちなみにエレベータは地階と1階を往復するだけである。
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