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■春根(6)
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女性祈祷師さんが真珠のそばに寄ってきて言った。
「お嬢さん、どうも見える人みたいだから、これを預けておきます」
渡されたのは切株の所に刺したのと似たような感じの剣である。ずっしりと重い。
「何かあった場合は、今刺した剣から1mくらい手前にこれを刺してもらえないでしょうか?それで一時的に抑えることができます。そしてすぐ私を呼んで下さい。真夜中でも構いません」
「分かりました。お預かりします」
それで3人は帰っていった。
「なんかあの女助手さんからお前『お嬢さん』とか言われてたな」
と父が言った。
「まあ女の子に見えたのかもね」
と真珠は平然とした顔で言った。
「女の子にしか見えないんですけど」
と小児科医は緩菜のお股を見て戸惑うように言った。
「でも生まれた時は男の子だといわれたんですけど。何だか染色体検査もしていましたよ」
と貴司は医師に言った。
「あらためて検査してみていいですか?」
「はい、お願いします」
それで緩菜の口腔内の粘膜を採り、検査してみたところ確かにXYであることが判明した。緩菜のお股の“陰裂”のようなものを開いてみると、尿道口は通常の女子の位置より前方で“陰核”のように見えるものの少し後ろの方に開口しており、女の子の“前付き”にも思えるが、もしこの子が男の子であるとしたら尿道下裂の一種と思われた。“陰核”のように見えるものは体外に数ミリしか出ておらず、とても陰茎には見えない。
“陰裂”の最後部には膣のように見える穴?凹み?が見える。結構な深さがあるように思われた。
睾丸があったはずというので医師はその付近を触診したものの、見付けることはできなかった。
「私にはこの子の性別を判定することができません。紹介状を書きますから、もっと大きな病院で診てもらわれませんか?」
と医師は悩むように言った。
緩菜は生まれた時、股間の形状が男の子なのか女の子なのか曖昧だった。それで病院では染色体検査をした上で、男の子のようだとし、母子手帳と出生証明書にも男児と記載したものの、性別に関しては出生届けを提出する前に、念のため大きな病院で調べてみたほうがいいですと言って、医師は紹介状を書いてくれた。
しかし美映はそのことをきれいに忘れていた!
そして貴司はその話を聞いておらず、書いてもらった出生届けをそのまま役場に提出してしまった(と思っているが、本当に出生届けを役場に提出したのは“貴司の妹・理歌”である)
ところが先日掃除をしていた時、その紹介状が出てきたのである!
「あ、忘れてた」
ということで、美映は貴司に休みを取ってもらい、6月7日(金)、一緒に市立病院に連れて来た。ところがこの病院でも緩菜の性別は分からないと言われ、結局、大学病院を紹介されたので、週明けの6月10日(月)、再度貴司に休みを取ってもらってそこに連れて行った。
すると再度染色体検査をし、MRIなども取った上で医師は言った。
「間違いなく男の子ですよ。停留睾丸ですね。陰嚢が左右合体していなくて陰裂のように見えるのも、尿道下裂ではわりと普通にある症状なので大きな問題はありません。おそらくその停留睾丸で睾丸の活動が鈍い(にぶい)のでペニスの発達も遅れているし、陰嚢も別れたままなのでしょう。3〜4歳になったら自然に下に降りてくると思いますし、そうすればペニスも発達すると思いますので、それを待つ手もありますが、手術する手もあります」
「手術するって、睾丸を取るんですか?」
と貴司は尋ねた。
美映が頭に手をやっている。
「えっと・・・睾丸を取ることを希望するのであれば考慮しますが、普通は睾丸を体内から引き出して陰嚢に縫い付けるんですよ。睾丸は体内にあって高温状態にあると活動できないので皮膚のそばに固定することで、活動が促進され、ペニスの発達も促されると思います」
「ああ、なるほど」
「では手術を希望しますか?」
貴司は美映と視線を交わし、頷き合う。
「それでは手術お願いします」
「睾丸を取る手術にします?皮膚のそばに固定する手術にします?」
「固定する方法で」
「その場合に当病院では、陰嚢内にシリコンボールを入れて重しにして陰嚢を伸ばすようにする手法を推奨しているのですが、それもしますか?」
「ああ、睾丸を取ってシリコンボールを入れるんですね?」
