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(C)Eriko Kawaguchi 2016-10-21
“ミチ”は出生名・桃川春道として1978年2月27日5:56、北海道の奥尻島で生まれた。
北海道の地理を言うと、利尻島・礼文島は北端の稚内の西40-50kmの場所にあるが、奥尻島はずっと南、渡島半島の真ん中付近から西30kmほどの所にある。江差町からは50kmほど西北、函館からなら100kmほどである。
島との交通はフェリーと飛行機があり、フェリーは江差町からは通年、せたな町からは夏期のみ連絡がある(夏は江差便が1日2本、せたな便が1本、冬は江差便が1日1本)。飛行機は函館空港との間に1日1便である。
ミチは物心ついた頃から自分は女の子だと思っていた。しばしば姉の服を勝手に着ていたりしたという。
友人たちはミチの「性別」をそれなりに理解してくれていた。しかし親は頑なに拒否し、男を強制した。
ミチは「ただひとりの男の子」として、何事でも姉よりも優先されていた。御飯はいちばん美味しい部分を与えられる。お風呂には父の次に入る。父が出港している間は一番風呂である。お菓子が1つしか無かったら、姉には我慢させてミチがもらっていた。それで姉からは嫉妬され意地悪された記憶も多い。色々物を壊したのを随分ミチのせいにされた。
父親からは常に男らしくあれと言われ続けた。近所の悪ガキにいじめられたら「殴り返して来い」と言い、殴ってくるまで家に入れないと言われて閉め出される。ミチは運動が苦手で水泳もできなかったが「漁師の跡取りが泳げなくてどうする?必死で手足を動かせば泳げるようになる」と言われて、ふんどし1丁で海に放り込まれたりしたこともある(マジでおぼれて近所の人が助けてくれた)。
また母親はミチが姉の服を着ているのを見ると物凄く怒り酷く折檻した。
「男の癖に女の服を着るような変態はろくな者にならん」
などと言って、着ていた女物の服を全部脱がされ、裸で真冬の屋外に放り出されたりした。
「こんな悪い子はちんちん切ってしまう」
などと言って、包丁をちんちんに当てられたこともある。ミチ自身はちんちん切って欲しいと思っていたので、むしろ期待して見ていたら、全然反省していないと思われたようで、母は少し血が出るくらいまで皮膚を切った。しかしちんちんを切り落としてはくれなかった。
ミチは「切り落としてもらえなくて」泣いたが、母は「痛い目にあって反省して泣いた」と思ったようであった。
ミチはその傷が治るまで、母から「これ付けてなさい」といわれて厚い布のようなものをもらい、当てていたが、それがナプキンという女性専用の品であることを当時のミチは知らなかった。
ミチは音楽が好きで、よく歌を歌っていたし、小さい頃から姉が習っているエレクトーンの教本を勝手に見て家にあった中古のエレクトーンを弾いていた。耳で覚えた曲も探り弾きをしていた。
もっとも、これを姉がいる時にやると
「私のエレクトーン勝手に弾かないでよ」
と文句を言われていた。
自分もエレクトーンかピアノを習いたかったものの、母に言うと
「男がピアノとか習ってどうする?」
などといわれ、相手にしてもらえなかった。
そんなことを言われる度にミチは女の子になりたいと思った。
ミチが両親や姉と心理的な距離を感じたままの生活を送っていた中で、友人たちは結構ミチの「趣味」に協力的で、少し古くなった女物の服を譲ってくれたり、女物の下着を買いに行くのに付き合ってくれたりした。それで親には内緒で結構女の子の服を着て友達と遊んだりしていた。またそういう女物の服を保管してくれる友人までいた。
ミチは勉強も頑張ったので、札幌の公立高校に合格することができ、奨学金をもらって札幌に出てきた。友人たちの多くが島内の高校に進学する中、彼女がわざわざ札幌の高校に進学したのは、勉強のレベルの問題もあるにはあったが、居るだけで辛い家庭にこれ以上居たくなかったことと、「自由に女装したい」という気持ちがあったからだ。もっとも父は「これからの漁師は学問もできなきゃいかん」と言って札幌の高校に送り出してくれた。
