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それと入れ替わりにオリバー (Christof Hennig) がやってくる。彼はヒゲも剃り、髪も整え、きれいなダブレットとズボンを着ている。彼はものすごく清々(すがすが)しい顔をしている。
「こんにちは。お尋ねします。この付近にオリーブに囲まれた家があり、若い兄と妹が住んでいると聞いたのですが、もしかしてここでしょうか」
「(男声で)まあ確かにここもオリーブの木で囲まれていますが」
「耳で聞いたことが目の助けとなるのなら、あなた方のことに違いない。兄はきびきびとした身のこなしだが、色白で洗練されている。そして優しい雰囲気を持っている。妹の方はやや日焼けしたようにな顔で(*68) まだ少女のようなあどけなさを残している、と。あなた方がこの家の主ですね?」
「自慢することでもないですが、確かにそうです」
(*68) シーリアは顔に濃い色のファンデーション(恐らく赤ワインベース)を塗って変装しており、色黒に見える。当時は酢、石灰、ワイン、動物の脂肪、などがファンデーションの素材として使用されていた。
今回の映画で姫路スピカは実際メイクアップアーティストさんの手で小麦色に焼いた肌のような感じにしている。
「オーランドからあなた方によろしくとのことです。そして彼が“愛しいロザリンド”と呼んでいる若者に、このハンカチを渡して欲しいと言われました。あなたですね?それは」
「確かに。でもこれは血?いったい何があったのです?」
「私にとっては全く恥ずべきことなのですが、ご説明しなければなりません」
とオリバー。
「お願いします」
とエイリーナ(シーリア)。
「オーランドはあなた方と別れる時、1時間後(*69) には戻ると約束しました、そして甘辛い恋の味をかみしめながら森の中を歩いておりました。そしてふと脇を見ると、そこにとんでもない光景を見たのです」
「木陰にボロボロの服を着て髪もひげも伸び放題のみじめな男が一人眠っており、その首には緑色の大蛇が巻き付いていました。オーランドはそれを見ると男のそばに寄り、蛇を捉まえて遠くに放り出したのです。蛇は幸いにも逃げていきました」
「しかしその蛇が逃げて行ったのと別の方角に、獲物を狙っている雌ライオンがいました(*72) ライオンは百獣の王ですから死んでる獲物を食べたりはしません。それで倒れている男が生きているのか死んでいるのか見定めようとしていたのでしょう」
(*69) オーランドはギャニミードたちと別れる時「2時間以内に戻って来る」と言っているが、ここでオリバーは「1時間」と言っている。オーランドの勘違いかオリバーの聞き違いか、あるいはシェイクスピアの思い違い!?かは不明。
実際は公爵たちと食事してから戻るのに1時間では無理と思うので多分2時間が正しいと思われる。
「そしてその時オーランドは気付いたのです。そこに寝ていたのが自分の兄であることに」
とオリバーが言う。
エイリーナ(シーリア)が口を挟む。
「あの方のお兄さんのことは聞いたことがあります。あんな薄情な人は居ないとか」
「全くです。あれは薄情な人でした」
とオリバーも言っている。
「でしたらオーランドはそのお兄さんをそのまま放置して立ち去ったのでしょうか」
とギャニミード(ロザリンド)は男声で訊く。
「そのようにして当然だと思います。しかしオーランドは気高い男でした。兄への復讐心より彼の気品が勝ったのです。彼はその雌ライオンと戦いました」
「きゃー」
とロザリンドは思わず女声で声を挙げる。
「ライオンはその鋭い爪と牙で対抗しましたが、オーランドはその雌ライオンを倒すことができたのです(*71)」
ロザリンドがホッとしたような顔。
「そして私はその騒ぎでやっと目を覚まして起き上がったのです」
とオリバーは言った。
