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■春老(10)
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「こちらのお店は長く運営しておられたんですか?」
「息子は20年くらい前から、この片町界隈で他のお店で働くようになりましてね。オーナー店長になったのは2000年くらいだったかな。だから亡くなるまで10年間店長をしたことになります。そのあと6年間運営した嫁も偉いですけどね。嫁は水商売とかの経験が無くて当初は苦労したようですが。でも息子が死んだ時にそちらの事務所からいただいたお見舞い金のおかげで何とか持ちこたえたんですよ」
「お見舞い金ですか。私は知らなかった。長浜が独断で払ったのかな?」
と社長は独り言のように言う。
「はい。その時に1000万円頂いて。あの時は孫が浪人してましてね。父親が急死して予備校にやるお金も無いと言っていた時に、そのお金を頂いて本当に助かったんですよ。でも今回のと合わせたら6000万円になるから、本当にそんなにもらっていいものか」
などとお父さんは言っている。
社長はまさかそんな高額を長浜さんが払っていたとは、全く知らなかったようで、困ったような顔をしている。他にもホシさんが毎月送金していた分もあるはずである。青葉は実際問題としてこのスナックはこちらからの補償金でここ6年ほどは運営されていたのではと思った。
社長は言った。
「合計6000万円はかまいません。でもその代わり、この件は親しい人を含めて誰にも言わないようにして頂きたいのですが」
「はい、それは秘密にします」
青葉は2010年の事件で亡くなったオーナーの年齢を計算していた。
「20年くらい前から片町界隈のこの手のお店で働いておられたというと、もしかして学校を出て間もない頃からですか?」
と尋ねてみる。
「ええ。実は息子は学生時代はずっと水泳ばかりやってましてね」
「水泳の選手だったんですか!」
「大学は結局出席日数不足で退学になってしまったのですが、その後就職先が無いなどと言い出して」
「あらあら」
「それで取り敢えず当座のバイトでといってスナックの従業員に応募したら採用されて。当面のバイトのつもりだったのが、結局そのまま20年です」
「水に合ったんでしょうね」
と春吉社長が言う。
「息子も息子ですが、私も実はずっと市内のスイミングクラブで水泳のコーチしていたんですよ」
「おお!」
「だから息子の学業についても進路についても何も考えてなくて。子も子なら親も親ですね」
と言って笑うので、少し場が明るくなった。
「社長すみません」
と青葉は春吉さんに断ってから言う。
「お父様が、20-30年前にスイミングクラブのコーチをなさっていたのでしたらちょっとお尋ねしたいことがあります。こちらの事故の補償の件とは別件なので、もしよかったら近い内に1度お会いできませんでしょうか?」
と青葉。
「何でしょう? 差し支えなければ今聞いてもいいですが」
とお父さん。
「川上さん、僕らが邪魔で無ければここで聞いてもいいよ。誰にも言わないよ」
と春吉社長も言う。
青葉は迷った。しかし水泳部の事件はタイムリミットがかなり迫っている。そこで青葉は尋ねた。
「1980年代前後ではないかと思うのですが、金沢あるいは北陸近辺の水泳選手の間で、何か悲恋事件のようなものは無かったでしょうか?」
するとお父さんはピクッとしたようで、目を瞑って腕を組み、考えるようにしていた。そして、やがて口を開いた。
「あれはとても悲しい事件だったんですよ」
と70代の老コーチは語り始めた。
「じゃ2人とも物凄い有望選手だったんですか?」
「そうなんですよ。大学は別の所だったけど、各々の大学のプールでも泳いでいたし、うちのクラブに来ても泳いでいた。ふたりとも凄まじい練習してたね。この子たちふたりともオリンピックに行けるかもと僕は思っていたよ」
「それでふたりは恋仲だったんですか?」
「うん。マソちゃんってのが女の子で、サトギ君ってのが男の子で、ふたりはよくサド・マゾ・コンビと言われていたよ」
「あはは」
青葉はここは笑っておかないといけない気がした。社長も同様に感じたようで少しタイミングがずれたものの笑った。弁護士さんだけポーカーフェイスである。
「最初はマソちゃんのレベルが凄かった。それでサトギ君がそのマソちゃんを好きになって、付き合ってと言ったら、自分に勝てたら付き合ってもいいと言って」
「漢らしいですね」
「うん。マソちゃんはさっぱりした性格だったよ」
と70代のコーチは懐かしむように言う。
「それでサトギ君もほんとに頑張って練習してね。その勝てたら付き合ってもいいと言われてから半年後に、やっとマソちゃんを抜くことができた」
「へー」
「それからふたりは恋人として付き合いながらずっと切磋琢磨していった。それでふたりともどんどん実力を上げていってね。ふたりとも国体に出たりもしたんだよ」
「それは本当に凄いですね」
「ところがマソちゃんが車にはねられてね」
その話を聞いた時、青葉は背中がゾクっとした。
これはホンボシだ。
「もしかして足を切断したとか」
「よく分かるね!」
「右足ですか?」
「正解。どうして分かったの?」
「勘です」
