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■春化(13)
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(C)Eriko Kawaguchi 2020-05-23
奥様の名前は真倫(まりん)、旦那様の名前は佐理(すけさと)。ごく普通の二人はごく普通に恋をして、ごく普通に結婚しました。でもただひとつ違っていたのは、2人は逆転夫婦だったのです。
「稠野(しげの)は女だろ?旗仲(はたなか)は男だろ?だから結婚するとちょうどいいな」
と2人は友人たちにからかわれながらも、高校生時代は“清い?交際”を続けた。
(高校の卒業式のあと記念に一緒にホテルに泊まったのが最初のセックスといのが2人の“公式見解”)
2人はどちらも鳥取県米子市に生まれた。
稠野真倫(しげの・まさみち 1999.10.11 2:35生)は、物心ついた頃から自分は女だと思っていた。友人たちからも半分女の子のようなものと扱ってもらい、実際親しい友人といえば女の子ばかりであった。本人も室内で静かに遊ぶのを好んだ。しばしば姉のスカートを勝手に穿いて出歩いたりもしていた。
小学3年生くらいで性転換手術というものがあることを知り、将来は自分もそれを受けたいと思っていた。身体があまり男性化しないように、お友達のお姉さんに教えられて睾丸をいつも体内に押し込んでおくようにし、オナニーは我慢した。むしろ睾丸をいつも体内に入れておくとオナニーは我慢しやすい気がした。名前も真倫(まさみち)は「まりん」とも読めることを小学校時代の友人に指摘され、それ以来本人も「まりん」を名乗っている。
旗仲佐理(はたなか・さおり 1999.5.26 7:59生)は、物心ついた頃から男になりたいと思っていた。男は強くなければと思い、身体を鍛えた。男の子たちと一緒に駆けっこをして、鉄棒をして、サッカーとかもして、友人たちからも男に準じたものと扱ってもらった。実際、喧嘩で勝てる男子は少なかった。親はスカートを穿かせようとしたが一切拒否。いつもズボンを穿いていたし、髪も短くしていた。佐理は美容室には行かず、いつも床屋さんで髪を切っていた。小学4年生からスポーツ少年団のサッカー部で男子たちの混じってプレイ。チームのエース・ストライカーとして活躍した(サッカーは中学・高校でも男子サッカー部に所属した)。
名前も「佐理」は本来「さおり」と読むのだが、勝手に「すけさと」と読んでいたし、友人たちからも「すけさと君」とか省略形で「すけ君」と呼んでもらっていた。地域の祭りに男の子の祭り衣装を着て参加し、本来は女人禁制の神輿かつぎにも(生理が来るまでは)「ああ、君なら構わないよ」と許してもらって参加していた。
2人は中学時代は、真倫は男子制服の着用、佐理は女子制服の着用を強制され、辛い3年間を送った。実際には制服ではなく体操服を着ている時間が長かった。先生たちの中にもけっこうそれを容認してくれる先生もいた。
真倫は絶対「男性的反応」が起きないようにガードルをつけていた。佐理は生理が嫌で嫌でたまらず、生理が来る度に死にたい気分になった。正直サッカー部の友人たちが居なかったら本当に自殺していたかもという気がする。
2人は高校に入学した時同じクラスになり、お互いを知って
「入れ替わりたーい」
と言った。2人は急速に仲良くなった。真倫は女の子になりたいので身体をいじめて女性的な体型をキープしていたし、佐理は男の子になりたいので身体を鍛えて男性的な体格を作っていたので、2人は制服が交換可能で、しばしば逆の制服を着ていた。多くの先生がそんな2人を容認あるいは黙殺してくれた。
ちなみに部活は、佐理は小学校の時以来の男子サッカー部、真倫は女物の浴衣を着て、茶道部である!高校には女子サッカー部もあるのに佐理は男子サッカー部で相変わらずエースとして活躍した。(女子サッカー部の部長さんも男子でエース張っているんじゃ女子チームには来てくれないよね、と残念そうだった。ちなみにサッカーは女子でも(通称)男子チームに参加できる。これは女子チームには女子に限るという規定があるが、(通称)男子チームにはそもそも性別規定が無いためである。サッカーは実は、性別規定のないリーグと女子のみのリーグで構成されている)