「あの〜、本当に睾丸を取りたいのであれば・・・」
美映が確認した。
「睾丸はそのままで、その他にシリコンボールも入れるんですよね?」
「そのつもりでしたが。シリコンボールは半年後に除去しますが」
「その方法でお願いします」
と美映が言った。
緩菜の手術は7月8日(月)に行われた。手術室に運び込まれていく緩菜を見て、美映は
「緩菜、普通に女の子として育ててもいいと思うけどなあ。貴司もむしろ睾丸取ってあげてほしいみたいに言ってたし」
などとつぶやいていた。
30分ほどで手術は終わったようである。病室で回復を待って診断を受けてから念のため一晩様子を見、明日退院ということであった。それで病室に行こうとした時、病院の事務のような人に貴司と美映は呼び止められた。
何か書いてほしい書類があるとかで、それに記入する。それから病室に行き、すやすやと寝ている緩菜の様子を見た。麻酔は部分麻酔(但し眠たくなる薬を併用している)なので2時間もすれば切れるだろうということだった。
貴司は会社から呼ばれて出て行った。顧客から納品について問い合わせが来ているが、分かりそうな人が誰もいないという話だった。先週も似たような話を聞いたが、この会社どうなってんの?などと思う。どうも先月社長が交代してからおかしくなっているようだ。
緩菜は麻酔が切れたら痛がるかな?と心配したが、どうも平気そうである。男の子みたいなお股になっちゃったのかなぁ?とちょっと残念な気持ちになった美映は、勝手に見ちゃいけないかなあ、などと思いながらも包帯をほどいて、お股を見てみた。
「何も変わってない気がする」
とつぶやく。
普通に女の子にしか見えないお股である。触ってみるが睾丸らしきものもない。
そもそも手術したような跡とか見当たらないんですけど!?
若い母親は、前橋からベビーカーごと赤ちゃんを受け取り、
「ありがとうございます」
と御礼を言った。
「今麻酔が効いていますが、1時間もすれば切れて少し痛がると思います。もしあまり泣くようでしたら、この鎮静剤を飲ませてください」
と言って薬も渡す。
「それで手術代は先日も言いましたように、新しい手術法の治験ということで無料ですので」
「助かります。ありがとうございました」
「半年後に、今回挿入したシリコンボールを除去する手術をしますので」
「シリコンボールを除去するんですね?睾丸ではなくて」
「あのぉ、シリコンボールを残して、睾丸の方を除去した方がよければ考慮しますが」
「どうしよう?半年後までに考えておいていいですか?」
「そうですね。その場合は申し出て下さい」
と前橋善枝は笑顔で若い母親に言った。
まあ、“間違う”ことはあるよね〜、などと前橋は考えていた。この日も赤ちゃんは可愛いピンクの服を着ており、母親が実際女の子に準じた扱いをしているのは明白である。
美映は緩菜に御飯を食べさせ、サービスで冷凍室から搾乳ボトルを取り出して解凍したものを哺乳瓶で飲ませて、緩菜が眠ったのを見て、部屋の掃除をした。そしてつぶやいていた。
「緩菜ちゃん、男の子みたいな形にされなくて、良かったね〜」
水泳世界選手権に参加している青葉。
7月21日は400m自由形であるが、昼間に予選、夕方に決勝と1日で実施する。予選は5組あり、上位の人ほど遅い組の中心付近レーンで泳げるように組み分けがされている。青葉とジャネは事前ランキングで6位(同タイム)だったので、青葉が4組目の第6レーン、ジャネは5組目の第3レーンに割り当てられていた。
決勝に進むためにはタイムで8位以内に入らなければならない。つまり春の日本選手権で出したのと似たようなタイムで入らないと決勝に進めない。要するにこの予選は手抜きが許されず、自分の全力を越えるくらいの速度で泳ぐ必要がある。
しかし青葉は先日南米から戻った後の昂揚した気分がずっと継続していた。結果、青葉は4:05.17の予選4位という好タイムで、ついでにこれは日本新記録であった。ジャネも何とか8位に入り、2人とも決勝に進出することができた。
レースが終わってから「お昼食べに行きましょう」とジャネを誘ったのだが、彼女は青葉の声が聞こえないかのように目を瞑って集中していた。
青葉は昼食後、会場の控室で毛布をかぶって眠っていた。そして20時半に女子400m自由形決勝は行われた。青葉は6コース、ジャネは8コースである。