「あなたがそのお兄様だったのですか!」
とエイリーナ(シーリア)は驚いて言った。
「あなたがオーランド様を追い出したの?」
とエイリーナ(シーリア)は尋ねる。
「はい。確かに私です。でも今の私ではありません。私はオーランドに助けてくれたことを感謝しました。そしてなぜここに居るかと訊かれ、私はフレデリック様に追放され、邸や土地も没収されたことを話しました」
「そしてそれを機に私は彼とこれまでのことを全部腹を割って話し合ったのです。それで私とオーランドの間の誤解は解けました。私はこれまてオーランドに酷いことをしてきたことを謝りました。彼はその謝罪を受け入れ、これからは仲良くやっていこうと言ってくれたのです」
「なんて器量の広い方だろう、オーランド様は」
とエイリーナ(シーリア)。
「彼は『この森で暮らすなら公爵様の所に身を寄せるといい』と言って、公爵様のもとに連れて行ってくれました。私は公爵様にも不実なことをしていたので謝りましたが、公爵様も全てを許してくださり、新しい服も下さったのです」
「それで私は着替えたのですが、ふと弟を見ると彼の服もぼろぼろです。『ああ、ライオンと戦った時に敗れたのかな』と言って脱いでみたらたくさん血が出ていて。そしてそれを見てオーランドは気を失いました」
ロザリンドが気絶する。
シーリアが慌てる。
「ちょっと、しっかりして。ギャニミード、ギャニミード!」
「血を見て気絶するのはよくあることだ」
とオリバー。
「それだけではないみたい。しっかりして、ロス」
そこでロザリンドは意識を取り戻す。
「気がついたようだ」
とオリバー。
ロザリンドはかすれたような女声で言う。
「それでオーランド様は?」
「きっと血を見たことで初めて傷みを感じたのでしょう。ライオンと戦った時は気持ちが高揚していたので傷みも分からなかったのでしょうけど。彼は数分で意識を取り戻しましたが、すぐには立てないようでした。公爵様の部下の方が、傷口にお酒を掛けて消毒し、包帯を巻いてくださいましたが、2〜3日寝ていたほうがいいと言われていました」
とオリバーは説明する。
「ではもう大丈夫なのですね?」
とロザリンドはまだ女声のまま尋ねた。
「ええ。でも弟は私に、この状態ではオリーブの木に囲まれた家に住む、彼がロザリンドと呼んでいる若者との約束を守れないから、代わりに事情を説明して謝ってきてほしいと、このハンカチを託されたのです」
「私も少し休みたい」
とロザリンドは女声のまま言った。
シーリアが
「連れてってあげる」
と言ってロザリンドの肩を支えて立たせようとする。
しかしひとりでは重いので、オリバーに声を掛ける。
「すみません。片側を支えていただけませんか?」
それでオリバーはロザリンドの片側の腕を支えて上げたが、その時ロザリンドのバストに手が触れて「え?」という表情をする。しかし彼は一瞬考えてからこう言った。
「しっかりしなさい。あなた男でしょ?それとも金玉(*70)無いの?」
ロザリンドは男声に戻して言う。
「(男声だが女性的口調で)実は無いんです。(男性的口調に戻して)なーんちゃって!どうです?名演技だったでしょう?ぽくはロザリンド役をしていたから、オーランドが大怪我をしたと聞いて、ショックで気を失うという演技をしてみせたんです」
「いや演技ではない。その証拠にまだそんなに顔色が悪いではないですか」
「いえ、確かに演技です」
「でしたら、しっかり男の役を演じることですな」
「はい。頑張って演じます」
「それと私はあなたから返事をもらわなければならない。弟が約束を守れなかったことを許してもらえるかどうかの」
「それは考えておきましょう。それより私がしっかり彼の恋人を演じたことを彼にお伝え下さい」
それで男装のロザリンドはシーリアとオリバーに支えられて家の中に入った。
(*70) 原文は man's heart.“男の心”だが、改変した!
