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そこでケイはこの体育館の借り主!である千里に連絡した。これが7月20日の夕方で、アルゼンチンは12時間の時差があるので、同日の朝である。千里は朝御飯を食べている時にこの電話を受けた。
「だったら女装ラボを開けよう」
「女装??」
「ちがった。女装じゃなくて常総。アルファベットで書くとどちらもjosoだけどね」
「えっと・・・」
「茨城県常総市に、私が所有している体育館があるんだよ。狭いけど。しばらくそこを使ってもらおう」
「そこまでの交通手段は?」
「うーん。。。マイクロバスとかで運ぶかなあ」
「誰が運転するの?」
「バス業者から運転手付きで借りよう。管財人が決まるまでどのくらい掛かるかな?」
「今不渡りを2日連続で出したばかりなんだよ。この後、どういう処理になるかは分からないけど、ここ10年ほどひたすら赤字が続いているし、本店の建物もかなり老朽化しているから、再建は困難な情勢。破産して精算ということになる可能性が高いと言われているみたい。そうなった場合に破産管財人が任命されるまでたぶん3ヶ月くらいだと思う」
「だったら、3ヶ月程度、バスを借りようよ。費用は折半しない?」
「うん。それでいい」
「だったら、細かいことは私の弁護士の白金さんにやってもらうようにするよ。今から連絡するけど、冬、白金さんの電話番号知ってたっけ?」
「ううん」
「じゃ伝えるね」
と言って、千里はケイに白金さんの電話番号とメールアドレスを連絡した。ケイも自分の弁護士・岩波さんの電話番号とアドレスを伝えた。それでこの件はこの後、白金・岩波の両弁護士によって作業が進められた。
『時のどこかで』の撮影は、7月8日夕方から始まり7月19日までは都内のスタジオで行われたのだが、20日に多くの中学高校が終業式を終え夏休みに入るので、制作委員会では、このあとはスタッフ・出演者が、撮影用に借りていた埼玉県内の廃校に泊まり込み、7月31日まで撮影を続けることになっていた。校内に男女別の宿泊エリアを設定し、万一の性的トラブルが起きないよう、女性エリアの出入口には警備員にも座ってもらった。男性の俳優が女装!で入り込んだりしないよう、女性にはIDカードを配布してゲートまで作った。(アクアと葉月は特別室!)
なお泊まり込み体制にするのは、あくまで通勤時間の負荷を減らすためであり、中高生の役者さんたちの勤務時間は週40時間を越えないように管理する。それで大和映像企画の労務管理部の人が一緒に泊まり込んで目を光らせることになった。全員のタイムカードを管理して、絶対に違反が無いようにする。タイムカードで10時間以内の撮影にしなければならないので実質撮影可能な時間は9時間半ほどになる。
アクアは日中は他の人と絡む部分の撮影を進め、主として夜10時以降にたくさんアフレコをした。ボディダブルを使用して撮影した所は、葉月、ハナちゃん、ロンド、利美の声が入っているので、その部分をアクアの声に差し替えていく。
元原マミ(神谷真理子役)・黒山明(ケンソゴル役)の2人は日中にアフレコ作業をするのだが、労働法に縛られないアクアと19歳の広原剛志(浅倉吾朗役)は主として深夜にこの作業をしていた。
そういう訳で、アクアは20日の午後に撮影現場に入ってから21,22日とフルに仕事をして、さすがに「きついー」と思った。
22日の深夜アフレコ作業を終えてから、鱒渕が運転するマジェスタに乗って越後湯沢へ移動した。むろんアクアは道中ずっと後部座席で寝ていた。
翌日7月23日、アクアは苗場ロックフェスティバルの会場に立った。エレメントガードおよびサポート・ミュージシャンとして、羽藤玲香と米本愛心も来ている。他に信濃町ガールズのメンバーが6人来ていて、彼女たちとおしゃべりしているとアクアも少し疲れが取れるような気分だった。
11時。アクアは3万5千人の観衆の前に立った。昨年観客が興奮してステージになだれ込む騒ぎがあったので、今年はアクアの時だけ会場にロープが張られ、ブロック指定になっている。警備員も1000人体制である。
今日のアクアの衣装は青い半袖のジャージに白いハーフパンツ。ジャージにはJAPANの文字もあり、オリンピックを意識している。
