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ミチが就職した翌年の夏、亜記宏が彼の会社の同僚女性と結婚した。ミチは亜記宏と法的に結婚することはできないものと納得しているつもりではあったもののショックだった。しかし結婚式では、明るく「新郎の妹」として振る舞い、花嫁をサポートした。翌年にはふたりの間に女の子も生まれた。
この子供の誕生はまたミチの精神を落ち込ませた。結局自分は子供を産むことができないから、どうしても天然女性には勝てないという気持ちがとめどもなくミチの心を苛んだ。
なおミチは亜記宏が彼女と婚約して以降は1度も性的な関係を持っていない。実は何度か誘われたものの「彼女に悪いよ」と言って断った。
そして亜記宏の結婚以降、彼との関わり自体がほとんど無くなってしまったし、真枝先生の家にも何となく出入りしにくくなってしまった。
2007年、ミチは不幸の連続に見舞われた。
不幸が束になってやってきた感じであったが、いちばんショックだったのが、真枝先生が癌で急逝したことである。
亜記宏が喪主となり、親族なども来てくれて葬儀は済ませたものの、ミチは再度天涯孤独になってしまった気分だった。
そして先生の四十九日が済んだ後、唐突に亜記宏が
「高校大学時代の学資として貸したお金400万円を返せ」
という手紙を送ってきた。ミチ本人としては、いつか返したいと思っていたものの、具体的に先生との間で借用証書は交換していない。高校時代の生活費などについて先生は「返す必要は無い。あんたは私の娘なんだから」と言っていたが、亜記宏としては色々思う所もあったのかも知れない。
ミチは彼に電話して話し合おうとしたが、電話には出たくないようで取らない。ミチの方が弁が立つので、言い負かされるのを避けているのかとも思った。代わりに彼は「この恩知らず」とか「やはりオカマ野郎って非常識だ」とか執拗な精神攻撃をする手紙やメールを送ってくるので、ミチはノイローゼ気味になった。
ミチは彼と一時的には恋愛関係にもあったし「週末妻」になっていた時期もあったので、別れたとはいえ、その彼からそんな冷たい態度を取られて二重にショックだった。むろんミチには400万円も彼に渡すほどの資力は無かった。
そんな中、勤めていた楽器製造会社が倒産した。
給料は実は2年ほど前から残業代がカットされ、1年ほど前からは遅配が続いており、この時点で3ヶ月分未払いだった。夏のボーナスも出ていない。退職金が出るかどうかも不明という状況だった。どうもたちの悪い所から借金していたようで、会社に明らかにその筋の男たちがきて、社員を追い出した。社長夫妻も、社長の弟夫妻も消息不明であった。
これ以外にもミチはこの年、色々嫌なことがあって、ミチは死にたくなった。
性転換手術を受けるための資金として貯めていた120万円ほどの定期預金を解約して引き出し、更にクレカで限度いっぱい100万円キャッシングした。手持ち現金と合わせて230万円近い現金を手にした。
「これだけの現金があったら後先考えずにタイに行って性転換手術したい気分だなあ」
と独りごとを言う。実際には有名病院は何ヶ月も前からの予約が必要だ。
最初に住んでいたアパートを解約する。荷物はトランクルームに預けた。3ヶ月分の料金6万円を払う。移動は引越業者に頼み、これが4万掛かった。残金約220万円である。なお電気・ガス・水道・NHKは解約し、健康保険は任意継続にした。
奥尻島に渡り、親や姉の遺骨を預かってもらっているお寺にお参りをした。いつか墓も作りたいとは思っていたものの、とてもそこまでのお金は無い。
住職に
「ずっと払っていなかった永代供養料の足しに」
と100万円渡そうとしたが、住職は
「あんたの着ている服を見たらこれしか受け取れん」
と言って50万円は返してくれた。
「あ、やっぱり、しまむらじゃダメですかね」
「エルメスとか平気で着て来れるようになったらもう少し受け取るよ」
と老年の住職は笑って言った。
「ところであんた性転換手術はしたの?」
「まだお金足りないですー」
「ああ、あれ高いんだろ?」
「健康保険が利いたらいいんですけどねー」
「大変だね。でも手術したら戸籍の性別も直せるようになったんだって?」
「そうなんですよ。だからその内、ちゃんと手術して女になって、お嫁さんに行きたいんですけどね」
「おお、頑張りなさい」
しばらく話している内に住職が言った。
「色々辛いことあるだろうけど『物事はなるようになるべ』と思って、気張らずに生きて行こうよ」
と住職は言った。
ああ、死ぬつもりでいるのを見透かされたかなと思った。住職が
「これやる」
と言って、ガラスの玉をくれた。
「下から覗いてみ」
と言うので見ると、玉がレンズになり、中に封じ込められた小さな仏像の絵が見える。
「勢至菩薩だよ。君は午年生まれだから、午年生まれの人の守護本尊」
「ありがとうございます」
と言って、ミチはそれを財布の中に入れ、退出する。
帰る前にお経をあげてあげるよと言われ、本堂に行く。住職は随分長いお経をあげてくれた。お経の内容は分からないものの、ミチは何だか涙がぼろぼろ出てきた。
お寺のお堂を出た時、突然雪が降ってきた。太陽は照っているのに雪が降るという不思議な空模様だった。
その光景を見ていたら美しいメロディーが浮かんだので、お堂の軒先を借りて、それをいつも持ち歩いている作曲ノートに書き留めた。この曲に桃川は『雪の光』というタイトルを付けた。
