[*
前頁][0
目次][#
次頁]
「さあ、頑張ってもらおうか」
「よし」
貴司は千里のダンクを見せられてかなり闘志を燃やしたようである。それから1時間くらいひたすら千里のブロックをかいくぐってシュートを決めようとした。しかし千里(実は《こうちゃん》)は貴司のシュートの7割をブロックした。
「参った」
「参っては困る。女子日本代表に負けるんなら、貴司、女子の代表にもなれないよ」
「いや、女子の代表になるつもりはないけど」
時間がきたのでゴールを片付け、汗を掻いた下着も交換し、普通の服に着替えてから退出する。
「じゃ一休みね」
というので貴司が少しドキドキしている。
インプレッサを運転してきたのはケンタッキーである。
「ほんとに一休みか」
「お肉食べようよ。やはりお肉食べないとスタミナ出ないよ」
「それは僕もそう思う」
それでケンタッキーで1時間休んだ上でまた別の体育館に行く。
「今日はバスケット尽くしか」
「そのために出てきたんでしょ?」
「そうだけどね」
2つ目の体育館ではひたすら1on1をやった。10本単位で攻守を交代しながらやるのだが、これが無茶苦茶ハードである。さっきは《こうちゃん》にブロックをさせたのだが、今度は千里自身が貴司に対抗する。
貴司が攻める場合、千里に3回に1度くらいしか勝てない。千里はたくみにドリブル中のボールを掠め取りしたり、ボールを弾いて飛ばしたりして、貴司の進攻を妨害する。
逆に千里が攻める場合は貴司はほとんど停めきれない。貴司が手を伸ばしたのと反対側を抜いたり、貴司が離れて守っているとみると即シュートを撃ち込む。
このあたりは大阪の実業団でしかやっていない貴司と、女子とはいえ世界相手に歴戦してきている千里の差が出た感じである。
「普段ここまで練習してない。凄いハードだ」
「要するに練習不足だね。貴司、やはりもっとレベルの高いチームに行った方がいい。自分がチームの中でいちばん上手いという状況では、それ以上伸びることができない。スポーツでは、鶏口となるより牛後となれ、だよ」
(鶏口は鶏のクチバシ、牛後は牛のお尻。鶏口牛後は史記蘇秦伝の中のことば。普通は「鶏口となるも牛後となるなかれ」で大きな組織の下で働くより小さな所のトップとなれ、という意味だが、千里は逆に弱いチームの中心選手で満足せず、強いチームの下っ端になって自分を鍛え浮上しろと言っている)
「千里は今のチームの中心でしょ?」
「うん。だから3月いっぱいでローキューツは辞めるよ」
「そうだったんだ?どこに行くの?」
「来年はお休みかなあ。結婚準備もあるし」
と千里が言うと貴司はドキッとした。
ここでの練習を終えてから、千里はインプレッサを運転してさいたま市内のホテルに入った。チェックイン手続きをしてから車はホテルの立体駐車場に入れる。
部屋に入ってから千里は貴司に言った。
「あなた、お風呂にする?御飯にする?それとも寝る?」
「えっと汗掻いたからシャワーして、お腹空いたから食事して、それから一緒に寝ない?」
「いいよ」
それで交代でシャワーを浴びてからふつうの服に着替える。千里はシャワールームを出てからわざわざ貴司の前に来て服を着た。貴司はドキドキした顔をしたいたが、ここで私を押し倒さないのが貴司だよなぁと思った。女の子をすぐ口説く癖に、実は度胸が無いんだよなあ。
「遊んでもいいよ」
「いや、それすると食事に行きそびれる気がして。でも」
「でも?」
「千里の身体って美しいよなあ。羨ましいくらい」
「貴司も手術してこういう身体になりたい?」
と千里が言うと
「えっと・・・」
と言って悩んでいる。正直な奴め。
貴司は訊いた。
「千里ってほんとに手術して女の子になったんだっけ?」
先日、母たちの前で口にした疑問である。
「そうだよ。元はここに貴司と同じ形のものが付いていたよ」
「それ絶対嘘だという気がしてきた。千里、本当は最初から女の子だったでしょ?」
千里は微笑むとバッグの中から1枚の紙を取りだして見せた。
「予約票?」
「7月18日にプーケットの病院で性転換手術を受けるから」
「え?千里、男の子になっちゃうの?」
「まさか。今男の子だから性転換して女の子になるんだよ。女の子の身体になって戸籍を女に直さないと、貴司と結婚できないからね」
「今既に女の子じゃん」
「これから女の子になるんだよ」
「卵巣と子宮を移植するとか?」
「それは既にある気がするなあ」
「やはりあるんだ!」
「だって卵巣と子宮が無いと京平と環菜(かんな)を産めないからね」
「やはり千里、子供産めるんだ?」
「私が産むって言ってたじゃん」
結局このあと少し時間のかかることをしてしまい、食事に行ったのはもう8時半であった。ラストオーダーのぎりぎりに飛び込んだが、けっこう美味しかった。そしてレストランを出たのは9:10くらいである。
「さて、もう一汗流そうか」
と千里は言った。
「ん?」
「取り敢えず車に乗ろう」
「いいけど」
千里が貴司を連れて行ったのは、三鷹市内にある体育館である。
「ここは?」
「まだ練習やっているみたいね」
「でも練習着が」
「後ろのバッグの中にあるから着換えて」
「あ、うん」
千里は着ていたワンピースを脱ぐと練習着である。
「そうなっていたのか!」
ふたりが中に入っていくと、佐藤玲央美、湧見昭子、門脇美花、越路永子、山形治美の5人がいる。
「おはよう。デートしにきたの?」
と玲央美が言う。
「うん。デートしにきた。ちょっと場所貸して」
「いいよ」
「5人でやってたの?」
「6人いたんだけど、あれ?トイレに行ったのかな?」
実はついさっきまで南野鈴子(すーちゃん)が山形治美の相手をしていたのだが、千里が来たのでびっくりして逃げ出したのである。
それでふたりはKL銀行三鷹体育館の片隅を借りて1on1の練習を始める。山形治美は鈴子が戻ってこないので困惑している。玲央美は昭子に治美の相手をするように言って、千里たちの所に来た。
「細川さん、私の相手してもらえませんか?」
と玲央美が声を掛けると
「いいよ」
と千里が答えた。
それで貴司と玲央美で1on1をやる。貴司は千里とは全く違うタイプの相手に翻弄され、最初は全く勝てなかったのが10分くらいやっている内に少し勝てるようになる。
「えいちゃーん」
と玲央美が越路永子を呼んだ。
「この子の相手をしてもらえません?」
「あ、うん」
貴司が全く勝てない!
