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それでミチは寮を引き払い、真枝先生の家で暮らし始めた。家賃食費代わりに奨学金を全額先生に渡した。先生は彼女のことを家庭内では「ミチ」と呼んでくれた(授業や合唱部では「桃川さん」と女子に準じた呼び方をしてくれた)。ミチも先生のことを「お母さん」と呼んだ。むろん校内では「真枝先生」と呼ぶ。
そして先生は法的にもミチの未成年後見人になってくれた。
先生がミチの後見人になって最初にしてくれたのは、相続放棄の手続きである。ミチの父は漁船のローンなどで多額の借金を抱えていたし、母もその保証人になっていた。またミチの姉も奨学金や学費ローンの債務が存在した。何も手続きをせずにいたら、その3人の債務が全部ミチに掛かってくる所だったので、裁判所に申請してこれを全部放棄した。お陰でミチは多額の借金からは免れた。
ミチは先生の自宅で暮らすことで、自宅のピアノ(小型のグランドピアノ1台と夜間練習用のクラビノーバ)でたくさん練習することができた。それでピアノの腕もどんどん上達していった。
先生は当時、事実上ひとり暮らしであった。ご主人は数年前に事故で亡くなっている。先生のご両親は函館でお兄さんの所で暮らしており、ご主人のご両親はご主人の妹さんが住む長万部におられるという話であった。
先生には大学1年生の息子・亜記宏がいた。彼の通う大学は市内ではあるのだが、自宅からはやや遠いので、大学近くのアパートでひとり暮らししている。彼の部屋はそのままにしてあるので、ミチはその隣の3畳ほどの部屋に入った。この家を建てた時、子供が2人できたら1部屋ずつ使わせればいいねと言っていたのだが、子供が1人しかできなかったので、その部屋は事実上物置になっていたらしい。これを亜記宏も入れて3人がかりで大掃除してそこで生活できるようにした。
亜記宏は普段はアパートに居て、時々自宅に戻ってくるのだが、それでミチとも結構話す機会があった。
「ふーん。ミチちゃん、そういう格好したら充分女の子に見えるじゃん。僕と一度デートとかしてみる?」
「え〜〜!?」
「僕が嫌い?」
「そんなことないです」
「じゃデートデート」
と言って彼はミチを度々町に連れ出してくれた。一緒に商店街を歩いたり、マクドナルドなどに入ってみたり、映画に一緒に行ったりしていると、何だか胸のときめきを感じた。私、亜記宏さんのこと好きになっちゃいそう・・・と当時ミチは悩んでいたが、戸籍上男である自分が彼の恋人になれる訳が無いと自分の気持ちを抑え込んでいた。むしろ自分は亜記宏の妹のような存在になれたらいいなと思っていた。
彼はミチのことを「みっちゃん」と呼ぶようになった。ミチは「お兄さんと呼んで良いですか?」と言ったのだが「アキとでも呼んで」と言うので、「アキさん」とか「あっちゃん」と呼ぶようにした。
真枝先生は自分でも色々調べてくれたようで、性転換のことも色々教えてくれた。
「大雑把に言うと、おちんちんとタマタマを取って、ヴァギナを作る手術ということみたいね」
「ええ。そうなんです。だから、ちゃんと男性とセックスできるようになるらしいです」
「すごいね。私もそこまでできるようになるとは思わなかった」
「私、その手術のこと知るまで、ヴァギナというものを知らなかったんですよねー」
「ああ。自分の身体についてないものはよく分からないよね。でも性転換して女の人になっても子供は産めないみたいけど、それは我慢できる?」
「そこまでは自分でも調べました。最初知った時はショックだったけど、仕方ないと思います。子供産めなくても女の身体になれたら、それでいいです」
「戸籍上の性別も変更できないから、男性と結婚することもできないけど、それも我慢できる?身体を女の身体にしてしまった以上、もちろん女の人とも結婚できないよ」
「それも悩んだけど、仕方ないです。我慢します」
