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■娘たちの収縮(11)

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後に“アクア”としてデビューすることになる龍虎は2001年8月20日14:21に町田市の病院で高岡猛獅・夕香夫妻の子供として生まれたが、産まれてすぐに厚木に住む志水英世・照絵夫妻に預けられた。
 
志水英世は龍虎の父・高岡猛獅の高校時代の2年先輩で、1999年3月に音楽系の大学を出た後、スタジオミュージシャンをしており、しばしば高岡たちのバンド《ワンティス》のサポートミュージシャンもしていた。担当楽器はギターである。
 
照絵は英世より更に2つ上であり、高岡たちより4つ上になる。1990年代前半にはアイドルグループのメンバーとして活動していたが、グループ解散以降はカラオケ屋さんでバイトしながら、アマチュアのガールズバンドをしていた。担当楽器はキーボードまたはドラムスである。1996年頃カラオケ屋さんに来た英世と知り合い、数ヶ月後には同棲状態となる。ふたりは英世が大学を卒業した1999年3月に結婚した。
 
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志水夫妻がどういう理由で龍虎を預かることになったのかは分からない。照絵の記憶によれば、2001年8月上旬に照絵が流産し、その後体調もあまり良くなく精神的にも沈んでいた時(多分2001年の10月頃)に突然、夫が高岡夫妻と龍虎を連れてきて、夫からこの子を俺たちが育てることになったからと言われたらしい。
 
照絵は龍虎の誕生日が自分が流産して間もない時期であったこともあり、流産で失った自分の子供の生まれ変わりのような気がして深い愛情をもって龍虎を育てたし、龍虎を育てることで、精神的にも回復していった。
 
ちなみに照絵は龍虎がとても可愛いし「りゅうこ」と名前を音だけで聞いていたので、最初てっきり女の子と思っており、可愛い服を着せてあげようと女児服をたくさん買ってきた。そしておしめを替えようとした時、初めてお股を見て、ギョッとしたらしい。
 
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なお、高岡夫妻からは毎月結構な額の養育費をもらっていたので、当時の志水家はかなりゆとりのある生活であった。また高岡夫妻は仕事が立て込んでいない限り、週に1度は龍虎を見に来て、5人で団欒の時を過ごしていた。当時照絵はその内、龍虎は向こうに返さなければいけないのではないか?それは嫌だなと思っていたという。
 

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高岡猛獅・夕香夫妻は2003年12月27日AM5時頃、中央自動車道で事故死した。
 
龍虎が2歳4ヶ月の時である。龍虎は両親に関する記憶がほとんど無い。ただ母・夕香が青い振袖を着ていたのを「きれいだなあ」と思って見ていた記憶が微かに残っているだけである。
 
(この振袖は後に母の形見として祖母から龍虎にプレゼントされた)
 
志水夫妻は実は高岡猛獅・夕香の葬儀に、龍虎をふたりの遺児だとして連れて行ったのだが、ワンティスの事務所社長に叩き出され、ふざけたことを言うならヤクザに3人とも始末させるぞと恫喝されたらしい。
 
それで志水夫妻は龍虎を自分たちだけで育てる決心をする。
 
当時の龍虎も自分の両親が亡くなったということ自体は認識していた。その両親を失った龍虎に、志水夫妻は「私たちのことをお父さん・お母さんと呼んでね」と言った。龍虎は記憶が無いが、両親が亡くなるまで龍虎は高岡夫妻のことを「お父さん・お母さん」、志水夫妻のことは「おじさん・おばさん」と呼んでいたらしい。
 
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(龍虎は大きくなってからも志水照絵を「お母さん」と呼ぶ)
 
それで龍虎が寂しそうにしていたら「ピアノでも習いに行く?」と言われ、幼児ピアノ教室に通うことになるが、音楽に非凡な才能があることが分かる。両親の遺伝もあるのだろうが、そもそも志水夫妻が元々ミュージシャンなので、家にはいつも音楽があふれていて照絵はいつも歌を歌っていたし、家の中に様々な楽器が転がっていて、龍虎は物心付く前からキーボードやギター、フルートなど色々な楽器を弾いて遊んでおり、その影響も大きいようである。
 
