広告:放浪息子(10)-ビームコミックス-志村貴子
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■夏の日の想い出・胎動の日(12)

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「ね、このチケット凄く高いんじゃ?」
「買えば15000円」
「げっ」
「でも招待券だから。せっかくもらったけど音源制作の仕事は外せないから誰か適当な人にあげたいとおもってた」
「よし、聴いてこよう。私も保坂早穂は好きだよ。歌が本当にうまいよね、あの人」
 
「うん。それでさ、保坂早穂はね、デビューした時、16歳だったんだよ。ボクたちと同い年」
「へー」
 
と言った瞬間、私は政子と一度一緒に歌ってみたい気分になった。
 
「ね、今度さ、時間の取れる時にふたりでちょっと歌を歌ってみない?」
「へ?いいけど。私の歌が下手なのは知ってるよね?」
 
「うん。でも政子と歌ってみたい気がしてきた」
「ふーん。いいけど」
と言ってから政子は言う。
 
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「その時、冬は女の子の格好で来てくれるよね?」
「もちろん女の子として行くよ」
「ほほお」
と言って政子は楽しそうな顔をした。
 

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その週水曜日の放課後、私は事前に電話して紹介されてそちらの学校のレッスンに参加したいという旨を伝え、○○ミュージックスクールに出て行った。
 
以前ここのボイトレコースを受けていたので生徒番号は存在したが、以前の生徒証は持ってませんと告げる。それで丸花さんからもらった名刺を見せると、すぐに特待生を表す桜のマークの入った生徒証を再発行してくれた。そして最初のレッスンに参加する。
 
参加者は男女8人だったが、どうもその内私を含めて女子3人が特待生のようであった。授業では前半、声の出る仕組みを図式やCGなどを使って先生が説明した。後半はソルフェージュをした。ひとりずつ譜面を渡されてその場で歌う。最初の音がいきなり分かる子は半分で残りの子は「済みません。最初の音を下さい」と言い音をもらっていた。しかしこのクラスに出てきている子はみんなうまい! 恐らく全員デビュー予備軍なんだろうなと思った。
 
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私の番になる。譜面を渡される。8小節の短い歌である。さっと譜面を斜め読みして概略をつかむ。最初の音は分かるので歌い出す。
 
先生が「え?」という顔をした。何か間違ったかな?とも思ったが、構わずそのまま最後まで歌った。
 
「君、それじゃこれ歌ってみて」
と言って別の譜面をもらう。今度は長い曲だ。普通の歌謡曲である。Aメロ・Bメロ・サビ・Aメロ・Bメロ・サビ・Cメロ・Aメロ・サピ・サピと80小節。歌うのに♪=100で歌って3分以上掛かる。
 
私は「1分下さい」と言って急いで譜面を読む。最高音と最低音を確認してこの曲では今使ったアルトボイスでは歌えないこと、メゾソプラノボイスを使う必要があることを認識する。歌い出す。
 
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先ほどと違う声で歌い出したせいか先生が「へ?」という顔をしたが、静かに聴いてくれた。私が歌い終わった時、生徒たちの間から拍手が来た。
 
「君凄いね。よくこんなの初見で歌えるね」
「はい、初見演奏は得意です。スタジオミュージシャンしてるので、よく初見でキーボード弾き語りで歌ったりします」
 
「へー。じゃ、これピアノ弾き語りで歌える?」
と言ってまた別の譜面を渡される。
 
「はい。1分ください」
と言って、私は譜面を読んだ。やはりメゾソプラノボイスを使う必要がある。この声、可愛いすぎて、ぶりっ子みたいであまり使いたくないんだけど!
 
私は教室のピアノで即興で前奏を入れて、その後和音主体で弾きながら歌い出す。さきほどよりは少し短い、64小節の曲である。最後にコーダをまた即興で入れて演奏を終わった。また他の生徒さんから拍手をもらった。
 
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「君はこのクラスの生徒じゃないよ。申し送りをしておくから、明日の夕方にまた来てくれる?」
「あ、はい」
 

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という訳で、私は翌日も○○スクールに出て行った。受付で生徒証を出してと言われるので出すと、桜のマークをもう1枚貼ってくれた。「特別特待生」ということらしい。何が特別なんだろうと思いながら、教室に行くと、先生がひとりでいる。
 
「済みません、遅くなりました」
と言ったが、先生は
「いや、前のレッスンから引き続きここにいただけだから」
と先生は言った。
 
「じゃ少し早いけどレッスン始めましょう」
「あれ?他の生徒さんは?」
「このクラスは個人レッスン」
「えー!?」
 
特別特待生というのは、事実上○○プロのタレントさんと同格扱いらしい。逆に○○プロの歌手もこれと同等のレッスンを日常的に受けているということであった。○○プロでやる色々なイベントにも招待状出すから来てよね、などと言われた。あはは。何か、もうなしくずし的にこちらのプロダクションに填まりこんでいるような気がするよ。いいのかしら?
 
