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■春老(14)
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目次 #
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青葉はまずジャネさんの手を握ると、エネルギーを注入しながら体内をサーチした。
身体的な怪我はもう治っているようだ。右足の足首から先が無いのが痛々しいものの、それ以外には異常は無いように思える。
秘密兵器の《鏡》を使って脳をきめ細かくサーチする。
あ、ここだ。
青葉は「気の乱れ」の観察から、視床下部の一部に微細な損傷があり、それが正しくない方法で癒着していることに気づいた。
ここをいったん《剣》を使って癒着を切り離す。その上で正しくつなぎ直す。
損傷の起きている箇所はかなりの広範囲にわたっている。ひとつひとつの損傷は小さいのだが、範囲が広い。
「あっ」
とお母さんが声をあげた。
「どうしました?」
と圭織さんが言う。
「娘が、娘が・・・目を動かしているんです」
「ジャネさん、私の右手を見て」
と言って圭織が手を彼女の右側に持って行くとジャネはちゃんとそちらを見る。
「今度こっち」
と言って左側に持って行くと、ちゃんと反対側に視線をやる。
青葉は今気付いた箇所の3分の1程度を治療しただけである。それでもどうも目の神経付近が動き出したようだ。
「お医者さんを呼びましょうか?」
とお母さんが言うが
「待って。もう少し確かめてみましょう」
と圭織さんが言う。
うん。待って欲しい。この「治療」が終わるまで、医者には来て欲しくないのである。
「ジャネさん、瞬(まばた)きできますか〜?」
彼女が瞬きをする。
お母さんが息を呑んでいる。
「ではジャネさんに質問でーす」
と言って圭織さんはバッグの中からnonnoを取り出す。
「答えがYESの時は瞬き1回、NOの時は瞬き2回してください」
するとジャネさんは瞬きを1回した。お母さんが手を口に当てて驚いている。
「あなたは女の子ですか?」
瞬きを1回する。
「あなたは男の子ですか?」
瞬きを1回する。
「あれ〜、ジャネさん、性転換しちゃった?」
と言うと少し考えるようにしてから、瞬きを2回した。
「あなたは石川県出身ですか?」
瞬きを2回する。彼女は福井県あわら市の出身である。
青葉はうまい具合に圭織さんが口頭試問(どうも読者アンケートの質問を読み上げているようだ)をしてくれている間に、どんどん治療を進めていった。そして治療が進むほどに、彼女の脳全体が活性化していきつつあることを意識していた。圭織さんの質問に対しても最初の方はけっこう間違っていたのが少しずつ正解率が高くなってきている。
今彼女の脳内には覚醒物質がどんどん行き渡っていきつつあるのではなかろうかと青葉は思った。
青葉の治療が8割ほど進んだとき、病室にこのフロアの婦長さんが入って来た。そしてジャネの様子が違うことに気づく。
「どうかしました?」
「この子、意識が戻ってきつつあるみたい」
婦長さんはジャネに呼びかけた。
「あなたのお名前は何ですか?」
ジャネはしばらく考えるような表情をした。そして口を開いてささやくような声を発した。
「さ・・・ね」
「おぉ!!」
「ドクター呼んできます」
と言って婦長は急ぎ足で病室を出て行った。
婦長に呼ばれて担当医が病室に来た時、青葉はちょうど今回見つけた損傷箇所の「治療」をひととおり終えた所であった。
医師がいろいろ質問すると、ジャネはかなり反応が鈍いし発音も不明瞭ではあるものの、ほとんどの質問にきちんと答えた。ただ、まだ難しい質問にはうまく答えられないようである。
「画期的に改善されましたね。彼女の中で何かが起きたのでしょうね」
と医師は言った。
青葉はその様子を30分ほど見てから、圭織と一緒に病院を後にした。
「何かテレパシーみたいなのずっと送っている感じだった。あれ、心霊治療のようなもの?」
と圭織さんから訊かれる。こちらが「気を送っていた」のを感じ取るというのは、この人も若干の霊感を持っているのだろう。
「そのようなものです。一般に心霊治療をすると主張している人のほとんどは実際は手品みたいなものですけど、私がやっているようなのが本来の心霊治療かも知れないですね」
