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(C)Eriko Kawaguchi 2018-10-12
龍虎はその日、親友の南川彩佳が出場する子供囲碁大会を見学に行くことにしていた。龍虎自身は彩佳に色々教えられて、“二眼を作った地は取られないこと”と、序盤の布石の打ち方(小目打ち:初心者は星では辛い)、それに多少の簡単な定石を覚えているくらいである。彩佳によれば“30級程度”という話だ。しかし彩佳は結構強いらしく、春の市内子供囲碁大会ではBEST8まで進出したらしい。
今回は埼玉県大里・児玉地区(*1)の大会で、春の大会と直接の関係は無いものの、春よりレベルの高い大会らしい。
「彩佳、何着ていくの?」
と同様に見学に行くことになった桐絵が尋ねる。
「振袖着ていくことになってしまった」
と彩佳。
「すごーい!彩佳、振袖なんて持ってるんだ?」
「従姉が小学生の頃に何度か着た着物らしい。小振袖といって、普通の振袖よりは袖丈が短いんだよ。普通の振袖を私の身長で着ると、袖を地面に引きずってしまう」
「なるほどー」
その話を聞いて龍虎は、そういえば小さい頃に振袖を着て民謡の大会に出たことがあったなぁというのを思い出していた。あの振袖頂いたけど、どこにしまってたっけ?などと思う。
「私たちは普通の服でいいんだよね?」
と桐絵。
「うん。普通の洋服でいいよ」
と彩佳は言ったが、龍虎の表情を不思議そうな顔で眺めていた。
(*1)埼玉県は伝統的には下記の9郡(地区)に分けられる(最近これとは別の10地域方式の分類も行われ始めている)。
(↑平成大合併前の自治体境界による地域区分)
東側に北葛飾郡・南埼玉郡・北足立郡。
西側に秩父郡、中央に比企郡、その南に入間郡。
北側に東から北埼玉郡・大里郡・児玉郡。
龍虎が住む熊谷市は大里郡、西湖が住む桶川市は北足立郡である。
2020年頃には亜矢芽と翔和が熊谷、千里と由美・緩菜・早月が浦和、波留と幸祐が久喜に住み、康子はその3ヶ所のどこにでも短時間で移動できる桶川に住むようになる。桶川から見ると熊谷は北西20km, 浦和は南東20km, 久喜は北東12km になる。なお康子のもうひとりの孫である奏音は富山県高岡市に住む。
2012年9月29日〜10月3日。岐阜県高山市で国体バスケット競技が行われた。今年は成年男子が47都道府県代表だったので(*2)、貴司は大阪代表のメンバーとしてこれに参加した。
しかし1回戦で長野代表に敗れ、初日で帰ってくることになってしまった。今回の代表は大阪のトップチームAL電機の選手が中核で、実際問題として貴司はこの試合であまり使ってもらえず、彼自身としても不満の残る大会となった。
(*2)国体バスケット競技では、成年男子・成年女子・少年男子・少年女子の4つのジャンルの内、どれかひとつだけが47都道府県代表で行い、他の3つはブロック代表(北海道・東北・関東・北信越・東海・近畿・中国・四国・九州の9地区11代表)+開催県の12チームで行われる。
どのジャンルが47都道府県代表になるかは年によって違い、2018年までの大会ではこのようになっている。
少年男子 2007 2010 2014 2018
少年女子 2006 2011 2015
成年男子 2008 2012 2016
成年女子 2009 2013 2017
(2006,2007の所は誤りでは無い。ここだけ順序が逆である)
なお「少年」の部には現在高校生が出場しているが、2019年茨城大会以降はU16の設定になる。つまり2018年時点の高校生は2019以降は成年の部に出なければならない(高校2年でも誕生日前なら出場可能)。結果的に“高校三冠”は2019年以降は発生しないことになるだろう。
貴司は翌日には大阪に戻りMM化学のチームに合流した。大阪のリーグ戦は10月20日(土)から始まる。その前に10月6日からは近畿実業団選手権も始まる。チームは「オールジャパン目指して頑張るぞ!」などといって盛り上がっていた。
しかし貴司はチーム内で練習していて、物足りなさを感じていた。
もっと強い人たちに揉まれたい。
それは今年貴司が初めて日本代表の人たちと一緒に練習をし、外国代表との試合に出て感じたことだった。そしてようやく千里が前々から「もっと強いチームに行くべき」と言っていたことの意味が分かったのである。そうだ。千里は高校3年の時から日本代表に入って強い人たちと一緒にやっていた。そのハイレベルを知っていたから自分にも荒海に揉まれろというのを言ってきたのだ。それを貴司はやっと理解した。
10月6-7日(土日)に近畿実業団選手権は1〜3回戦が行われ、貴司たちのMM化学は1回戦不戦勝、2回戦は快勝したものの、3回戦で兵庫県の強豪に敗れて準決勝に進出できなかった。
この大会は2位までが来年秋の全日本実業団競技大会に進出できたのだが、そちらには行けない。一応来週行われる順位決定戦で7位以内に入れば全日本実業団選手権には行けるのだが、オールジャパンに行くためには選手権ではなく競技大会の上位に入って社会人選手権に行く必要がある。
10月6日(土).
