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■娘たちの逃避行(6)

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「これ三宅先生のご本名ですか?」
「うん」
 
そのカードの表面には MS IKUE MIYAKE とプリントされており、カードを裏返すと《三宅行絵》という署名がある。
 
「ちょっと見たら女性の名前にも見えますね」
「まあ僕は戸籍上は女だから」
「え?」
「詳しい話は雨宮から聞いてよ。女性名義のカードを女性に見える鴨乃さんや雨宮が使うのはふつうの場所では問題は起きないと思う」
 
「そうですね」
「あと、君今現金いくら持ってる?」
「60万円ほど」
「じゃ使うかどうか分からないけど、念のためあと40万円預けておくね」
 
と言って千里に札束を渡してくれた。
 
「こんなに預かっていいんですか?」
「これでは片道航空券代にも足りないから、もっと渡してあげたいんだけど100万円までしか海外には現金で持ち出せないから。現地で現金がどうしても必要だったらそのカードでキャッシングして。キャッシングの限度額は1000万円に設定しているから」
 
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「分かりました」
 

三宅さんが自分から聞いたということを新島さんに言わないで欲しいというので、千里は「雨宮先生の居場所が分かったので呼びに行ってきます」とだけメールし、会場を飛び出した。
 
事態が事態なので千里は《こうちゃん》に頼んで『空路!』で千葉市内のアパートまで移動させてもらう。普段着に着替えドイツは寒いかもと思ってコートも用意し、パスポートを持ち、着替えとパソコンを旅行用バッグに詰めて出かける。《こうちゃん》に再び成田空港駅まで運んでもらった。
 
それで千里は19時半には空港に入ることができたが、結果的には《こうちゃん》に運んでもらって助かったのである。
 
この日は何かVIPが到着するとかで空港は厳戒態勢であった。空港のカウンターに辿り着くまで凄い時間が掛かる。しかしその待っている間に三宅先生から連絡があり、シャルル・ド・ゴール空港からハンブルグ空港への乗り継ぎ便も予約したので、そのままトランジットしてということであった。
 
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カウンターで予約していたチケットを購入する。実際にはチケットは三宅さんのカードで既に決済されており、千里は予約番号を伝えるだけで現金などの受け渡し無しで、パリ行き・ハンブルグへの乗り継ぎ便ともに発券してもらうことができた。しかし金額を見ると45万円もする。内心すごー!と思いながらも笑顔で航空券を受け取った。パスポートの番号、名前・生年月日・性別だけ確認された。
 
出国手続きは昨年合宿でオーストラリアに行った時に自動化ゲートを利用できる登録をしていたので、スムーズに通過できる。そしてエールフランスのB777の座席に座ると
 
「おやすみなさーい」
と自分に言ってすやすやと眠ってしまった。
 

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エールフランス機は翌日5/17 4:15(JST 11:15)にパリのシャルル・ド・ゴール空港に到着する。入国手続きは何しろ人が多いのでやや時間が掛かった。千里は復路の航空券を持ってないことを言われないかなと少し心配したのだが、その点は特に言われなかった。何日滞在するかとだけ(フランス語で)訊かれたので「今日帰る予定だが用事に時間がかかったら明日になるかも知れない」とこちらもフランス語で答えると、そのまま通してくれた。
 
入国審査を通ったのがもう5時半すぎであったものの、ハンブルグへの乗継便は8時なので、空港内で朝食を取る余裕もあった。雨宮先生に電話すると
 
「おお、来てくれたか。感謝感謝」
と言われた。
 
しかし雨宮先生に掛けた電話が一発でつながったのって、凄く珍しいことだぞと千里は思った。雨宮先生は既にハンブルグ空港のそばまで来ているらしい。
 
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「お金は全部盗られちゃったんですか?」
「そうなのよ。ここまで来る交通費もちょっと縁のあった人に借りたけど、食事が自由にならないから、パンをちょっと食べただけ」
 
「大変でしたね」
「あんた御飯は?」
「機内食も美味しく頂きましたし、今クロワッサンとカフェオレ頂いてます。さすが本場ですね。美味しいですよ」
 
「私がお腹すかせてるのに良い身分ね」
「食べられる時には食べておくものですよ」
「今度あんたがお腹すかせている時に私は500gのステーキ食べよう」
「そんなに食べたら糖尿になりますよ」
「ありがとう。心配してくれて」
 