と青葉は笑いながら言った。
「本当は事故の直後なら、もっと簡単だったんですけど、1年経っているからかなり大変」
「じゃ明日も行って、もっと治療をしない?」
「させてください。この人、見過ごせないです」
と言いつつ、これってちー姉にしばしば注意される「火中の栗を拾う」行為かなあ、などと青葉は思う。
青葉は圭織や他の数人の女子水泳部員と一緒に、4日も5日もジャネの病院に行って2時間ほど一緒に過ごした。部長の筒石さんなど数人の男子部員や顧問の先生も来て彼女を励ました。そして青葉はその度に彼女の脳内の損傷箇所をもっとどんどん治療して行った。
その結果、4日にはジャネは顔に表情が出るようになり、自分の名前もきちんと「ジャネ」と発音できるようになる。この名前は結構難しいのである。
「でもジャネというのは変わった名前ですよね」
と1年生部員の亜希子が言う。
「ジャネット・エヴァンスから取ったのかな?」
と青葉。
「そうです。正解!」
とお母さんが嬉しそうに言った。
ジャネット・エヴァンスは1988年のソウル五輪で400m自由形,800m自由形,400m個人メドレーの3種目で金メダルを取り、1992年のバルセロナ五輪でも800自由形で再度金メダルを取った。ジャネさんは1993生なので、それにあやかって水泳命の両親が名前を付けたのだろう。
「誕生日もジャネット・エヴァンスも同じなんです。8月28日」
「おお、凄い!」
「でも時々間違えてジュネと言われるんです」
とお母さん。
「ああ、腐系の人はそちらに連想が行く」
「海外の大会に行くと、ジェーン、ジェーンと呼ばれてたらしいですね」
と圭織。
「まあJaneを英語読みするとジェーンだから」
ジャネさんは、この日はまだ完全にはこちらの会話を理解できないようで、微笑みながら話を聞いていた。
しかし5日に青葉が帰る頃になると、彼女はこちらの話をほぼ完全に理解するようになってきたし、本人の発音もかなり明瞭になってきてイントネーションまで付くようになっていた。
そして5日の夜、ジャネはお母さんに驚くべきことを語ったのである。
彼女は自分で飛び降りたのではない。木倒さんに落とされたのだというのである。警察が来て事情聴取をするとジャネはハッキリと当時のことを語った。
その日木倒さんが見舞いに来て、ジャネが「足が無いと動き回るのも大変だし。私松葉杖とかで歩かないといけないのかな。車椅子かな」などと言うと「ひとりで歩けるよ。ちょっと手伝ってあげるから起きてごらんよ」と言い、木倒さんに支えられてジャネはベッドから起き上がった。
「あ、今夜は月がきれいだよ。見てごらん」
と言って彼女と一緒に窓際に行く。
「あ、ほんとにきれいだね」
とジャネが言った時、木倒さんはいきなり彼女を窓の外に突き落としたのだという。
警察は木倒さんの家族に事情聴取をした。するとお母さんが
「申し訳ありませんでした」
と言って泣いて謝り、木倒さんが「遺書」を残していたことを告白する。
そしてその遺書には
「ジャネはもう世界選手権にもオリンピックに行けない。可哀相だから、俺が虹の向こうのオリンピックに連れて行ってあげることにする」
と書かれていたのである。警察はお母さんに事情聴取し、その遺書原本を任意提出してもらって、調書を作った。数日中に送検されることになるが、被疑者死亡により不起訴になるはずである。
「確かに木倒さんが死んだのは、ジャネさんが転落した同じ晩だったもんね」
と圭織は言った。
「その話を私は今聞きましたが」
と青葉は言う。
「言わなかったっけ?」
「聞いてません」
「ごめんごめん」
「でも鉄骨の下敷きになって死んだなんて、普通事故として処理されて補償交渉とかも行われるはずが、全然その話が進んでなかったのは、木倒さんの遺族が死の真相を知っていたからだったのね」
「それってむしろ建設会社が木倒さんの遺族に損害賠償を請求したくなるケースですね」
「でもどうやって鉄骨を自分の上に落としたのかなあ。木倒さん、あまり腕力無いし」
「うーん・・・紐か何かで引くのかなあ」
と青葉も首をひねった。
青葉は30年前のできごとを知る中川教授をジャネさんの病床に連れて行った。