そして友人たちから佐理と真倫は
「稠野は女だろ?旗仲は男だろ?だから結婚するとちょうどいいな」
などと言われたのである。
2人も結婚していいなと思っていたし、その仲は双方の親にも認められていた。でも結婚はせめて大学を出てからということにした。
2人は高校の卒業アルバムにも制服を交換して写っている。
なお、2人は元々はどちらも将来性転換したいと思っていたのだが、2人が恋愛関係になることで相互に“代替満足”してしまい、無理に高額で痛い手術をして生殖能力を放棄しなくてもいいかなという気持ちになった。ただ微妙に見解が相違するのは、真倫は2人の間に赤ちゃんを作ってもいいと考えているのに対して佐理は自分は絶対に妊娠なんかしたくないという点であった。
「俺は赤ちゃんとか産みたくないし、絶対授乳とかもしたくないから、どうしても赤ちゃん作りたいなら、マリンが産んでよ」
「私、妊娠したーい!出産したーい!」
「だったらそれで問題無いな」
でも真倫にはあまり妊娠する自信が無かった。
2人は国立大学に行くことを親から命令!されたので、必死に勉強した。それで2人とも島根大学(松江市)の総合理工学部に合格した。
米子市はしばしば所属を間違えられるが、島根県ではなく鳥取県である。それなのに鳥取大学ではなく島根大学を選んだのは、米子からは鳥取市より松江市のほうが近い!からである。
元々、米子は経済圏としては松江・境港などと近い関係にあり県境を越えた「中海・宍道湖・大山圏域」(雲伯地域)を形成している。
ちなみに米子市にも実は鳥取大学の米子キャンパスがあるが、ここにあるのは医学部で、ふたりともさすがに医学部に合格できる自信は無かった。
ふたりは親の許しを得て松江市では一緒のアパートで暮らした(生活費が節約できる!というので親も認めてくれた)。2人は卒業するまではきちんと避妊することを約束させられたが、特に佐理が絶対に妊娠したくないというので、真倫もきちんと約束を守った。
(2人のセックスは佐理が上になり腰を動かすのが基本。そもそも真倫は腰を動かしてセックスするだけの筋力が無い!)
むろん大学には、真倫は女の子の格好で、佐理は男の子の格好で通学した。山陰は車社会なので、大学入学後2人ともすぐに運転免許を取ったが、免許証の写真も、真倫は女の子の格好で、佐理は男の子の格好で写っている。
「免許証って性別が表示されていないのがいいね」
「うん。これ助かる〜」
本人確認書類として使われる三種類の公的書類(運転免許証・パスポート・マイナンバーカード)の中で性別が明記されていないのは運転免許証だけである。
2人は結婚は大学を卒業してからと言われていたのだが、大学に入学して以来事実上の夫婦生活を送っていたので、早く結婚したいと親たちに訴えた。それで親たちも折れて、赤ちゃんは卒業するまで作らないというのを条件に結婚を認めてあげることにしたのである。
(もっとも佐理の姉は「むしろ在学中に産んじゃえば?就職してすぐ妊娠とか嫌がられるよ」と言った)
しかし2人とも20歳になったら結婚していいよということになったので、真倫の誕生日(2019.10.11)に結婚式を挙げることにした(佐理の誕生日は5月)。当日は金曜日なので、夕方、親たちの仕事も終わった19時に米子市で結婚式をあげ、そのあと新婚旅行に行くことにした。
芳野早矢人(よしの・はやと)は1998年2月27日4:45 朝市で有名な佐賀県呼子町(現唐津市)で生まれた。ここは漁業の盛んな町でもあり、また壱岐・対馬との間に“国道フェリー”が就航していた町でもある。
国道382号は対馬の北端・比田勝港から出発し、対馬南部の国分から海路を通り、壱岐の勝本港から印通寺(いんどうじ)港まで陸上を走り、再び海路で呼子に渡り、そこから唐津市街地南部の瀬田原交差点(和多田駅近く)まで行く。国道マニアなら、一度全線踏破してみたい道のひとつである。