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取り敢えず歌ってみてと言われて譜面を渡されたので、私は1分間の予習時間をもらった後、歌った。
 
「あなたの歌は直すべき所がない」
と先生から言われた。
 
「完璧すぎる。むしろ私が習いたいくらい。でも敢えて指導するとしたら、情緒表現かな」
「情緒表現ですか?」
 
「この歌の歌詞を読んでどう思った? この歌はどんな歌?」
「失恋の歌です」
「うん。失恋したらどんな気持ち?」
「悲しいです」
 
「そう。でもあなたの今の歌は全然悲しくなかったよ」
「そうですね」
「失恋したことある?」
「あります」
 
「じゃその時のこと思い出しながら歌ってみよう。古傷に触るのは辛いけどさ」
「はい」
 
私は中学3年の時のSとの恋愛のことを思い出しながら歌ってみた。考えてみるとあれからまだ1年ちょっとしか経っていないのに、自分の生活は随分変わってしまった。
 
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あの時期は自分自身が男として生きるのか女として生きるのか迷いもあった。でも今はもう何も迷わない。女として生きるつもりだ。精子も保存したしもう男性機能は完全停止させてもいいし、こっそり去勢しちゃってもいいかなという気もしている。あの当時は趣味のひとつにすぎなかった音楽がもう既に自分にとって職業になりつつある。Sと別れて少しして知り合った和泉はもうプロになってしまった。和泉と一緒にカラオケで歌を歌った日々も思い起こされる。そして今自分もプロになりたいと思っている。モーリーさんは既に君はプロだなんて言ってたけどね。
 
そんなことを色々考えていたら歌いながら涙が出てきた。
 
歌い終わる。先生が拍手をしてくれた。
 
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「あなたちょっと注意しただけで凄くよくなる。飲み込みが早い」
 
そんなことを言いながらも先生は細かい所を注意してくれる。私はそれをよく聴いた。
 
そんな感じで最初の「特別特待生」としてのレッスンは終わった。
 

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翌日3月14日金曜日の午後はKARION音源制作のためスタジオに出て行った。私は畠山さんからさんざん、和泉はスターで私はただのスタッフだから身分も違うなどと言われていて、ちょっと気持ちの上で壁を感じてしまったのだが、和泉が「冬〜、久しぶり」と言ってハグを求めてきたので、ハグしたら何だか普通に話して構わない気がした。
 
実際の音源制作の作業は翌日からなのだが、今日は譜面を配って打ち合わせをする。来ているのもKARIONの3人、相沢さん・黒木さんと私の6人だけである。相沢さん・黒木さんも、今後可能な限り毎回音源制作やライブに参加してもらえないかと言われていた。
 
今回もまたゆきみすずさんの作品で『風の色』『丘の向こう』という曲と別の人が詩を書いた『トライアングル』という曲である。『風の色』だけが木ノ下大吉さんの作曲で、それをタイトル曲にする。
 
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「この『トライアングル』ってメインボーカルが5人ですね」
「そそ。いずみちゃん、こかぜちゃん、みそらちゃん、らんこちゃんの4人に1月のイベントに参加してもらった、ほつみちゃんにも参加してもらう」
「わぁ!」
「彼女には月曜から水曜までの3日間来てもらうことにしているから、それまでにこの曲を仕上げよう」
 
「ライブではコーラス隊の子の2人が前面に出てきて5人で歌う演出にする」
「なるほど」
 

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翌日土曜日は朝からスタジオに入り、最初に和泉たちが歌の練習をしやすいようにするための練習用音源を作る。ベースの木月さんという人とドラムスの山田さんという人が入り、相沢さんのギターと私のキーボードで軽く演奏し、それを収録した。
 
それで3人が練習している間に、こちらは本格的な伴奏音源の制作に入る。さきほどは軽く演奏した所を今度はきちんと譜面通り正確に演奏していく。ゆきみすずさんの指示で、微妙なシンコペーションなども入る。多少の譜面の修正なども入った。ゆきみすずさんは一応作詞者ではあるが、この2枚目のシングルまではKARIONのプロデューサーでもあった。
 
(3枚目のシングル制作の直前に病気で入院なさったため、結果的に4枚目のシングルからソングライター陣も一新して方向転換が図られることとなった)。
 
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基本の4つの楽器の音がだいたい定まった所で黒木さんのサックス、私のヴァイオリン、そして歌の練習を中断してブースからセンターに出てきたいづみのグロッケンシュピールの演奏を収録する。和泉もここ数ヶ月自宅にもコンサート用グロッケンを買ってかなり練習したらしく、前回の音源制作に比べて随分うまくなっていた。3回でOKが出る。
 
そういう訳で、伴奏の方は土曜に1曲目、日曜に2曲目、月曜と火曜で3曲目の収録が終わり、木月さんと山田さんはそれでご苦労様でしたということにした。(ギャラは日曜日の分まで9日分が支払われる)
 
日曜日から、伴奏の1日遅れで歌の収録が始まる。実際には1曲目の収録は午前中で終わり、そのあとは2曲目の練習をして、月曜日に2曲目の収録、火曜日に3曲目の練習、そして水曜日に3曲目の収録をした。
 
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この3曲目の収録には、私と穂津美さんも参加した。ポップスでは珍しいワルツの曲で、5つのボーカルが絡み合うように歌が進行していく。
 
「冬ちゃん、先月聴いた時より歌がうまくなってる」
と穂津美さんから言われる。
 
「うん。1月のイベントの時からも凄い進化している。去年暮れの音源制作の時からすると、別人くらいにうまくなってる」
と和泉も言う。
 
「私は全力で和泉たちを追いかけるから、追い抜かれないように和泉たちも頑張ってよ」
「よし、分かった」
と言って、私たちは硬い握手を交わした。
 

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「蘭子ちゃん、マジでこの音源制作が終わった後、君のデビューについて話し合わない?」
と畠山さん。
 
「今デモ音源を制作中なんですよ。5月くらいまでにはできると思うので、それができたら聴いてください」
「うん」
「それと、実は○○プロの方からもかなり誘われていて、一応今向こうのスクールに出席して歌の指導を受けているんですけどね」
 
「やはり本格的競合かな。向こうは資本力あるだろうから厳しいけど、僕も契約金少々は頑張るよ」
「私は契約金の額で決めたりはしませんよ〜」
などと言ったら、和泉が
 
「社長〜、私たち契約金とかもらってない」
と言う。
 
「あっと、君たちには年末にボーナス出すからさ」
と言って畠山さんは頭を掻いていた。
 
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