最初にキーボード3台(ハル・レイア・アコ)が奏でる未来的なサウンドに乗せて『エメラルドの太陽』を歌うが、初公開のこの歌の歌詞を聞いて、観客はかなり戸惑っているようだった。この改変版はオリジナルに比べると随分マイルドなのだが!(マリがわざわざアクアにオリジナル歌詞をメールしてきたがさすがにこれは公開できないとアクアも思った)
その後、『ナイスなナースになるっす』を歌っている内に一瞬クラッと来たが、ここは頑張る。『テレパシー恋争』を歌っている内に足の感覚があやふやになる。
あれ?ボクちゃんと立っているのかな?でも頑張らなきゃ。何万人もの人がボクの歌を聴きに来ているんだもん。それで身体の感覚が少しずつ遠くなりながらも頑張って歌う。手が動かなくなる。マイクをスタンドに取り付ける。そしてスタンドマイクの状態で何とか必死に歌う。物凄い声援がアクアを勇気付ける。
負けるもんか。
と思ったところで意識が一瞬途切れた。
気が付くとコスモス社長の顔があり
「あ、良かった。気が付いた」
という声。
「龍ちゃん、演奏を中止して休もう」
と社長が言う。アクアは「あ、自分は気を失ったのかな」と思ったのだが、中止するのはお客さんに申し訳無い。ボクの歌を聞くために何万円もするチケット買ってくれた人もいるんだもん。
「5分くらい休ませて下さい。それからまた歌います」
「分かった」
それでコスモスが観客に向かって5分だけ休ませて欲しいと言うと大きな拍手がある。ボディガード・荷物運び兼任で来ていた川井唯がアクアを抱えてステージを降りて控室に入る。ステージ上では川崎ゆりこが「アクアが休んでいる間に」と言って1曲歌ってくれることになった。
アクアは頭を高くして寝せられ、スポーツドリンクをもらって飲む。そこに頼もしい顔が近づいて来た。
「青葉先生!?」
青葉はアクアがかなり汗を掻いているのを見て
「すぐ着換えさせて」
と言ったので、川井唯が
「私が着換えさせてきます」
と言って、アクアを抱いて更衣室に連れて行き、下着を交換、予備の衣装に着換えさせてからまた抱いて連れてきた。
ここで青葉は、アクアは男の子なのに周囲が女性ばかりだから、“男性の”スタッフが連れて行って着換えさせたと思っている。しかしレイアなどはアクアは実は女の子なのに周囲に男性のスタッフも何人かいるので、女性である唯がアクアを更衣室に連れて行って着換えさせたと思った。
180cmで短髪の唯はふつうに男に見える!
でもこのあたりは些細な問題である!
着換えさせたことで、アクアの体温が少し上昇したようである。
青葉がアクアの手を左手で握る。エネルギーを注入する。青ざめた顔をしていたアクアにどんどん血の気が戻って来る。
5分ほどしたところでアクアは起き上がった。
「ボク行かなきゃ」
「大丈夫?」
ステージでは川崎ゆりこが歌を歌い終えた後、そのままおしゃべりをしている。観客がドッと笑ったりしている。
「座って歌わせましょう」
とケイが提案した。
「よし、それでいこう」
結局椅子を2つステージ前方に並べ、アクアと青葉が出て行く。アクアがマイクを持ち、演奏の中断を詫びた上で、よかったらこの後、座って歌いたいと言うと大きな拍手がある。「アクアちゃん無理しないで!」などといったアクアを気遣う声もある。それでアクアとフルートを持った青葉が椅子に座り、演奏を再開した。
青葉が隣に座ったのは、そばに青葉がいればアクア自身心強いということと、実際に青葉はアクアの至近距離に居て、自らフルートを吹きながら、アクアにパワーを供給してあげるつもりでいる。もちろんそのエネルギー源は千里である!(南米の千里は夜中で休んでいるので、充分なパワーのゆとりがあった)
それでアクアは何とか最後まで歌いきったが、演奏終了後、控室でずっと寝ていて、青葉のヒーリングを受けていた。
その間にアクアの演奏に関わる機材はどんどん搬出される。次の出番のレインボウ・フルート・バンズのフェイが顔を出して、
「アクアちゃん、倒れたって?」
などと言っている。性別のはっきりしないフェイだが、今日は膝丈のプリーツスカートを穿いている。
「すみませーん。あと少し休んだら立てると思いますので」
とアクアは謝る。
「いいよ、いいよ。寝てて。そうだ、元気になるドリンクあげるよ」
と言ってクーラーバッグに入っていたドリンクを開封して差し出す。
「ありがとうございます」
と言ってアクアは飲み干してから
「あれ?このドリンク前にも飲んだことがある」
と言って、いつ飲んだのか必死で思い出す。
「ああ、やはりこれいつも飲んでるのね。ボクもこれ常備品なんだよね」
