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■夏の日の想い出・影武者(8)
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目次 8
時間索引 #
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「あ、青葉先生」
とアクアが声を出す。
青葉はアクアがかなり汗を掻いているのを見て
「すぐ着替えさせて下さい」
と言った。それでジャージとアンダーシャツを脱がせ、代わりのシャツと予備のジャージを着せる。
「そのまま寝てて」
「はい」
青葉はアクアの手を取った。そしてヒーリングすると青白い顔をしていたアクアがみるみると顔に血の気が差してきた。
「凄い」
とそばで見ている事務所の後輩・姫路スピカが言う。スピカはアクアと同じ衣装を着ている。恐らくは退場する時の影武者を務める予定なのだろう。
やがて川崎ゆりこの歌が終わる。ゆりこはそのままトークをしている。彼女はトークがうまいので、恐らく4〜5分は場をもたせてくれるだろう。
ゆりこのトークが始まってから1分ほど経った時、アクアが起き上がった。
「ボク、行かなきゃ」
と言う。
「大丈夫?」
とコスモスが心配するが
「行きます」
と決意を秘めたように言って立ち上がる。一瞬ふらっとしたものの、その後は何とか立っている。
「座って歌わせましょう」
と私は提案した。
「その方がいいかも」
と三田原課長も言った。
ゆりこが即興のコントで笑いを取っていた時、アクアが青葉と一緒に出てきた。男性スタッフが椅子を2つ持ってきている。
拍手が湧き起こる。
アクアがゆりこからマイクをもらってアナウンスする。
「大変申し訳ありませんでした。もう元気になりました。でも社長が心配してこのあと座って演奏したら?というので、観客の皆さん立っているのに申し訳無いのですが、そうさせて頂きます」
とアクアが言うと、また会場から暖かい拍手がある。
「こちらは大宮万葉先生です。私に多数の楽曲を提供してくださっています。残りの時間、私のそばでフルートを吹いて下さるそうです」
とアクアが青葉を紹介する。
これにも拍手があった。
実際問題として、青葉はこのあとずっとアクアのそばにいて、自分でも演奏しながらアクアのヒーリングを続けるつもりなのである。
なお、このフルートは青葉が練習しようと思って偶然にもバッグに入れておいたものらしい。
「では演奏を再開します。曲目はその大宮先生から頂いた『眠る少年』。今私、5分ほど眠ってたんですけど」
とアクアが言うと、会場は笑いに包まれた。
アクアと青葉が椅子に座る。スタッフさんが青葉のフルートにピックアップをつけてくれた。ちょっと音を出してと言われて青葉が少し吹く。これでPAの調整をするのだろう。OKのサインを出している。
アクアが挨拶している内にこの作業をしても良かったはずだが、わざわざ終わるまで待ってからしたのは、少しでもアクアを休ませるためである。
青葉がフルートを構えてヤコとアイコンタクトした。エレメントガードの伴奏が始まり、アクアが歌い始める。青葉のフルートがそれに彩りを添える。
アクアは今倒れたばかりとは思えない、しっかりした声で歌っている。体調が万全な筈は無い。おそらくは青葉がそばについてパワーを注入しているがゆえにできる歌唱だろう。
しかしトラブルが起きたおかげでかえって会場はアクアを応援する雰囲気になっている。この3万人の観客のうち、元々のアクアファンはたぶん5千人くらいで、残りはついでだから話題のアクアを見ておこうという程度の観客だったろう。しかし今そういう観客がみなアクアのファンになったのではないかと私は思った。
こういうトラブルを味方につけることができるのがスターである。
次の曲は『想い出海岸』であった。この曲は東郷誠一作詞作曲ということになっているのだが、実際には葵照子(蓮菜)の歌詞に青葉が曲をつけたものである。その作曲家自身のフルートをフィーチャーしてアクアは熱唱を続ける。
ん?
私は何かを感じて天井を見上げた。スピカもやはり上を見ている。
「何か来てますよね?」
とアクアのマネージャー鱒渕さんが言う。
「うん。たぶん龍か何かが来てる」
と私は言った。
「龍が来てるの?」
と言ってコスモスも上を見たが、コスモスはこういうのはあまり分からないようであった。
「この曲を書いた時、大宮万葉は龍を見たと言っていたから」
と私は言う。
「アクアちゃん、小さい頃に龍に乗ったことあると言ってましたよ」
と鱒淵。
「へー。私も乗ってみたいですー」
とスピカが言っている。
「やはり、子供ってあちらの世界に通じてるんでしょうね」
とコスモス。
「そうだと思います。人間はあちらの世界から来て、あちらの世界に逝くんですよ」
と私は語った。
アクアはそのあと、元気に歌唱を続け、やがて最後の曲、秋からの連続ドラマのエンディングテーマ『夢のかけら』を歌った。マリ&ケイの作品。北海道のラベンダー畑のそばで、桜川陽子(少女X)のお姉さんの話を聞いた時に書いた作品のひとつである。
会場に設けられている大きな電光時計が12:00を指し示すのとほぼ同時にアクアの演奏は終了した。物凄い拍手と歓声がある。アクアは椅子から立ち上がり、会場に向かって深くお辞儀した。
そして、青葉と握手して退場しようとした時、観客から「アンコール!!」という声が掛かる。
そしてアンコールを求める拍手も起きる。
アクアはどうしよう?と戸惑っている。
ヘッドライナーをはじめとして各ステージでその日最後に演奏するアーティストはアンコールをしてもよいのだが、それ以外のアーティストは進行スケジュールが狂うのでアンコールはしないのが普通である。
コスモスが主催会社のスタッフさんを見る。
「1曲だけならいいですよ。その分(ぶん)のずれは何とかします」
とスタッフさんが言った。
コスモスがステージへの階段を駆け上がる。
コスモスはアクアのそばまで寄り、アクアのマイクを借りて言った。
「1曲だけならやってもよいそうです」
会場全体から物凄い拍手がある。
ヤコが寄ってくる。
「何を演奏しますか?」
とヤコが訊く。
「だったら、ボクが歌えなくて(川崎ゆりこ)副社長に歌ってもらった『ぼくのコーヒーカップ』を」
とアクア。
「よし。それ行こう」
とコスモス。
それでヤコが小走りにバンドメンバーの所に行き曲目を伝達する。
伴奏が始まる。青葉はフルートを置いて手拍子をしている。コスモスも手拍子をする。会場も一体となって手拍子をする。アクアが『ぼくのコーヒーカップ』を歌い出す。
この曲はとても可愛い曲で、スーパーアイドルのアクアにはぴったりの曲である。
この曲はマリ&ケイのクレジットになっているのだが、本当に書いたのは千里である。全くアクアの楽曲は名義が複雑である!
