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ちょうどそこに足音がする。
「ご住職ですか?」
「あ、うん。眠れなかった?」
「いえ。寝ていたのですが、ちょっとこれを見ていただけますか?」
「ん?」
それで千里が障子を開けるので、住職が入ってくる。
「これは桃川君の字だね。あの子悪筆なのをずっと気にしてたよ」
「この字の乱れはある種の病気かも。でもこれ歌詞を推敲した跡みたいです」
「確かにあの時、けっこうな時間、推敲をやっていたよ。これどこにあったの?」
「そこの文机の中に。なんか凄くそこが気になったので、勝手に開けてはいけないとは思ったのですが」
「この文机は確かに以前本堂に置いてあった。なぜこのノートがここに入っていたのかは僕も分からないけど、村山さんに見つけられるのを待っていたのかも知れないね」
「このノートお預かりしていいですか?」
「もちろん」
千里は朝御飯まで頂いてからお寺を退出することにする。宿賃にと1万円札の入った封筒を渡そうとしたが、住職は「桃川君の友人からお金は取れないよ」というので、地震・津波で亡くなった人たちの菩提供養にということで、やっと受け取ってもらえた。それで出ようとしたのだが、
「あれ?なんか本堂に入れる気がします」
「ああ。なんか御本尊さんがおいでおいでしてるね」
それで千里は住職と一緒に本堂に入る。それで千里は御本尊の前で合唱した。そして自然と、般若心経が出てきた。
「観自在菩薩、行深般若波羅蜜多・・・・」
と千里は心経を唱えたが、終わった後、ご住職は
「こういう心経を聴けるというのは、僕も75年間生きて来た甲斐があったと思った」
と言って喜んで(?)いた。
千里は、帰りも裏口から退出させてもらった。青苗地区の慰霊碑を再度見てから空港まで歩いて行き、
奥尻1220-1250函館1610-1650新千歳1855-1940女満別
という連絡で美幌町のチェリーツインが拠点としている牧場に入った。女満別空港には桃川さんと大宅さんが迎えに来てくれた。
牧場で八雲・陽子たちとも一緒に夕食を頂く。秋月さんは今スキーに行っているということで不在だった。
「いつも大宅さん・秋月さんって一緒に行動しているのかと思った」
と千里。
「僕たちの関係って結構誤解されている気もする」
と大宅。
「私は恋人同士なのだろうと思ってましたが」
と八雲。
「そこが男性同性愛なのか、女性同性愛なのか、意見が分かれるんだけど」
と陽子。
「うーん・・・・」
「ひょっとしてふたりの内の一方は性転換しているのではという説もあったもんね」
「そんな馬鹿な!?」
食事が終わった後で、千里がまずはお寺で発見したノートを見せると、桃川さんはびっくりしていた。
「私、こんなものを残していたんだ!」
「覚えてないんですか?」
「全然」
「でも春美さんの字ですよね?」
と八雲。
「うん。間違いなく私の字」
と桃川。
「やはり色々記憶が飛んでいるんだろうね」
と大宅が言う。
「でもこれがあったら、歌詞を復元できるでしょ?」
「できます!」
「それ完全に元の形にすること考えるより、今のハルちゃんの感覚でいちばんいいと思う形にすればいいよ」
と大宅さんは言っている。
千里が慰霊碑の所でチャネリングにより獲得したメロディーも見せる。
「わっ、こんな感じです、こんな感じです」
「ここから復元できる」
「ちょっと待って」
と言って桃川さんは譜面を見ている。
「そうか!ここはこんなメロディーだったんだ!」
「じゃ復元できそうですか?」
「できると思う。これ凄く助かる」
結局桃川さんはその夜、徹夜で楽曲の復元をしたようである。
1月8日朝、朝食の席で見た桃川さんは目は真っ赤にしているものの、物凄く充実した顔をしていた。
「2008年の春頃に1度復元を試みた時の譜面とも見比べながら、書いてみた」
などと言って千里たちに譜面を見せる。
千里は彼女が書いた譜面をじっと見ていた。
「推敲していい?」
と千里は訊く。
「はい!」
それで千里はその譜面のコピーを取ってから、赤いボールペンで推敲していく。千里が手を入れているのは、ひとつは構成の問題。もうひとつは細かい音符の動きの問題である。桃川さんが音楽理論をしっかり叩き込まれている人だけに和音の勘違いのようなものは無いものの、アピール性を高めるために敢えて和音を変更した方がいいと思う所は変えさせてもらった。
「わぁ、だいぶ添削されちゃった」
「ちょっとそれ清書してみよう」
と大宅さん。
千里は一方で復元された歌詞を蓮菜にFAXで送り、添削してくれと言った。それがこちらでメロディーの清書をしている間に届く。
「主として文法誤りとか、韻の踏み方、それと表現上の問題で手を加えたと言ってます」
「わあ、こちらも真っ赤」
しかし清書した譜面に、蓮菜が手を入れた歌詞を乗せてみると、物凄く魅力的な歌になった。
「これ凄くいい!」
「CDにしたいね」
「雨宮先生はそのつもりだと思いますよ。私に1月15日までに復元しろと言ったので。もっとも復元作業自体は結局桃川さん本人にしてもらいましたね」
「じゃこれすぐCubaseに打ち込んで雨宮先生に送ります」
と桃川さんは言った。
千里はこの日(1月8日)の午後の便 女満別1435-1525新千歳 で札幌に移動し、札幌P高校に入って、合宿に復帰した。
札幌P高校宿舎でのP高校とN高校の合同合宿はN高校が1月6日に旭川に移動し、7日に学校で校長にウィンターカップの成績を報告した後、8日から再開された。これを17日まで10日間続ける。