号砲とともに飛び込んでスタートするが「速い!」と思った。予選は結構遅い人も混じっていたので、そんなに“速度”を感じなかったのだが、決勝は凄い。こちらが自転車で走っているのに、みんなバイクで走っているかのような感覚である。必死に泳ぐ。しかしどんどん両側の選手に離されていく。
これはとんでもない世界だと青葉は思った。
ゴールにタッチする。
計時を見る。
1.Blumenfield 3:58.76 OC
2.Sherman 3:59.97
3.Greenwood 4:01.29
4.Hatayama 4:03.98 NR
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7.Kawakami 4:05.01
青葉は予選より速いタイムだが7位だった。そしてジャネが青葉より速い日本新記録で4位に入った。これで青葉の日本記録はわずか8時間ほどでジャネに破られ、ジャネが400m自由形の日本記録保持者となった。
青葉は退水してからすぐジャネに「日本新記録おめでとうございます」と声を掛けたが「メダル狙ってたんだけどねぇ」と悔しそうに言っていた。
しかしやはり世界トップレベルは凄いと思った。ジャネは4位とはいっても銅メダルの人との差は2.69秒で、距離に直せば4.5mもあるのである。
「そういえば東京オリンピックの選手選考ってどうなるんでしたっけ?」
と夕食の席で青葉は訊いた。
青葉としてはできるだけ代表に選ばれたくない!という気持ちである。
ジャネはこう答えた。
「まだ日本水連の見解が出てないんだけど、FINAは OQT - Olympic Qualifying Time, OST - Olympic Selection Time というのを設定している。OQT が基本的にはオリンピックに出しても恥ずかしくないタイム、 OSTは最低このくらいでは泳いでもらわないと、進行上の問題が生じるというタイム」
「へー」
「基本的にはOSTを突破している人なら各国2人まで選んでいいんだけど、この2人がどちらも OQT を突破している場合は枠が拡大されて OST を突破している人ならあと1人加えてもいい」
「速い人がいれば拡大されるっていいですね」
「OQT, OST を適用するのは、世界選手権、各大陸選手権およびその予選大会、各国の選手権およびその予備選、あるいは FINA主催の大会で、2019年3月1日から、2020年6月29日までに行われたもの」
「期間が長いですね」
「でもたぶん日本水連は来年春の日本選手権で一発選考するのではないかという気がする。ものすごく優秀な記録を出した人は別として」
「ああ」
「だったら、この世界選手権の記録は気にしなくてもいいですね」
と青葉が言うと
「世界新記録とか出したら別という気がするけどね」
とジャネは答える。
「私、それ狙っていきたいなあ」
と金堂さんは言っている。
「うん。頑張れ頑張れ。来年春の日本選手権では、今回来ていない南野・永井も頑張るだろうし、竹下(リル)も来るよ。ハイレベルな争いになると思う」
とジャネ。
だったら安心かなあと青葉は思った。リルちゃんは見る度に速くなっている。きっと私を追い越してくれる!
そんな青葉の顔を見ながらジャネは言った。
「もっとも OQT は日本水連の派遣2記録より遅い」
「うっ」
(↓は2019.9時点でのタイム)
レベル_OST______OQT______派遣2
400自_ _4:15.34 _4:07.90 _4:07.10
800自_ _8:48.76 _8:33.36 _8:29.70
1500自 17:01.80 16:32.54 16:02.75
400iM_ _4:46.89 _4:38.53 _4:38.53
「日本水連としてはオリンピックに参加してもいいよ、という程度のタイムでは困るということだよね。最低でも決勝進出できるレベル。派遣2記録というのはその決勝進出ラインとして日本水連が想定したタイム。派遣1はメダルが取れるタイム、派遣Sは金メダルが取れるタイム」
「金メダルかぁ・・・」
「まあここにいる3人は、みんな派遣2は突破しているからFINAが指定した条件は満たしているんだけどね」
「南野・永井・竹下まで含めた6人で各々の競技の2人か3人の枠を争う訳ですね」
「まあ、ゆるゆると頑張ろうよ」
とジャネはボーイにステーキのお代わりを頼んでから言った。
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