(*71) 旧約聖書・詩篇にこのようにある。
詩篇91.11-13
11.主はあなたのために、みつかいに命じて、あなたの道のどこにおいても、守らせてくださる
12.彼らはあなたをその手にのせて運び、足が石に当たらないように守る。
13.あなたは獅子と毒蛇を踏みにじり、大地を踏んでいく。獅子の子と大蛇を踏んで行く。
このエピソードは聖書の一節に合わせて、オーランドを神の使いに擬したものと言われる。
(*72) この年代にヨーロッパにライオンは居ない。ライオンはBC480年頃にはギリシャでよく見かける動物だった。しかしBC300年頃には既にギリシャでは稀少な動物になっていて、AD100年頃には居なくなった。但しコーカサス地方には10世紀頃まで残っていたという。どっちみち16世紀のイングランドやフランスにライオンが居たとは思えない。
このライオンのエピソードはひとつは↑に記した詩篇の文章を想定したもの、もうひとつは“ピューラモスとティスベー”の話を下敷きにしたと考えられる。“血染めのハンカチ”もそこから来たものであろう。
『ピューラモスとティスベー』とは下記のような話である。前出オウィディウスの『変身物語』に収録されている。この話は西洋の文学には多数引用・利用されている。
昔バビロンの町に、ピューラモスという青年とティスベーという娘が住んでいた。ふたりは壁で仕切られた隣同士の家に住んでいたが親同士の仲が悪く、結婚させてもらえる望みは薄かった。
2人は思いあまって駆け落ちしようと決めた。その夜ティスベーが待ち合わせ場所に来るとピューラモスはまだ来ていなかった。泉のそばで待っている内に彼女はライオンのうなり声を聞き慌てて逃げ出す。ところがその時ベールを落としてしまった。
ライオンは近くで何か動物を食べ、泉に水を飲みに来たところだった。そしてライオンはそこにベールが落ちているのに気づきそれにじゃれついていたが、それでライオンが食べた動物の血がそのベールに付いた。
やがてライオンは去るがその後ピューラモスがやってきた。あたりを見るがティスベーの姿は無い。ふと見るとライオンの足跡があり、血染めのベールが落ちている。ティスベーの愛用品で見覚えがある。彼はティスベーがライオンに食べられてしまったと誤解する。それで彼は絶望して自殺してしまった。
その後、ティスベーが戻ってくる。するとそこでピューラモスが死んでいるのを見る。彼女はショックのあまり自分も自殺してしまった。
この物語は『ロミオとジュリエット』の話のルーツではないかと言われる。15世紀頃から類話が多くの書き手により書かれているが、シェイクスピアの『ロミオとジュリエット』は1595年頃に書かれたと思われる。
しかしシェイクスピアは恋人たちが最後に死んでしまう結末に不満があったのではと思われる面がある。それで1599年(上演は1603年)のこの『お気に召すまま』(*73), 1609年頃に書かれたと思われる『シンベリン』でハッピーエンドの物語を書いたのではなかろうか。
『シンベリン』は『白雪姫』の物語のルーツで、毒で仮死状態になっていたところを通り掛かりの将軍に助けられるのだが、こちら『お気に召すまま』ではライオンを倒して生き延びる力強い男主人公が描かれる。女主人公のほうも神経が丈夫で、逞しい精神の持ち主として描かれている。ロミオとジュリエットの2人の神経の細さに比べると、オーランドもロザリンドも安心して見ていられるキャラである。
(*73) この劇が初演された1603年というのはイングランドに安定と繁栄をもたらした名君エリザベス1世が亡くなった年でもある。
エリザベス1世は女性の君主の結婚問題が様々な問題を引き起こすのを嫌って自分は結婚しないと宣言したので“処女王 (virgin queen)”とも呼ばれる。ただし公然の恋人(Robert Dudley)は居た。
ダッドレーはメアリ1世の治世下でエリザベスが幽閉されていた頃からの恋人で、メアリ1世の死後エリザベスが王宮に入った時、馬頭の名目で連れてきた。エリザベス1世の下で伯爵に任じられるが政治的にはほとんど無能であったため、結局女王と結婚することができなかった。晩年は別の女性と結婚して女王の怒りを買った。しかしエリザベスは亡くなるまで彼とやりとりした手紙を大切にしていたという。
シェイクスピアは1580年代から劇作家として活動するようになったと思われ、1592年に別の劇作家がシェイクスピアのことを低俗だと批判する文章を書いているので、その時期にはかなりの売れっ子になっていたものと思われる。