「嘘!?」
「貴司考えすぎ。基本に忠実にやってごらんよ」
「へ?」
それで貴司は一休みさせてもらい、千里が用意してくれたドリンクを飲んでから再度永子と1on1をやる。
「あ、勝てた」
「私はハイレベルの人とやった後にやると、目くらませになるんです」
などと永子本人が言っている。
「永子ちゃんは何も難しいことはしない。でもハイレベルの人ってしばしば基本を忘れているから、基本にやられてしまうんだな」
と玲央美は言っている。
「何かミニバス時代を思い出した!」
「試合中はうまい人たちの中に混ぜて出してもらうんです。するとフェイント合戦をすることになるハイレベルの人の相手と私の相手をすると向こうの選手は混乱して、どちらにもやられてしまうんですよ」
と本人。
結局、そんな感じでこの日は11時頃門脇美花が「電車が無くなるので」と言って帰ったほかは、12時すぎまで練習が続いた。
「みんな近くに住んで居るの?」
「私は荻窪のマンション、他は会社の寮」
「寮は近い?」
「この体育館から歩いて5分」
「近くて良いね」
「だから朝6時から練習始めますよ」
「やはり貴司は練習不足だね」
それで着換えて体育館を出る。着替えは千里と玲央美が更衣室を使い、貴司は体育館外のロビーである!
「へー。これが玲央美の車か」
「うん。これを買ってから深夜練習に困らなくなった」
「夜中は電車が動いてないもんね〜」
という訳で玲央美が荻窪のマンションとこの体育館との往復に使っているのは三菱コルトプラス1.5RX 1498cc CWT 4WD(カワセミブルーメタリック)である。
「コルトかコルトプラスで悩んだけど、荷物がたくさん詰めるからこちらにした」
「新車?」
「新車」
「すごーい!お金持ち」
「千里の年収の50分の1くらいだと思うけど」
玲央美は東京に出てきた当初は入ったチームの会社の寮に入ったものの、そこが倒産したので、いったん習志野市内の月5000円!?のシェアハウスに住み、千葉市の電話受付会社に勤めながら藍川真璃子・母賀ローザと一緒に練習をしていた。九州での特別任務に就いた後、藍川真璃子のアパートに同居してミリオン・ゴールドの活動に半年間参加した。この付近は“スペシャルマンス”のために時系列が少し混乱している。
2010年にジョイフルゴールドが発足した時は寮(寮費1万円)に住んでいたのだが、日本代表の活動も多いので寮は色々制約があって不便だった。それで昨年春に荻窪のワンルームマンション(家賃6万円)を借りてそちらに引っ越した。荻窪と三鷹の間は中央線で7分である。電車は荻窪→三鷹の始発が4:31 三鷹→荻窪の最終は0:47 で“普通の人”は困らない。しかし玲央美は真夜中に突然練習したくなる時があり!その度にタクシーを呼んで体育館に出かけていた。それが度重なるので、ついに通勤用に車を買ったのである。
「え〜!? 真夜中に体育館に出てきて練習するんですか?」
「普通にするよね?」
「凄い」
「銀行には出なくていいんだっけ?」
「この体育館から走って行く。3kmくらいだからちょうどウォーミングアップ、クールダウンにいい」
「なるほどね〜」
「朝は向こうの更衣室で銀行の制服に着替える。3時間お仕事して、お昼を食べたらトレーニングウェアに着換えてこちらに走って来て午後いっぱいチーム練習。夕食を食べてから居残り練習」
「すると毎日12時間くらい練習している感じ?」
「まあそのくらいするでしょ。毎日30時間練習している千里や江美子には負けるけどね」
「まあ私や江美子はバスケの練習している訳ではないけど」
「いや、基礎体力作りは大事だよ」
「玲央美もやる?」
「まだ死にたくないからやめとく」
「死者は1冬に10人くらいしか出ないよ」
「やはりやめといた方が良さそうだ」
貴司は会話の内容が分からないようで、首を傾げている。
「そうそう。私たち結婚するから」
と千里は言った。
「おめでとう!式はいつ?」
「年末くらいかなあと思ってる」
「オールジャパンで忙しいのでは?」
「来年のオールジャパンはお休み」
「なんで〜?」
「どっちみち大学の卒業準備もあるし」
「大学なんか行ってない癖に」
「まあね」
それで玲央美と別れてインプレッサで浦和のホテルに戻った。既に1時すぎである。
「ごはんでも食べに行く?先にシャワーする?それともこのまま寝る?」
「シャワー浴びてから千里を食べたい」
「はいはい」
そういう訳でふたりが睡眠に就いたのは2時すぎである。