内容としては朝1番に練習試合をした後、マッチング練習・シュート&リバウンド練習、パス練習、ドリブル&ランニングシュート練習などを小グループに分かれて順次繰り返していく。ひじょうにヘビーな練習である。
食事作りは札幌近郊に住む、N高校・P高校のOGの人たちに協力を求めてやったが、
「あんたたち、こんなに食べるの?」
と最初の内は予想を遙かに超える食事の消費量に驚いていたようである。
9日(土)の昼、千里が昼食後少し休憩していたら電話に着信があるが、見ると父である。
「明けましておめでとう、お父ちゃん」
「千里、明日は成人式だけど、お前留萌に戻ってこないの?」
「成人式は来年だよ!」
「あれ?そうだったっけ?いや、成人式の衣装はスーツかなあ、紋付き袴かなあとか考えてた」
「成人式の衣装ね〜。やはり振袖かなあ」
「それは女だろ?」
「え?振袖着ちゃだめ?」
「気色悪いこと言うな」
でも私、ほんと成人式は何着よう?と千里は考えていた。振袖持ってないしなあ。いくらくらいするんだろう、などと考える。
「でも今年の正月、帰って来なかったけど忙しいの?」
「うん。今年は高校の後輩たちと一緒に合宿やってたんだよ」
「それで帰って来られなかったのか」
「うん。ごめんねー」
「今どこに居るの?東京?」
「あ、いや札幌なんだけどね。今回は仕事で奥尻島から美幌町から飛び回ったよ」
「大変だな!」
「奥尻から美幌までは移動に丸一日かかった」
「1日で済んだ?2日掛かるかと思った」
「飛行機の乗り継ぎしたからね」
「金かかったろ!」
「交通費は会社から出るからいいんだよ」
「だったらいいか」
「でも札幌にいるんだったらさ、明日、俺札幌でスクーリングあるんだけど、授業が終わった後、一緒にラーメンでも食わんか?」
「まだ合宿やってる最中だから難しいかも」
「でも4月以来、お前の顔見てないしさ」
確かにこの1年は忙しくて全然留萌に戻ってないなというのも考える。たまには親孝行するか。
「うーん。じゃ札幌でラーメン食べて、1日合宿から抜けてお父ちゃんを留萌まで送ろうかな」
「おお、そうしなさい、そうしなさい」
それで翌10日の午後、千里が出かける準備をしていたら暢子から突っ込みが入る。
「千里、その格好はどういう冗談だ?」
「男に見える?」
「見えん」
「うーん・・・・」
「まあ、メンズの服を似合わないのに着ている女くらいには見える」
「やはり女にしか見えない?」
「千里の男装には無理がありすぎる」
「でもお父ちゃんに会うんだよ」
「千里まさか、親に女になっていることまだ言ってないの?」
「お母ちゃんは察していると思うけど、お父ちゃんは知らないと思う」
「それはさすがに酷い。ちゃんとカムアウトしてきなさい」
「それはいつかしないといけないとは思うんだけどねー」
暢子にそんなこと言われながらも宇田先生に挨拶して(宇田先生が変な顔をしていた)、宿舎を出て、バスで都心に出る。レンタカー屋さんでラクティス1496cc 4WD 4ATのモデルを借りる。初心者マークも借りて前後に貼り、ETCカードをさす。それで父との待ち合わせ場所に行った。
「その車買ったの?」
「レンタカーだよ。車まで買うお金無いよ」
「だよなあ。俺がもう少し稼げたらいいんだけど」
取り敢えず父を助手席に乗せて出ようとするが父がシートベルトをしていない。
「お父ちゃん、シートベルトして」
「こんな面倒なもんできるか」
「してないと捕まって点数1点取られるから」
「そんなの見つからないって」
「お父ちゃん、ちゃんとシートベルトしてくれないのなら降りて」
「そこまで言うことないだろう?」
「だからちゃんとシートベルトしてよ」
「もう面倒くさいなあ」
と文句言いながらも父はシートベルトをした。
ところが少し走った所にあった交差点で停まったら、千里の前にいた車の所に警官が寄ってきて窓をノックしている。やがて警官に誘導されて脇道に移動する。
「何だろう?」
「ここの信号は急に変わるんだよね。それで結果的に信号無視になってしまう人がよくあるから、それを捕まえてたんだと思う。でも前の車はきちんと停まったから、シートベルト違反じゃないかな」
「え〜?じゃ、俺シートベルトしてて助かったな」
「事故に遭った時、それで生死が分かれるから、ちゃんとつけてないとダメだよ」
やがて郊外のすみれ本店に入る。駐車場に車を駐め、中に入り、味噌ラーメンのチャーシュー・煮卵乗せを2杯頼む。
「ここ美味いな」
と一口食べて父は言う。
「ここ来たこと無かった?」
「初めて」
「けっこう評判で、東京から来た人とかにも人気なんだよ」
「へー。大したもんだな」
「しかしお前も結構よく食べるようになったな」
「まあ運動してるからね」
父が千里の腕をつかむ。
「腕もだいぶ太くなった」
「まあ運動してるからね」
「これなら漁船に乗れるかな」
「無理無理。私、握力20kgしかないから」
「そんなに無いのか!?」
父がトイレに行っている間にお勘定をすませた。それで一緒にお店を出ようとするが、出口の所で千里は
「あ、私もトイレ行ってくる。お父ちゃん、先に乗ってて」
と言って、車のキーを父に渡す。
「あ、うん」
それで父が外に出た後で、千里はお店の女子トイレに入る。
「ふう。なんか神経使うなあ」
と千里は思った。
トイレ問題で同行者に面倒な疑惑を持たれないコツは相手が行った後で自分が行くことである。