1504年に宮内大臣 Henry Carey の庇護下で設立された宮内大臣一座 (Lord Chamberlain's Men) でメイン座付き作者となり、以降シェイクスピアの作品はこの劇団で上演されていくことになる。『お気に召すまま』の初演はWiltshire州Salisbury近郊のWilton Houseという“カントリーハウス”(後述)でおこなわれたと思われる。
宮内大臣一座はエリザベス1世が亡くなった後、ジェームズ1世(*74) の直属となり、国王一座 (King's Men) と改名された。この一座が 1599年に建てた専用劇場がグローブ座 (Globe theatre) である。ここは野外劇場で3000人ほどの収容能力があり入場料も安かったが、屋外なので天気が悪いと公演できないし、冬季には公演できないという問題があった。
それで1609年には屋内劇場のブラックフライヤーズ劇場 (Blackfriars Theatre) も獲得した。こちらは屋内である代わりに狭く数百人しか入らなかった。入場料も高かった。しかし劇場を2つ持っていたお陰で、1613年にグローブ座が火事で焼失した時も全ての台本・衣裳は失わずに済んだ。グローブ座は翌年には再建された。翌年に再建できるというのがこの劇団の経済力を示している。
(*74) エリザベス1世は結婚しないまま、当然子供も作らないまま亡くなったので、その後継はスコットランド国王のジェームズ6世がイングランド王を兼任し、イングランド王としてはジェームズ1世となった。
彼は、ヘンリー8世の姉マーガレット・チューダーの曾孫である。マーガレットはスコットランド王ジェームズ4世と結婚してジェームズ5世を産み、その子が有名なメアリ・スチュアートで、スコットランド女王になりメアリ1世となっている。似たような時期にイングランドとスコットランドにメアリ1世が居たのでとても紛らわしい。
Mary I of England (1516-1558 在位1553-1558)
Mary I of Scotland (1542-1587 在位1542-1567)
そのメアリ・スチュアートの子供がジェームズ1世で彼が現在の英国王室の祖である。彼はカトリックではあったが、中道的なイングランド国教会を支持し、当時は、イングランドは国教会、スコットランドはカトリックという別の宗教が国教となっている状況が妥協的に成立していた。
ジェームズ1世からアン女王までの英国王室はスチュアート朝と呼ばれる。
ジェームズ1世の後は、息子のチャールズ1世が継ぐが横暴な政治をして清教徒革命で処刑される。王を処刑したクロムウェル(*75) のもとで“イングランド共和国”(Commonwealth of England) が成立するがクロムウェルの死後は王党派が巻き返し、チャールズ1世の子供のチャールズ2世が国王の地位に復帰した。クロムウェルの遺体は墓から掘り出されて、国王殺しの大罪人として斬首され、晒し首にされた。
チャールズ2世が子供を残さないまま亡くなり、王位は弟のジェームズ2世に引き継がれるが国民の反感を買い、名誉革命で追放される。そしてジェームズの娘・メアリ2世と夫のウィリアム3世が共同統治王となり「権利の章典」を定めた。ウィリアム3世はジェームズの妹・メアリ・ヘンリエッタ・スチュアートの子供なので2人は従兄妹同士の結婚である。
しかし2人が子供を作らないまま亡くなったのでメアリ2世の妹・アン(ブランディー・ナン Brandy Nan (*76) )が国王となる。しかし彼女も子供を作らないまま亡くなったので、王位は遠縁のジョージ1世に引き継がれた。
ジョージ1世はチャールズ1世の姉(つまりジェームズ1世の娘)エリザベス・スチュアートの娘ソフィーの子供である。彼はドイツのハノーバーの領主であったため、以降ヴィクトリア女王(-1901)までの英国王室はハノーバー朝と呼ばれる。
(*75) 清教徒革命を起こしたオリバー・クロムウェルは、ヘンリー8世時代に宰相を務め宗教改革や修道院解散を断行したたトーマス・クロムウェルの姉妹の孫の孫である。
(*76) ブランディーが大好きだったので Brandy Nan と呼ばれる、“ブラッディメアリ”と音感が似ているが、こちらは国民から親しみを込めてこう呼ばれる。
彼女は物凄い肥満体質で、あまりの体重の重さのため、晩年は歩けなくなって車椅子で移動していた。彼女の棺は正方形であったという。
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お気に召すまま2022(14)