龍虎は幼稚園の時にまるで貧血でも起こしたかのようにして気を失い、結局入院することになるが、原因は分からなかった。最初は貧血だろうと思われ、志水夫妻は随分医者から栄養面のことを注意された。
 
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しかし栄養に気をつけていても、龍虎はしばしば気を失った。それでこれは貧血ではないのではと考え、あちこちの医者に診せるが、多くの医者が首をひねり、鉄分を補給したり、あるいは栄養を補給する薬などをもらうものの、症状は全く変わらない。診断名もはっきりしなかった。そうこうしている内に英世が深夜の帰宅中に崖から転落して死亡する。収入が断たれ、やがて貯金も尽き掛け、龍虎の治療費(龍虎は健康保険に加入できないので全額負担であった)も負担できなくなった照絵は、一番話ができそうだと思った長野支香に泣きつき、それで初めて支香は龍虎の存在を知った。
 
龍虎に姉・夕香の面影があったので、支香は見てすぐにこれは姉の“娘”だと確信したらしい。娘だと思っているので、龍虎が男子トイレに入って行こうとするのを「女の子が男トイレに入ってはいけない」と注意し、それで龍虎が「ぼく男の子ですぅ」と言うので、びっくりしたらしい。
 
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さて、この時、志水照枝が
「この子は健康保険も無いので医療費がそもそも高いんです」
と言ったので支香は
 
「親がいなければ国民健康保険に入れるのでは?未成年なら結果的に医療費は全額国が負担してくれたはず。里親には里子の医療費を負担する義務は無いんですよ」
と言う。
 
「それがこの子は戸籍とかが無いので、国民健康保険への加入を断られたんです」
と照絵は説明した。
 
「戸籍が無い!?」
 
それで支香は上島雷太に相談した。上島は支香・照絵と話し合った上で、その方面に詳しそうな弁護士にこの問題の処理について相談した。
 
この弁護士さんは民法772条(離婚後300日以内に生まれた子は前夫の子とみなす)問題で出生届を出せなかった子供や、夫のDVから逃れて住民票が移動できず行政サービスを受けられずに困っている子供の処理、また外国人女性が子供を産んだまま帰国してしまったりして無国籍になっている子供に日本国籍を取らせるなどの処理をした経験はあったのだが、龍虎のようなケースは初めての経験だった。
 
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しかし弁護士さんは龍虎の出生に関して残されていたわずかな手がかりから、龍虎が確かに長野夕香の子供であるという証拠を揃えてくれた。
 

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志水照絵は、龍虎の生年月日を2001年8月20日だと認識していたし、高岡からの養育費振込みに使用されていた龍虎名義の口座の暗証番号が2525だったのだが、これは龍虎の出生時の体重であると夫・英世が話していたと語った。更に龍虎が幼い頃に作られたホロスコープが残っていて、そこには出生情報が2001.08.20 14:21 町田市と印刷されていた。
 
そこで弁護士さんは町田市内の産婦人科を訪ね歩いて、2001年8月20日14:21に体重2525gで男の赤ちゃんが生まれていないか聞いて回った。その結果弁護士さんはついに生まれた病院を探し当てたのである。
 
そしてその時出産した母親が母子手帳を持っていなかったこと、名前もどうしても名乗らなかったことをお医者さんは語った。夕香の写真を見た医者は確かにこの女性だったと言い、お医者さんも、その子を取り上げた助産師さんも、裁判で証言してもいいと言ってくれた。
 
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この医師・助産師の証言と、病院の記録、それが龍虎側に残っていた生年月日のヒントと一致したこと、また龍虎と叔母の支香や祖母の松枝のDNA比較結果から、裁判官は龍虎を夕香の産んだ子供と認定してくれたのである。
 
DNA鑑定は、夕香が死亡していて検体が取れないのだが、松枝・支香・龍虎のミトコンドリアDNAが一致したことから支香も龍虎も松枝の女系子孫である可能性が高いと鑑定された。それ以外にも様々な遺伝子上の類似が見られた。
 
この時、上島と弁護士は、高岡猛獅の父にもDNA鑑定への協力を要請したのだが、祖父は猛獅の死後6年も経って唐突に「子供がいた」という話を聞かされて、疑心暗鬼になり、協力を拒否した。それで上島・支香・照絵の3人は、今は争わないことにしようと言い、龍虎の父親欄は空白にすることになった。
 