とフェイ。
それでアクアは瓶に書いてある文字を見て気付いた。
「これ以前丸山アイさんにもらった女性ホルモンドリンクだ!」
「アクアちゃん、去勢しているんだからちゃんと女性ホルモン補充していないとパワーが出ないよ」
「ボク去勢してませーん」
「このメンツの前で隠さなくてもいいのに」
青葉以外は全員苦笑していた。
アクアはライブ終了後30分くらいしてやっと起き上がり、女装!?してスタッフの制服を着て、★★情報サービスの鶴見社長の運転する軽トラで会場を脱出。鱒渕が運転するクラウン・マジェスタに乗り換えコスモスも一緒に高崎に向かった。
高崎で『エメラルドの太陽/もっとオブリガード』の音源製作をする予定である。アクアはマジェスタの後部座席でひたすら眠っていた(コスモスは助手席)。
途中連絡して病院に寄り、医師の診察を受けてブドウ糖の注射を打ってもらった。医師は18時までは休ませるよう厳命した。
高崎のスタジオに着いたのは15時半頃である。その間アクアはひたすら車内で眠っていた。そのおかげで少しは元気が出たので食事をする。更にベッドで休ませて、医師の指示通り18時になってから制作を始めた。
最初は『もっとオブリガード』から始める。軽快なボサノヴァのナンバーなので、アクアも気持ち良く歌うことができた。これを1時間ほどで仕上げる。
更に1時間仮眠させる。
そして20時頃から『エメラルドの太陽』の歌唱に入る。台湾のSFMSで作ってもらった音源を流しながら歌う。
さすがにアクアも疲れているので、最初はやや浮ついたような歌唱になってしまった。
「御免なさい、リテイクですよね」
とアクアは言ったが
「いや、今の歌唱が良かった気がする」
と今日の制作を指揮している雨宮三森は言った。本来は毛利がするはずだったのが、彼は三つ葉の件で忙殺されているのである。
「雨宮先生、アクアにステーキか焼き肉でも食べさせてからリテイクしてみましょう」
と奥原沙妃が言う。
「じゃ、あんたバンドメンバーとアクアと連れて何か食べてきて。私は少し寝てる」
と言って雨宮が寝てしまったので、奥原は寝ている雨宮とコスモス以外のみんなを連れて、胃に負担が少ないだろうということで、しゃぶしゃぶに行った。なおスタジオには技術者さんたちも居るのでコスモスが雨宮に襲われる恐れは無い!
それでアクアたちはお腹いっぱい食べてからスタジオに戻る。スタジオでは雨宮がまだ眠っている。コスモスは起きていた。それで奥原の指揮で制作を再開する。アクアは今度はかなり力強い歌い方をした。この状態で3回歌わせて、2番目の歌唱が最も良かった。
ここで雨宮が目を覚ます。時刻は22時前である。それと前後して応援に長尾泰華がスタジオを訪問した。雨宮が寝ている間に録音したものの中でいちばん良かったものを流す。
「最初に録ったやつを再度流して」
と雨宮。
それで20時頃の録音も流す。
「泰華はどう思う?」
「後から流したやつですね」
「ということで20時頃、最初に録音したものを採用しよう」
これでアクアの歌唱は確定した。この後のミックスダウン・マスタリングにはアクアは必要ないので、コスモスがタクシーでアクアと一緒に高崎市内のホテルに行った。マジェスタは明日の朝、鱒渕にホテルまで持って来てもらう。
「あれ?撮影やってる廃校に戻らなくていいんですか?」
とアクアが尋ねる。
「アクアが歌唱中に倒れたから少し休ませて欲しいと言って、監督と交渉して、今日は高崎で休んでいいことになった。明日の昼までに向こうに行く」
とコスモス。
「分かりました」
「ぐっすり眠れるように、セックスさせてあげようか?」
「社長、ボクがそんなのできないこと知っているくせに」
「まあ、今夜はお互い疲れているし、何もしないで寝ようか」
「はい」
ホテルには伊藤宏美・龍子、と姉妹ででもあるかのように記帳し、2人は同じ部屋に入った。
むろんダブルではなくツインの部屋である。
「私は寝るね。龍ちゃん、シャワー浴びてから寝る?」
「いえ。私も先に寝ます」
「じゃおやすみ」
それでこの夜はアクアはコスモスと一緒の部屋に寝たものの、むろん何も変なことはしなかった。
アクアはコスモスさんと一緒に寝たのは、北斗星の寝台で寝た時以来だなと考えていた。
7月24日、千里たち日本女子代表はアルゼンチンのブエノスアイレスからブラジルのサンパウロに移動した。オリンピックはブラジルのリオデジャネイロで行われる。