その日龍虎は何だか嫌な予感がしていた。
この日は母が合唱部の大会の引率、父が吹奏楽部の大会の引率で朝早くから出かけていた。龍虎は8時頃になったら適当な服を着て駅まで行こうと思っていた。ところが7時すぎに、唐突に川南がやってくる。
「おーい、龍、元気か?」
といつものように明るい。龍虎はとっても嫌な予感がした。
川南は勝手に鍵を開けて中に上がり込んでくる。
(川南と夏恋はこの家の鍵を持っている。実は彩佳も鍵を持っている!)
「お母さん、お父さんは?」
「ふたりとも部活の引率」
「学校の先生も忙しいなぁ」
「ほんと大変みたい」
「じゃ、龍は私たちと一緒にバスケの試合見に行こうよ」
「バスケ?」
「リンク栃木vsトヨタ自動車アルバルクだぞ。市岡ショーンと田臥勇太の対決が見られるぞ。これ、ゴールドチケットで入手に苦労したんだから」
などと川南は言っているが
「ごめーん。ボク今日は友だちの出る囲碁大会見に行く」
と龍虎は言う。
川南さんに連れて行かれたら、きっとまた女装させられる!と龍虎は思う。用事があって良かった!
「へー。それどこで何時から?」
「えっと・・・10時からだけど。深谷市文化センター」
「何時に終わるの?」
彩佳はお昼過ぎには終わると言っていた気がしたけど、遅めに言っておいたほうがいいだろうと思う。きっとバスケの試合はお昼過ぎくらいからなのではなかろうか。
「たぶん2時くらいかなあ」
「だったら間に合うよ。試合は4時半からだから。深谷から大田区まで1時間半もあれば行くよ」
え〜〜〜!?
(この日のこの試合は本当は16:00からだったのだが、川南は時間を勘違いしている。なお、チケットは直接行くことにしていた夏恋が持っている)
それで結局この日、龍虎は彩佳の囲碁大会を見た後、東京の大田区総合体育館に行ってバスケの試合を見ることになってしまったのである。
「午前中には渋谷あたりで龍にかっあいい服を買ってあげようと思っていたのに」
などと川南は言っている。
どうやら今日は女装は免れるかな?とホッとするとともに、少し惜しい気もした。
「ところで龍虎は何着ていくの?」
「え?普通の服だけど」
「普通の服というと、ワンピースとか、マリンルックとか」
「トレーナーにズボンだよ!」
「それはいけない。やはり龍虎のズボンは全部廃棄して箪笥の中はスカートだけにしなくては」
などと川南は言っている。
「まあ大会に出る子は振袖らしいけどね」
と言ってしまったことを龍虎は後悔することになる。
「振袖か!確か龍も振袖持ってたよな?」
「え?え?」
「確か押し入れに入っていたぞ」
と言って、川南は勝手に脚立を持ってくると、押し入れの上の天袋を開ける。そしてそこから桐の衣裳ケースを取り出した。そこには数枚の浴衣の下に確かに青い振袖が入っていた。
龍虎はそれを見てドキッとした。
こんな所に入っていたのか・・・。
「おお、長襦袢、肌襦袢もあるではないか。これ着よう」
「え〜〜〜!?」
ところがその振袖を着たのはもう4年くらい前のことなので、肌襦袢は入らない。
「入らないから着るのは中止ということで」
「いや、肌襦袢はスリップで代用できる」
と言って、川南は龍虎の部屋の衣裳棚を勝手に開けると、スリップを取り出す。川南はそのスリップを取り出す時に全く迷わずに引き出しを開けた。つまり、どこに何が入っているか把握しているようである!ボクの部屋なのに。
それで結局そのスリップに合うパンティということで、シルク風のきれいなパンティを穿かせられてしまう。それでスリップも着せられて、その上に長襦袢(これは何とか入った)を着せられ、最後に青い振袖を着せられた。