但し現在対馬からのフェリーは壱岐の勝本港ではなく郷ノ浦港に着くようになっている。また壱岐からのフェリーは呼子ではなく、唐津東港に着くように変更され(2007年)、交通上の呼子の重要性は大きく下落してしまった。
呼子は近くに秀吉が朝鮮出兵に使用した名護屋城の跡地があり、また呼子大橋で結ばれた加部島には、松浦佐用姫(まつらさよひめ)の聖地のひとつである田島神社もある。この呼子大橋も、橋マニア必見の“カーブした橋”である。
早矢人の父は漁師であった。近海漁業で、イカ・アジ・クマエビなどを穫っていた。息子に早矢人と名付けたのは九州の伝説的な勇猛な部族・隼人(はやと)にちなんだもので、強い男に育って欲しいという願いを込めたものである。実は早矢人の上のきょうだいは女ばかりで、女が5人!(奈津美:なつみ・美布由:みふゆ・梨央菜:りおな・柚貴恵:ゆきえ・羽都代:はつよ)生まれた末にやっと生まれた男の子であった。ちなみに早矢人の後にも、もうひとり男の子・久真朱(くまそ)が生まれている。これも九州の伝説的な勇猛部族・熊襲(くまそ)からとったものである。
きょうだいが7人というと「大家族だね!」と驚かれるが、上が姉5人と言うと「なるほどー。次こそ男だろうと作り続けた結果か」と納得される。
さて、漁師の跡取りとして期待された早矢人ではあるが、父は彼が5歳くらいの段階で跡取りにするのは諦め、弟の久真朱に期待を掛けることになる。実は早矢人が生まれつきとても身体が弱く、頻繁に熱を出して寝込み、このままではこの子は10歳までも生きられないかもなどという話になったことで、両親はもうひとり子供を作ることに決め、それで生まれたのが久真朱であった。
だから早矢人と久真朱は6つ離れている。一番上の姉・奈津美と早矢人が10歳違うので、奈津美と久真朱は16歳違い。奈津美は母が24歳の時の子供だが、久真朱は40歳で産んだ子供である。
早矢人は10歳までに死んでしまうことはなかったものの、病弱さは小学生の間も続き、彼は毎月1度は風邪を引いて学校を休んでいた。しかしそういう早矢人の体質は彼が中学で陸上部に入ったことで大きく変わることになる。毎日2〜3時間陸上部で身体を鍛えた早矢人は全く学校を休まなくなった。それまで偏食が酷かったのも、何でも食べるようになる。
そして彼が1年後に駅伝で区間賞を取ったのには父は狂喜した。父は
「これで跡取りが2人できて嬉しい」
などと言っていたが、母は早矢人の“傾向”をちゃんと把握していた。
早矢人は物心ついた頃から自分は女の子だと思っていた。何度自分でちんちんを切ってしまおうとしたか分からない。そんな早矢人を見て、
「これ買ってあげるから我慢しなさい」
と言って、母は彼に女の子用のパンティとか、前開きの無い女子用ズボンを買い与えていた(実際には姉たちのおさがりもだいぶもらった)。そういうものを穿いていることで、早矢人も随分気が紛れていた。むろん学校にも前開きの無いズボンを穿いて行っていた。
(後から聞くと、母は「病弱な子は女の子のように育てると生き延びる」という言い伝えを信じて、早矢人の女性傾向を容認していたらしい)
「スカートも穿きたい」
と早矢人は母に言ってみたが
「父ちゃんが怒るから我慢して」
と言われた。でも姉たちから譲ってもらって部屋の中でだけ穿いていた!
小学校でも中学校でも早矢人はトイレで決して小便器は使用せず、いつも個室を使っていたが、友人たちはそういう早矢人を特に変な目では見ずに「半分女みたいなもの」と捉えてくれていた。着替えなども、衝立を立てたりしてその裏で着替えさせてくれた。大会などの時はトイレで着替えていた。
また女子の友人たちから可愛いアクセサリーとかもらうこともあり、それは早矢人にとって宝物となった。
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