ハンブルグ空港に辿り着いたのは10時半である。すぐに電話で連絡を取り合い雨宮先生と落ち合った。先生は現地の人っぽい20代男性と一緒だった。
 
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「ありがとう。助かる」
と言ってから、先生は千里に
 
「あんた今、いくら現金持ってる?」
と訊く。
 
「念のため100万円持って来ましたが」
「この人に5000ユーロ(約65万円)払ってあげて」
「は?」
 
何と、先生がお金を盗まれた時に居たクナイペ(居酒屋)の支払いがまだ済んでなかったらしい。
 
「一体何をやったら、クナイペで5000ユーロも飲むんですか?」
「うーん。みんなにワインおごったりしたからなあ」
 
それで千里は空港内の銀行営業所で90万円をユーロに両替し(約6600ユーロ)、それでクナイペの支払いを済ませ領収書を受け取る。そしてここまでの交通費もこのクナイペの主人の息子さんに借りたらしいので、千里は雨宮先生の分の交通費と、彼の往復交通費、途中の食事代を尋ねた。
 
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「途中で食べた御飯の分はたくさんお店に払ってもらったから、僕のおごりでいいです。交通費は1往復半で294ユーロなんですが」
 
と彼が言うので、千里は
「ではチップ込みで」
 
と言って200ユーロ紙幣を5枚渡した。約9万円のチップを渡したことになる。すると彼は初めて笑顔になり
 
「アリガトウ」
と日本語で言って帰って行った。
 
「ふむ。私が恥を掻かない程度の額のチップを渡してくれたね。いいセンスしてるよ」
と雨宮先生は言うが
 
「既に充分恥を掻いてる気がしますが」
と千里は言った。
 
しかしあっという間に残金は600ユーロ(約8万円)と日本円10万円である。
 

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「でも参った参った。とりあえず飯」
などと先生が言うので空港内のレストランに入り、食事をした。千里も何となくお腹が空いた気がしたので少し食べた。ウィンナーが美味しかった。
 
「あんたドイツは何度も来てるの?」
「ヨーロッパは初めてですね。昨年オーストラリアとインドネシアに行ったのが初めての海外旅行で」
「こちら戸惑わなかった?」
「特には。飛行機自体にはしょっちゅう乗ってますし」
「そうか。北海道だと東京に出てくるのが毎回飛行機だよね?」
「そうなんです。津軽海峡を泳いで渡るのはさすがに無茶だから」
「一度泳いでみない?」
 
「雨宮先生が試してみてください。こちらへはお仕事でいらしてたんですか?」
「うーん。まあ仕事といえば仕事、そうでないといえば」
「ああ、女性歌手か何かとトラブル起こして海外逃亡ですか」
「あんた、ほんっとに遠慮が無いね」
「先生の弟子ですから」
 
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「私に従順なのは毛利だけだな」
「うふふふ。だから毛利さんってみんなに愛されているんですよ」
「まああいつの人徳かな」
 
それで一息ついたところで帰りの便を予約する。カウンターに行って尋ねると、フランクフルトを21:05発の成田行きが取れることが分かる。
 
「ファーストクラス空いてる?」
「申し訳ございません。満席でございます」
「ビジネスは?」
「それでしたら並びの席がお取りできます」
「じゃ、それで」
 
ということでフランクフルトまでの国内便の分を含めて2人分12000ユーロ(約150万円)を三宅さんのカードで支払おうとする。
 
「これはどなたのカードですか?」
と当然訊かれる。
 
「私の妻のカードです」
と雨宮先生は言った。
 
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へ?
 
「あなたは女性ではないのですか?」
「あら。私は男よ」
と言って、雨宮先生は自分のパスポートを見せる。写真は女装で写っているものの性別は M と印刷されている。
 
「失礼しました!」
 
「私のカードが盗難にあったのよ。それで妻のカードを借りるの」
と雨宮先生が言うと、その説明を窓口の人は受け入れてくれた。
 
ということで成田行きの航空券を、雨宮先生の分と千里の分と発券してもらった。
 

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早めの便でフランクフルトに移動して取り敢えずレーマー広場のカフェに入り、ミルクたっぷりのコーヒーにケーキを頼んだ。なおドイツ語ではコーヒーもカフェもどちらも「カフェ」だが、コーヒーは Kaffee, カフェはCafe と綴る。
 