龍虎はドキドキしていた。“青い振袖”には別の想い出があるのだが、そのことを龍虎は人に言ったことがない。この青い振袖は、浦和に住んでいた時に民謡の先生から頂いたものだが、青い振袖を見る度に“ある人”のことを思い出す。それは胸がキュッとなる記憶だ。
振袖の着付けはどうしても時間が掛かる。龍虎は川南に言われて先にトイレに行ってきてから着付けしてもらったのだが、その間に桐絵から電話が掛かってくる。
「ごめーん!ちょっと遅れるから先に行ってて」
と返事しておいた。
きれいに振袖を着せられた所を鏡で見て、ちょっと涙腺が潤う感じである。帯は一緒に入っていたオレンジ色の青海波(せいがいは)模様の帯を締めてもらった。
感動しているふうの龍虎を見て川南は言った。
「龍、この振袖着せたらすごくいい顔になった。この振袖好き?」
龍虎は素直にコクリと頷いた。
「龍、自分で振袖とか着れる?」
龍虎は首を横に振る。
「じゃ今度少し着方を教えてあげようか?」
「うん」
と龍虎は珍しく素直に返事をした。
ともかくも、そういう訳で龍虎は川南に振袖を着せられて一緒にお出かけすることになったのである。
川南の運転するマーチに乗って深谷市文化センターまで行く。
「少し遅くなったかも。駐車場に入れておくから先に入ってて」
と言われて玄関の所でおろしてもらう。
それで中に入って行っていたら
「君、もう登録してる?」
とピンクの振袖を着た24-25歳くらいの女の人から訊かれる。
「あ、いえ。今着いた所で」
と答えながら、登録って何だろう?と思う。
「じゃここにすぐ名前書いて。本当はもう締め切り3分過ぎているよ」
「ごめんなさい」
龍虎はなぜ叱られるのかよく分からなかったが、取り敢えず謝った上で渡された名簿に「熊谷QS小学校5年・田代龍虎」と署名した。
「あなた何級?」
と訊かれる。
「きゅう?」
「囲碁の級数よ。それとも段位持ってる?」
「あ、えっと友人が『あんたは30級』と言ってました」
と龍虎が言うと
「30級かぁ。分かった。じゃ対局場所はこれに表示されるから、表示が出たらそこに行ってね」
と女の人は笑うようにして言い、龍虎に何やら四角い、ディスプレイのある小さな機械を渡した。(ポケベルであるが龍虎はポケベルというもの自体を知らない)
“たいきょく”って何だろう?と思いながら、龍虎は彩佳たちを探してフロアの中を歩き回る。
やがて見つけるので近寄っていく。
「ごめーん。遅くなった」
と龍虎が彩佳と桐絵に声を掛けると、2人はギョッとしている。
「なんか凄い服を着てきている」
「川南さんに着せられたんだよぉ」
「そういうことか!」
と言って、ふたりは笑った。川南がしばしば龍虎に“かぁいい”格好をさせるのは、ふたりにもすっかりおなじみである。
「でも入場するのにも時間制限があったのかな。遅刻とかいって入口の所で叱られちゃった」
「へ?」
「それに入場するのに記名するのね。それで名前を書いたら、これ渡されて、数字が出たらそこに行けと言われたけど、どういう意味だろう?」
と言って龍虎がポケベルを見せると、彩佳は顔をしかめている。桐絵は呆れたような顔をしている。
「龍、それは参加者が持つポケベル」
「え!?」
「つまり龍は今日の大会にエントリーしたということね」
と彩佳。
「え〜〜〜〜!?」
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娘たちの振り返るといるよ(1)