ミチは学校には一応男子の制服で行くものの、学生服の下には白いブラウス、その下には女の子シャツと女の子パンティをつけていた。そして学校から寮に戻ると自室ではずっとスカートを穿いて過ごしていた。ミチは高校入学以来、もう男物のブリーフは穿かなくなった。でもまだブラジャーをつける勇気は無くて、実は最初に買ったブラジャーはサイズが合わなくて着けられなかった。
父からは野球部でも柔道部でもいいから運動部に入れと言われていたのだが、ミチはそもそもいつも体育が1だったし走ると100m走るのに35秒くらい掛かっていた人なので、運動部など入れてと言っても入れてもらえる筈もなかった。ミチは親には黙って合唱部に入った。
ミチはアルトの声域が出ることをアピールして、アルトに入れてくださいと言ったものの、顧問の真枝先生は、男子をアルトに入れる訳にはいかないと言い、テノールに入れられる。それでもミチは練習する曲のソプラノパート、アルトパートも一所懸命練習していた。
そんなミチを見ていて真枝先生は
「あなたテノールに入りたくないなら、いっそピアニストになる?」
と言った。
「私、姉のエレクトーンを自己流で弾いていたんですけど、ピアノは弾いたことがないんです」
とミチは言ったが
「練習すればいいよ!」
と先生は笑顔で言った。
ピアノが未経験でエレクトーンだけ経験している人は、楽譜の読み方や和音・音階などの理論などは分かるものの、指の力が足りなくてピアノの重い鍵盤を打てない。それでミチはボールを握ったり、指立て伏せなどもして指の力を付けた。弾き方そのものについてはクラスメイトや合唱部でピアノのできる子が色々教えてくれたし、真枝先生も結構昼休みなどに教えてくれた。
それで5月の下旬には、ミチは簡単な曲なら左手で和音を4分音符刻み弾きしながら右手でメロディーを弾く程度の演奏はできるようになる(エレクトーン弾きにはいちばん易しいピアノ奏法)。左手アルペジオ奏も6月頃にはできるようになった。
「桃川君、君音楽の才能があるよ。3年生が抜けた後の秋以降は正式に合唱部のサブピアニストになってもらおうかな」
と真枝先生はミチの上達ぶりを見て言った。(一応最上級生からメインピアニスト、その下の学年からサブピアニストを選ぶ)
「あんた初見や即興に強いんだよね」
「たくさんポップスを弾いてきたからかも」
「聴き取り奏は凄い完璧だもんね!」
そんな中、高校最初の学期が終わろうとしていた1993年7月12日(月)22:17北海道南西沖地震が発生。震源すぐ近くの奥尻島を高さ30mを越える津波が襲った。
この日、ミチは寮の自室で宿題をしていたのだが、寮母さんが飛んできて
「桃川君、奥尻島が大変なことになっている」
と知らせてくれた。
何も情報が無い中、ミチは寮母さんの部屋で夜通しNHKを見ていた。そして夜が明けた後も、教室にも出て行かずにずっと1日テレビを見て過ごした。実家や親戚の家などに電話してみるもののつながらない。どうも向こうの電話線自体がいかれているようである。
夕方、出身中学の水野教頭から電話がある。警察の無線電話を借りて電話してきたということだった。
「桃川君。君に辛い話をしなければならない」
と水野先生は言った。
「君のご両親、お姉さんが津波で亡くなった」
担任の坂下先生と、合唱部の真枝先生がミチに付き添ってくれて、やっと再開されたフェリーに乗り、ミチは奥尻島を訪れた。
亡くなったのは両親と姉だけではなかった。双方の祖父母や何人もの親戚、そして多くの友人が命を落としていた。ミチの実家があった地区がいちばん津波の被害が激しかったのである。津波で全て持って行かれて何も無くなりただの瓦礫の山と化している実家付近の様子にミチは衝撃を受けた。
この地震・津波による死者行方不明者は230人に及ぶ。その内202名が奥尻島である。