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なお、後に猛獅の従弟(猛獅の父の弟の息子)が鑑定に協力してくれて、彼のY染色体と龍虎のY染色体のSTR検査が一致し、龍虎は少なくとも猛獅の祖父の男系子孫である可能性が高いことが確認されたが、猛獅の父の心情に配慮して裁判などは起こさず、龍虎の戸籍父親欄は空白のままにしている。
 

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なお、龍虎を日本の戸籍に記載するに当たっては、既に亡くなっている長野夕香の籍がいったん親の戸籍から分籍され(高岡猛獅と長野夕香は正式に結婚しておらず、ふたりは内縁関係にあった)、龍虎はそこに入籍された形になっている。つまり死亡している夕香が戸籍筆頭者の戸籍に龍虎は入ったままである。20歳になったら分籍して自身が筆頭の単独戸籍にしよう、と上島や支香は言っている。
 
また龍虎の未成年後見人は(叔母である)長野支香になっており、この時期、支香は毎月龍虎の養育費収支と財産目録を自分で作成して裁判所に提出していた。(龍虎のデビュー後はとても素人には手に負えなくなる)
 
また健康保険についても、龍虎は支香の家に「同居する3等親以内の親族」なので、支香の国民健康保険に入れることができた。
 
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さて、龍虎の病気の方だが、様々な医者に掛かって様々な薬を処方された中で、一番効果が出たのが小児性白血病の薬であった。龍虎には血液を検査しても白血病の兆候は見られないものの、症状が白血病に似ていると思った医師が処方してみたら効果を発揮したのである。
 
それで龍虎は幼稚園を卒業する頃は一時的に退院し、夕香の住んでいる浦和の家に居て(志水照絵も一時ここに同居していた)、この時期、体調が一時的に良かったことから、幼稚園にも1年半ぶりに登園し、更に誘われて民謡教室にも通い“振袖を着て”大会にも出ている。それで龍虎は幼稚園から卒業証書ももらったのだが、小学校の入学式の前にまた入院してしまう。入学記念写真には、ひとり別途撮影されて右上に丸囲みで顔写真が載っている。
 
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上島は知人などにも聞いて、似たような症状の病気が無いか調べていった所、渋川市のお医者さんが書いた論文に記述されていたケースが龍虎の症状に似ていると気付いてくれた医者がいた。そこでその渋川市の医者を訪ねていき龍虎を診せた所、この貧血症状は骨髄に近い所にできた良性腫瘍によるものであると診断された。
 
骨髄自体に腫瘍がある訳ではないので白血病のような症状にはならないものの、骨髄の造血機能が阻害されて貧血になる。しかし腫瘍が原因なので、白血病の薬が結果的に効果を示していたし、またその薬のお陰で病気の進行も抑えられていたことが分かる。
 
ただ龍虎の場合、この腫瘍がMRIなどでも発見しにくいひじょうに難しい部位にあった。それで他の医師は原因が特定できなかったのである。結局龍虎は放射線療法や化学療法なども併用した上で、2008年8月1日に腫瘍の摘出手術を受けるが、その前日に千里たち旭川N高校の女子バスケット部のメンバーと出会い、その後、交流が続いて行くことになる。
 
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この手術は実際に身体を開けてみると腫瘍が思っていたよりもかなり大きく、難手術となって、一時は心臓が停止してしまう事態もあったが、看護婦さんが「龍虎ちゃん、おちんちん!」と耳元で言うと心臓は動き出してくれた。それで何とか龍虎は持ち堪え、大手術に耐え抜いたのである。
 
「おちんちん!」というのは昨日会った旭川N高校のバスケ部メンバー佐々木川南が「龍虎、手術頑張らないと、おちんちん切られちゃうぞ」と脅かしていたので「おちんちん切られたら困る」というので、龍虎は頑張ったのである。
 

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さて、手術以降、龍虎の病状は日に日に回復に向かうが、支香は困っていた。実は龍虎のお世話ができないのである。
 