ミチは本土に戻ってから、死に場所を求めてさまよった。死ぬ前に女の身体になっておきたいなと思ってその筋では知られた、旭川市内の性転換手術をしてくれる病院に行った。ここは実は高校時代に去勢手術をしてもらった病院でもある。
本式の性転換手術をしてしまうと数ヶ月動けないので自殺もできない。それでミチはペニスの単純切断をしてもらうことにした。少なくともペニスが無ければもう男ではないし、これなら我慢すれば何とか数日で動けるだろう。
それで入院して手術してもらい、一週間入院して退院の日、精算が終わるのを待っていたら、明らかに高校生くらいの『男の娘』が入ってきた。聞き耳を立てていると、彼女も陰茎切断術を申し込んでいた。ミチは考えた。
自分も高校生くらいに性転換しておきたかった。しかし真枝先生が、手術するのはいつでもできる。大学を出てからでも遅くないと言って、去勢手術だけ受けさせてくれた。
あの子も陰茎切断しようというのであれば、きっと既に去勢は済んでいるのだろう。
しかし高校生が、その先までしてしまうのは早すぎるとミチは思った。
それでミチはその高校生の所に行った。
「あんたにはこの手術はまだ早すぎる」
そう言うと、彼女は動揺していた。その動揺した様子を見て、やはりこの子に声を掛けたのは正解だったと思った。それで言う。
「逃げちゃいなよ」
その子は少し迷っていたようだったが、やがてミチにお辞儀をして裏口から逃げて行った。
陰茎切断術の費用は60万円と思っていたのだが
「あんたは以前うちで睾丸除去をしているから、その20万円を引いて40万円」
と言われる。
なんか儲けたような気分になった。
待合室で手元に残ったお金を数えてみると1,234,567円だった。
この数字すごーい!と思って思わず現金の写真を撮っておく。そのあと120万円を真枝先生の口座に振り込んだ。亜記宏の口座ではなくわざわざ先生の口座に振り込んだのは、せめてもの腹いせである。
この時、口座に残っていた千円以下の端数が振り込み手数料に足りないので、実際にはATMに120万1千円入金した。それで手元には33,567円の現金が残った。
そしてレストランに入って精密に計算しながら3万円ジャストになるようにオーダーして食べた。我ながらよく入るもんだと思った。まあこの世で最後の食事だからいいよね?これで残金が3567円になる。何となく旭川駅前からバスに乗る。これが旭岳山麓行きで運賃は1430円だった。残金2137円。
ああ、山を見ながら雪に埋もれて死ぬのもいいなと思った。それでロープーウェイの切符を片道(1200円)買い、上まで行く。
これで残金はもう937円になったので、帰りの切符を買うお金も無い。自販機で120円のコーヒーを買い、残金817円。
そして雪道を歩いている内に、本当に美しい景色が目に飛び込んできた。まだ凍っていない池に旭岳の姿が反射している。
「ああ、ここでいいな」
と桃川は思った。
気がついたら、男性2人に揺り動かされ、何度も頬を叩かれていた。
痛いじゃないと抗議したくなったが、声が出なかった。
「君、名前は?」
と訊かれる。
名前はえっと・・・私名前なんだっけ?と思ったものの、やがて自分の名前らしきものが口から出てくる。
「ももかわはるみち」
と言おうとしたのだが、口がうまく動かず
「ももかわはるみ」
くらいで切れてしまった。
「はるみさん?」
「取り敢えず意識あるみたいだね」
「ロープウェイの駅まで連れていくよ。俺の背中に乗って」
その後、また気が遠くなってしまったが、次に記憶がはっきりしているのは病院で診察を受けている時であった。
ミチはその2人の男性に自分の名前を「ももかわ・はるみ」と思われているようだということに気づくが、この時はあまり「生き延びる」気持ちが無かったので、それでもいいかと思った。
それで結局彼女の名前はそれ以降「桃川春美」で定着してしまう。
彼女を助けてくれた2人の男性は秋月・大宅と名乗った。ふたりは知人が経営している美幌町の牧場に行く予定だったと言い、春美にも一緒に来ないかと誘った。
春美は財布に817円しかなくて自殺のしようもないので、2人に付いていくことにする。
そしてこの牧場で桃川が出会ったのが、虹子・星子の姉妹である。
彼女たちは一卵性双生児の姉妹なのだが、言語障碍で言葉が話せないということであった。
「でもこの子たち歌が好きなんだよ」
と言って、大宅が古いカラオケの機械を操作して森高千里の『ストレス』を掛けると、姉妹はマイクを1本ずつ持って、楽しそうに「歌い」出した。
しかし彼女たちは発声できないので、むろん歌声は聞こえない。しかしいかにも楽しそうに「歌って」いるのである。
「なんか凄くいい雰囲気ですね」
「でしょ?この子たち凄く歌うのが好きなんですよ」
と秋月も言った。
春美はふたりの歌を見ていると、何だか楽しい気分になってきた。
牧場のオーナーはいい人で春美に
「何もしなくてもいいから、牛たちを眺めてごはんを食べているといい。まあうちは粗食だけどね」
などといっていた。
しかし何をしないのも悪いので、教えてもらって牛の乳搾りをさせてもらった。もっとも初日は牛のおしっこをまともに掛けられて、思わず悲鳴を上げた。
「それやられると何日か臭いが取れないんだよねー」
などと秋月は笑って言っていた。
春美が牧場に来た翌々日、女子高生くらいの女の子がふたり
「ただいまー」
「お邪魔します」
と言って入って来た。
「ただいま」と言った方はこの牧場に9月頃から勤めている子で、もう1人はその友達ということだった。
どちらも言葉遣いが東京の人である。