集落合同の葬儀に出席し、白木の骨箱多数は現地のお寺さんに委託する。ミチはお寺さんに払う供養料も無かったが、顔見知りの住職さんは「君がおとなになってお金に余裕ができてから少し納めてくれればいいから」と言って無料で預かってくれた(火葬代金は災害救助法により自治体が払ってくれる)。
高校は、ミチの成績が校内でも10位前後という優秀なものであることから、授業料を全免すると言ってくれた。それでミチは取り敢えず高校はやめずに済んだものの、月1.5万円の奨学金で教材費・生活費をまかなえるものか不安だった。しかしそれ以前に思考停止状態に陥っていた。
地震からわずか半月後の7月23日、ミチの連絡役を務めてくれている水野教頭から連絡が入る。
「桃川君、義援金の第一次配分が出ることになったから、口座番号教えて」
「あ、はい」
義援金か・・・2〜3万くらいもらえるのかなあと思い、通帳のつけ込みにいったら、奥尻町から21万円も振り込まれていたのでびっくりする。水野先生に電話する。
「あのぉ。21万円も入っていたんですが」
「亡くなった方1人あたり3万円、取り敢えずのお見舞い金として配布したんだけど、これはあくまで第一次配分だから。まだ義援金が入って来たら、もっと渡せると思う」
両親と姉、両方の祖父母で合計7人亡くなっているので、3x7=21という計算らしい。ミチは命が金に換えられているみたいで不快だったものの、とにかくこのお金は助かった。
「助かります。私、こないだ奥尻島まで往復した時のフェリー代も担任の先生から借りたままなんですよ。取り敢えず返さなきゃ」
「僕としてはそれは当面借りたままにしておくことを勧める。多分もっと色々お金のかかることがあるよ」
「そうかも」
途方に暮れていた所で、21万円もらい、もしかしたら何とかなっていくかもという気持ちになると、取り敢えず夏休みの間、合唱部の練習に出て行くだけの元気は出た。
担任の先生に、義援金を少しもらえるみたいなので、それで先日借りた交通費を返しますと言ったら
「ああ、それ出したのは真枝先生」
と言う。それであらためて真枝先生にその件を言ったら
「じゃ、義援金の配分が完全終了したら返してもらうよ」
と言って笑っていた。
ともかくも合唱の練習に出ていくようになったことで、少し生活のリズムが戻ってくるものの、それでも寮の部屋の中でぼーっとして過ごしている時間が結構あった。その間、ミチは部屋の中で女の子の格好をしていた。練習に行く時だけ学生ズボンを穿いたが上はワイシャツと見せて実はブラウスを着ていた。
この頃は既にミチの「女装癖」は寮生の間でもバレていたので、寮の食堂に行く時は開き直ってスカート姿のまま行ったりもしていた。そういう「女性化の進行」が実はミチの心を支えていた。
お盆が過ぎた時、合唱部の真枝先生が彼女に言った。
「桃川君。私があなたの保護者になってあげる。うちで暮らさない?大学を出るまでの学費も面倒を見てあげるよ」
奥尻島の外に頼れる親戚などもなく途方に暮れていたミチはその申し出を受けたいと思った。しかしそこには大きな問題があった。
「私、実はオカマなんですけど、いいですか?」
とミチは勇気を出して言った。
「知ってるよ」
と先生は笑顔で言った。
「だから、桃川君が女の子の服装をしていたかったら、していてもいいからね。女の子の服も、パンティーやブラジャーも買ってあげるよ。私、娘が欲しかったけど、男の子しかできなかったからさ、桃川君が私の娘になってくれると嬉しいな」
ミチは涙が出る思いだった。ミチは
「済みません。他に頼る人がいないんです。よろしくお願いします」
と頭を下げた。
「OKOK。私をホントにお母さんだと思ってもらっていいからね。だから、私のことを『お母さん』と呼んでいいよ」
と言ったあとで先生は少し悩むように言った。
「春道ちゃん、ナプキンは要るんだっけ?」
「えっと・・・実は使い道が無いんですけど、時々つい買っちゃいます」
と恥ずかしそうに答える。
「うん。それもいいんじゃない」
と真枝先生は笑って言った。