話を聞いて、ほぼ意識の戻ったジャネさんはゆっくりした口調で言った。
「それ絶対、そのサトギという男に突け落とされたんてすよ。私は足を失ったのは凄いシャックだったけど、だったらパレリンピックで金メデル取っちゃると思ってたもん」
と彼女は言う。彼女の言葉はかなりまともになってきているのだが、微妙な言い間違いもまだまだあるようである。
「30年前のマソさんとサトギさんの事件、今回のジャネさんと木倒さんの事件。似たパターンの事件が起きましたが、今回はジャネさんが助かったから良かったです。そしてどうも、それよりずっと以前にも何度か似たような事件が起きていたようなんですよ」
と青葉は語った。
「人間ってどんな状況になっても、結構可能性はたくさんあるものなんだよ。絶望の淵にいる人にはその残された可能性が見えてないんだな」
と中川教授は言った。
「私、ほんたに頑張りますね」
とジャネさんは言い、私たちも笑顔で頷いた。
「ところでこないだから思っていたのですが」
とジャネのお母さんが青葉に言った。
「はい?」
「川上さんでしたっけ? もしや娘に何かしてくださってました?」
青葉は微笑んだ。
「すみません。勝手なことしまして。私の祈祷がジャネさんの回復に少しは役立つかも知れないと思って、ずっとベッドのそばで密かに祈祷しておりました」
「お祈りなんですか!?」
「実は過去にも交通事故などで脳出血をした患者をこの方法で助けたことが何度かあります」
青葉がそう言うと中川教授が腕を組み、右指を唇の所に当てて考えるようなポーズを取っている。
「お邪魔でしたよね。済みません」
「いえ。効く祈祷なら、どんどんしてください」
「でも祈祷がこういうのの回復に効くの?」
と中川教授が尋ねる。
「祈祷というのは、マクスウェルの悪魔のようなものです、教授」
と青葉は言った。
「ほほお」
マクスウェルの悪魔というのは、熱力学の法則に関するこのような仮想実験である。前提として熱力学の第二法則
「エントロピーは増大する」
というのがある。エントロピーというのは、いわば「乱雑さ」であり、この私たちが住んでいる世界ではエントロピーは単純に増大していき、小さくなることはないというのがこの法則である。
例えば部屋を掃除すると、部屋の中の乱雑さは小さくなるので、この部分のエントロピーは小さくなるものの、作業によって身体が発熱し汗を掻くので作業した人間のエントロピーが増えていて、合算するとちゃんと全体のエントロピーは増えている。
物事は必ず秩序が乱れ、でたらめになっていく傾向がある。ルールを定めても必ず破る人が出る。ひとつの地位を築いた人がその地位を永久に維持することはできない。そのような人間の事象でさえも、まるで熱力学第二法則に従っているかのようである。山が削られその土砂で谷が埋まっていくように形あるものは壊されていく。エントロピー増大の法則とは、物事をランダム化・平均化していく働きでもあり、盛者必衰・諸行無常の理(ことわり)だ。
ところで、ここに小さな口のある仕切り板で区切られた2つの部分からなる箱を考える。この箱の中には最初はどちらも同じ温度の空気が満たされている。温度が等しいというのはつまり両者の空気分子の「平均速度」が同じであることを意味する。しかしあくまで平均速度であり、個々の空気分子の速度はバラバラである。
この仕切り板の口の所に小さな悪魔が居て、左側の箱の中の分子で動きの速いものが飛んできたら右側に通過させる。しかしゆっくりした動きの分子は跳ね返すということをする。
すると次第に左側はゆっくりした動きの分子が増え(温度は低くなる)、右側は速い動きの分子が多くなり(温度は高くなる)、両者には温度差が生じる。
この時、悪魔は分子を通過させる時は当然何も仕事をしてないし、跳ね返す時も単純に分子の方向を変えるだけなので何も物理学的な意味での仕事はしていない。
これは最初完全に乱雑だった空気の状態が、低温と高温に分けられ秩序付けられたことになり、エントロピーは減少している。
これは熱力学の第二法則に矛盾しているのではないか。
この悪魔のことをマクスウェルの悪魔と言い、この問題の解決に科学者たちは1世紀以上の月日を費やしたのである。
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