龍虎が入院している間は、病院が世話をしてくれるから問題無いのだが、退院した場合、支香は仕事が結構忙しいので、龍虎の面倒を見てあげられない。といって、幼くして親を亡くしたこの子を、家政婦さんのような他人には任せたくなかった。一方で、志水照絵もこの時期、実家のお祖父さんが病気で倒れ、お祖母さんもその世話に手が取られて人手が足りないので、福井の実家に戻ってきて家業を手伝ってくれないかと言われていた。照絵のお父さんは早くに亡くなっており、この時期、実家は照絵の母がひとりで支えていて、実は忙しさとストレスで、母は倒れる寸前の状態になっていたのである。
 
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それで一時は、龍虎は照絵と一緒に福井に行き、毎週渋川の病院に通院しようかという案も出るが、それは龍虎の現在の体力では厳しいと考えられた。一時は上島が自分の家に住まわせる案も出ていたが、新婚家庭(上島はこの年の10月に結婚した)に小学生の子供を同居させるのは申し訳無いと支香は言った。
 
そこに登場したのが田代涼太・幸恵の夫妻である。当時、田代涼太が手術のため入院しており(実は子宮筋腫で子宮を摘出する手術を受けている)、幸恵も毎日見舞いに来ていたので、夫妻は隣の病室で入院中の龍虎や付き添いの照絵・支香とも親しくなった。それで支香が龍虎の退院後のことで悩んでいることを漏らすと、田代夫妻は、だったら、うちの子にならないかと言ったのである。
 
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田代夫妻は「医学上子供が作れない」(*1)ので、仲良くなった龍虎を自分たちの子供として育てたいと言ったのである。
 
照絵としては龍虎が生まれて間もない頃から7年間一緒に暮らしてきて、今更別の人に彼を託すことには抵抗があった。しかし、今は龍虎の身体のことを考えて割り切らなければならないと決断した。
 
それで龍虎は退院したら、熊谷市に住む田代夫妻の家で暮らすことになったのである。熊谷と渋川の間は電車で1時間20分くらいである。熊谷市に住む田代涼太がわざわざ渋川の病院で手術を受けたのは、男性が子宮摘出をするという特殊なケースなので、知り合いとあまり会わない場所で治療したかったこと、またこの病院に小学生時代の友人が勤めていたこともあった。
 
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(*1)田代夫妻はいわゆる性別逆転夫婦である。
 
涼太は生まれた時は女性だったが高校時代から男性ホルモンを飲んで女性としての機能は停止。声変わりもした。高校卒業後、性転換手術を受けて男性になる。この時、卵巣摘出と乳房の切除をし、上腕部の皮膚から陰茎を形成。陰嚢も作っているが、膣口は“メンテ上の問題で”閉じていない。つまり実は《両性体》の状態である。子宮は手術の負荷の関係で残しておいたのだが、2008年に子宮筋腫を起こして摘出することになる。大学時代は男子サッカー部に入れてもらい、FWとして活躍。全国大会にも出場している(元々サッカーには女子の参加を禁止する規定がない:但し女子の部には男子は出場できない)。
 
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一方、幸恵は生まれた時は男の子だったが小学5年生の時、声変わりを防ぐために自分で睾丸を切り落とした。合唱団に居たのでカストラートのことを知っており、現代ではカストラートが禁止されているので自分で切るしかないと決断したのである。さすがに病院に運び込まれることになるが切断した睾丸はトイレに流してしまっていたので再度身体にくっつけられたりせずに済んだ。その後本人の希望を親が受け入れて女性ホルモンを飲み女性的な身体を獲得。高校卒業後、タイまで親に付き添ってもらって性転換手術を受け、完全な女性になった。幸恵は元々歌がうまいし、小学生の頃から、女性的なスタイルになれるよう努力していたので、大学在学中は一時期歌手(むろん女性歌手)として活動していたこともある。
 
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ふたりとも性転換手術直後に改名している(当時は性別の変更ができなかった)。
 
ふたりは1999年頃に知り合い、各々の出生性別のまま結婚したので、夫の涼太は戸籍上は妻、妻の幸恵は戸籍上は夫である。なお戸籍筆頭者は涼太である。ふたりの結婚式の時、涼太はタキシード、幸恵はウェディング・ドレスを着た。ふたりは各々理解のある学校に涼太は男性教師として、幸恵は女性教師として採用された。
 

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娘たちの収縮(11)

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