「三宅先生って、雨宮先生の奥さんだったんですか?」
「知らなかったの?」
「はい」
「あんた、私が結婚してることを知ってた」
「でも相手が誰かまでは知りませんでした」
「あんた面白い子ね」
 
と言って雨宮先生はその話をしてくれた。
 
「あいつは高校までは女子制服を着て通学していたのよ。でも大学に入ったのを機に完全に男に移行した」
「そうだったんですか」
「でも男性ホルモンを飲んでいただけで、身体にはメスは入れてない。本当はおっぱいは取りたいみたいだけどね」
「あぁ」
「でもおっぱい取るのはちんちん取るのより痛いらしいよ」
「それ両方体験できる人が居ない気がしますが」
 
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「最初は大学3年生の時だったのよ」
「ワンティスを結成する前ですね」
「うん。うちのバンドとあいつのバンドとで合同でライブの打ち上げしたことがあって、その時何となくあいつと最後まで一緒になってさ、結局私、あいつのアパートに転がり込んだんだよ」
 
「へー」
「私は、あいつは私が男だということを知っていると思っていた。だから男同士だから構わないと思ってた」
 
「向こうは女同士だと思ってたんですね」
「そうそう。あいつは私のこと女だと思ってたから、女の子を泊めるのは別に問題無いと思っていた」
 
「ところが・・・・」
 
「うん。『あんた男なの!?』『嘘。あんた女なの?』と」
 
「で、やっちゃったんですか?」
「あんたもストレートな言い方するねぇ」
「もう女子大生になりましたから」
 
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「まあそれで1回しちゃったけど、お互いの性別のことは口外しないという約束をしたし、その後も特に恋愛関係は続いていなかった」
 
「と雨宮先生は思っておられたんですね」
 
「うん。あいつはずっと私のこと思ってたと後から告白された」
 
「それで結婚なさったんですか」
 
「ワンティスが活動停止した後だよ。結婚してくれと言われた。それで私は言った」
「はい」
 
「指輪無し、同居無し、入籍無し、挙式無し、浮気自由なら結婚してもいいと」
「それ結婚なんですか?」
 
「あいつはそれでもいいと言った。でも最終的に式だけは挙げたんだよ」
「へー!」
 
「双方の親兄弟と、ワンティス関係では支香だけが出席した。実は支香にとって三宅は、唯一の同性メンバーだったんだよ」
 
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「なるほどー!」
「だから支香は元々三宅が女だということを知ってたらしい」
「そうだったんですか」
 
「だから上島もこのことは知らないのさ」
「でも面白い関係ですね」
 
「お互いが夫婦であるという意識を持っているだけ。だから私は浮気はたくさんするけど、誰とも同棲しないし、むろん結婚することはあり得ない」
 
「純愛って気がしますよ」
 
「そうかもねぇ」
と言って雨宮先生は遠くを見るような顔をした。
 

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「じゃおふたりは純粋にお互いが夫婦であるという意識であるだけなんですか?」
と千里は尋ねた。
 
「まあ気が向いたらセックスするよ」
「それってどちらが男役かって訊いてもいいですか?」
「私が男役に決まってるじゃん」
「へー!」
「あいつは男装はするけど男が好きなんだよ。浮気相手も大抵男だよ」
「やはり性ってほんとに人それぞれなんですね」
「まあ私たちは多少変わったカップルかなという気はする」
 
「ホテルとかで落ち合うんですか?」
「そういうこともあるし、お互いの自宅に行くこともある。基本的にお互いに自宅には愛人は連れ込まない」
「面白いですね」
 
「あとは1年に1度、結婚記念日の前後にお互いスケジュールを空けて一緒にどこかに旅行に行く」
 
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「それ素敵だと思います」
「やはり旅に出るとお互いへの気持ちを再確認できるんだよね」
「列車か何かの旅ですか?」
「ううん。だいたいRX-8を使う。RX-8はそれ以外の用途には使わない」
「へー!エンツォフェラーリをお使いになるのかと思いました」
「あれは飾っとくだけ。そもそも目立ち過ぎるんだよ」
「確かに確かに」
「RX-8の後部座席はウレタンを座席の形にカットしたものを敷いてフラット化してるんだよ」
 
「ああ。ご休憩用ですか」
「そうそう。だからRX-8を使う。この種の車の中ではいちばん後部座席が広い」
「面白いですね。いっそアテンザとか使わないんですか?」
「微妙かな」
 

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娘たちの逃避行(6)

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