「君、ほんとに凄い霊能者みたいだね」
春吉社長があらためて感心したように頷いている。
青葉としてはK大水泳部のジャネさんが右足を切断したので、この人も右足だろうと思ったのである。そしてジャネさんが自殺した以上、もしや・・・。
老コーチは話を続ける。
「もうマソちゃんは泣いて泣いて。足を失ったことが悲しかったんじゃない。自分の選手生命が絶たれたことに耐えられない思いだったんだよ」
「辛いですよね」
「サトギ君が練習にも行かずにずっとマソちゃんに付いててね。足が片方無くたって、もう片方で倍蹴ればいいじゃないか。退院したらまた一緒に練習しようよとか言って。そしてサトギ君は彼女にプロポーズしようと思って、指輪も買ってきたんだよ」
「死んだんですか?」
コーチはこくりと頷いた。
「どんなに慰められても彼女の心は癒されなかったのかも知れないね。病院の8階の窓から飛び降りて自殺してしまった。サトギ君が指輪を持って病院に来たら、彼女がいなくて窓が開いているので外を見たら、下に彼女が倒れていたそうだ。8階だからね。ほぼ即死だったらしい」
青葉は涙が出てくるのを抑えられなかった。見ると社長まで涙ぐんでいた。
「マソちゃんが死んでしまった後、サトギ君は全く練習に出てこなくなった」
「あぁ・・」
「家族も彼と連絡が取れないので心配してね。田舎から出てきて彼のアパートに行ってみたら」
「あぁ・・・・・」
「息をしていなかったらしい。でも顔は物凄く穏やかだったらしいよ」
「あの世で一緒になったんでしょうかね」
と社長が言う。
お父さんはしばらく考えるようにしていたが、
「そうかも知れないね」
と言った。
そんなことを言った時、青葉は突然そのことに思い至った。
例の怪しげな女は・・・自分があの世にいるから、彼氏をあの世に連れていって添い遂げたいのでは?
青葉たちはお父さんに一礼してからスナックを出た。金沢駅に向かうタクシーの中で春吉社長がぽつりと言った。
「悲しいね」
青葉も言った。
「私はどういう場面でも感情を表に出すなと言われて訓練を受けています。しかし今日のお父さんの話は涙が止まりませんでした」
金沢駅で軽く食事をしてから春吉社長たちと別れた後、青葉は少し駅の裏手の界隈を散歩した。
「違う」
と青葉は思った。
そのマソさんが犯人の訳がない。だってマソさんはサトギさんとあの世で一緒になったのだから、新たな恋人を探す必要は無いのである。
では・・・・事件はどうなっているのだろう?
青葉が母に電話して、実は面倒な事件に関わってしまい、今日は運転する自信が無いけど、どうしよう?と言うと、母は電車乗り継ぎで金沢まで来てくれた。それでこの日青葉は母が運転するアクアに乗って高岡に帰還することになった。
「あんた、今回の事件はかなり大変そうね」
「うん。まだホンボシが分からない。ホンボシかなと一瞬思ったものはあったんだけど、それの訳が無いんだよ」
「何か恋愛問題っぽい?」
「それは間違い無いと思う。簡単に言うと、女の幽霊が生きてる男を誘惑して、誘惑された男はその幽霊に出会って3週間後に亡くなっている。だから、私は女の幽霊がその男とあの世で結婚するために取り殺したのではと思ってみた。でもそれなら、そもそも何人も殺す必要無いし、今ホンボシっぽい気がしている人にはちゃんと恋人もいて、死んだ彼女を追うように亡くなっているんだよ。だから、その人が新たに男を探す必要も無いんだよね」
「うーん・・・・。青葉の常識だとそうかも知れないけど、人間の恋愛感情ってそう簡単ではないよ」
「え!?」
「だって、人は浮気する生物だよ」
「え〜〜〜〜〜!?」
青葉はハッとした。
浮気と言ったら、自分はその酷い例をいつも見ているではないか。
千里姉は、桃香姉と貴司さんとの二股。貴司さんは奥さんが居て、千里姉とも愛人関係(千里姉の主張ではこちらも夫婦関係)なのに、更に別の恋人を作ろうと、しばしば浮気を試みている。桃香も千里姉という人がいるのに、ほぼ常時別の女の恋人を作っている。なんか自分が知っている人たちって全員常時二股以上だ!
そして青葉は思った。
千里姉にしても桃香姉にしても、貴司さんにしても貴司さんの奥さんにしても、かなりの嫉妬をしている。千里姉が貴司さんの新たな浮気を徹底的に潰すのは嫉妬からだ。千里姉は桃香姉の浮気を一見放置しているようにも見えるが、桃香姉の浮気相手全員の写真を撮っていたりしている。あれは絶対こっそりと呪詛している気がする。長続きしないように。桃香と早く別れるように。
桃香姉も千里姉と貴司さんとの関係に結構神経をとがらせている。しばしば自分にまでふたりの関係がどうなっているかを尋ねてくる。貴司さんも自分が二股しているくせに、千里姉には自分以外にも恋人がいるようなので、それが結構気になるような様子である。
みんな自分のことは棚に上げて、恋人の浮気には嫉妬している。
人間って、なんて勝手な生き物なんだろう!?
あ、でも自分だってこないだは彪志と愛奈ちゃんのことで嫉妬したしなあと考えてみる。
朋子は青葉が瞑想的な状態に入ったとみて言葉を掛けずに無言で運転している。そのアクアの後部座席で揺られながら、青葉は人間の複雑な恋愛模様のことを考えていた。
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