私もゆりこも、ステージ脇で手拍子を打っていた。
アクアのステージは歓喜と興奮の中で終了した。
アクアが何度も何度も観客にお辞儀してからステージを降りる。すぐにアクアのマネージャー・鱒渕さんと姫路スピカが楽屋の後ろに停めている軽自動車に乗り込む。車が出発する。
すると会場の周辺で待機していたアクアのファンと思われる人たちがその車を追うように走っていった。
一方、ステージから降りてきたアクアはそのまま倒れた。青葉が手を取ってヒーリングをする。
「大丈夫?」
とコスモスがのぞき込む。
「大丈夫です。立てないだけで意識はしっかりしてます」
と本人が言う。
「今日、レコーディングもするんでしょう?大丈夫ですか?」
と私は訊いたが
「1時間も寝たら大丈夫だと思います。高崎までの間寝てていいですよね?」
とアクアは言っている。
「うん。寝てなさい」
とコスモスは言った。
アクアはその場で20分くらい横になって青葉のヒーリングを受けていた。このヒーリングでアクアはかなり元気になった。
医師も来てくれ、脈や体温・血圧を確認し、聴診器も当てていたが
「疲れが出ただけでしょう。大丈夫ですよ」
と言ってくれた。
既にアクアの演奏スタッフはコスモス・三田原課長・青葉・私以外全て退出している。次の出番のレインボウ・フルート・バンズのメンバーで青葉も「性別が分からない」と言っていたフェイちゃんが顔を出して
「アクアちゃん倒れたって聞いたけど大丈夫?」
と言っていた。フェイは今日は膝丈のプリーツスカートを穿いている。上は体型が分からないようにするためか、だぼだぼのポロシャツである。
アクアは笑顔で
「すみませーん。もうすぐ立てるようになると思いますから」
と答えていた。
「これ元気になるドリンク。飲むといいよ」
と自分のバッグの中から栄養ドリンクのような感じの小瓶を取り出して渡す。
「ありがとうございます。頂きます」
と言ってアクアは飲んでいたが、変な顔をする。
「これ前にもどこかで飲んだことがある」
と言う。
「ああ、やはりこの手の飲んでるんだ?」
とフェイ。
アクアはドリンクの外に書いてあるタイ文字?を見ていたが
「あ〜!これ以前丸山アイさんにもらった女性ホルモンドリンクだ!」
とアクアが言う。
「ホルモンバランスが崩れると倒れやすいからさ。特に去勢している人は女性ホルモンはサボらずにちゃんと飲んでおいた方がいいよ」
とフェイが言っている。
「ボク、去勢もしてないし、女性ホルモンも飲んでません」
とアクア。
「このメンツの前でわざわざ嘘をつかなくても大丈夫だよ。アクアちゃん、身体の線が丸みを帯びていて、思春期初期の女の子のボディラインだもん。もっとしっかり女性ホルモン飲んでいれば、もっと女らしくなっていくよ」
などとフェイは言っている。
青葉が困ったような顔をしていたが、私もコスモスも笑いをかみ殺すのに苦労していた。
12:30くらいになってアクアは起き上がり、作業スタッフのTシャツを着て、ウィッグを付け膝丈スカートを穿いて、女性スタッフのような格好をした。
こちらでコスモスとしばらくおしゃべりしていたフェイが
「そんな服でも可愛い。やはり、アクアちゃん女の子の格好が似合うね」
と褒めている。
「性転換手術はやはり中学卒業してからするの?」
「性転換はしません」
「でも女の子になりたいんでしょ?」
「別に女の子にはなりたくないですー」
「まあ焦って手術する必要は無いけどね。モニカみたいに小学生の内に性転換しちゃったというのは異常だよ」
「モニカさん、そんなに早く性転換したんですか?」
「でもボク、アクアちゃんもデビュー前に性転換していたものと思ってた」
「ああ、世間ではそう思っている人も多いよね」
と私も言っておいた。
アクアは、会場のブロックを作るのに使った杭やロープを乗せた軽トラの助手席に乗って会場を脱出した。運転したのは★★情報サービスの鶴見社長である。染宮専務は過去にローズ+リリーやKARIONの移動に度々関わっていて、結構「面が割れている」のだが、鶴見社長は、ふだん裏方に徹しているのであまり一般には知られていない。それでこういうお仕事には最適であった。
アクアと鶴見さんはその後、会場の駐車場でクラウン・マジェスタに乗り換えて高崎に向かった。
私と青葉はコスモス・三田原課長と握手してから、花野子と連絡を取り、そちらと合流するため、屋台村の方に移動した。政子と美空が楽しそうにあれこれ買って食べているのを花野子と梨乃で半ば呆れ気味に見ているらしい。
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