「でも結局、手術を受けるにはタイに行くのがいいんですね?」
「今のところ、そうみたい。国内でもこっそりやっている病院はあるらしいけど、何かあった時のこと考えたら、正規の医療としてやっている所を使ったほうがいいよ」
(埼玉医科大が正規医療として性転換手術を始めるのは1998年である)
「でもお金かかりますよね」
「だいたい100万円くらいみたいね」
「きゃー」
「渡航費とか手術後のケアに掛かる医療費考えたら150万円、できたら200万円くらいは用意が無いとまずいと思う。さすがに出してあげられないけど、就職してから頑張って貯金して手術を受けなよ」
「はい」
「でも、その前に去勢だけしておく?」
「あ・・・・」
「去勢手術は20万円くらいでできるみたい。そのくらいなら出してあげるよ」
「だったら、それ、私、先生に借用書書きます」
「別にいいのに」
それでミチはその年の冬休みに旭川市内の某病院で去勢手術を受けた。また、その先生に処方箋を書いてもらって、女性ホルモンの飲み薬を飲むようになった。おかげで、ミチは高校を卒業する頃までにはAカップサイズのバストが形成されることになるし、肩なども張ったりせず、充分女として通用する身体になることができた。
亜記宏はミチが高校2年くらいになると
「最近、みっちゃん、女の子の香りがするね」
と言っていた。
「女の子の香り?」
「なんか甘酸っぱい匂いなんだよ」
「うーん。。。分からない。ホルモンのせいかなあ」
「だと思う。女の子同士では分からないのかもね」
その去勢手術を受ける直前、高校1年の12月、合唱部のクリスマス会で、ミチは合唱部のピアニストとしてステージ・デビューすることになる。近隣の高校の合唱部が集まって開いたイベントであったが、ここで2曲演奏する際の1曲は2年生の祐川先輩が弾き、もう1曲をミチが弾いた。
「ピアニストは特別だから、制服でなくてもいいのよね。背広とか着る?」
「あ・・・えっと・・・」
「それともドレス着る?」
「ドレス着たい!」
「よしよし」
実際には祐川先輩が白いドレス、ミチは青いドレスを着た。
ミチのドレスは先生が貸してくれたものだが、当日楽屋で着替えることになる。しかし学生服を着て女性用の楽屋に入りドレスに着替えるのは大いに問題があるので、ミチは青いセーターにチェックのスカートという女子高生っぽい格好で会場に入り、女性用更衣室で祐川先輩と一緒にドレスに着替えてステージに出た。
これは物凄く素敵な体験だった。
「ミチちゃん、ドレス着たら演奏技術が1割あがった気がする」
などと祐川先輩から言われ、
「だったら、私ずっと女の子の格好してようかなあ」
などと言ったりした。
「お母さん、私いっそ女子制服で学校に出て行ったりはできないかなあ?」
とミチは真枝先生に訊いた。
「そうだねえ」
真枝先生はその件を教頭先生に相談してみたものの、戸籍上男である以上、女子制服での通学は認められないという回答だった。
「正式にはダメということなんだけどさ、女子制服作るだけ作っちゃう?」
「作りたい!」
それで真枝先生は女子制服を作ってくれたので、それ以降、ミチは授業は学生服で受けるものの、放課後は女子制服に着替えて部活に参加したりするようになった。朝は色々問題があり難しいものの、下校時には女子制服のままで下校したりしていた。
また高校2年の時の体育の水泳の授業には体育の先生の許可を取って女子用水着で参加した。実際当時のミチはバストが発達し始めていて男子水着を着るのは問題があったのである。お股の所は先生がうまく処置してくれた。
「それ、チンコも取ったの?」
と男子のクラスメイトに訊かれたが
「ひみつ」
とミチは答えておいた。
ミチは北海道教育大学の特設音楽課程に合格。真枝先生が高校の校長とも共同で大学側と交渉してくれた結果、女の格好で通学するのは問題無いと言ってもらえた。学生証も『桃川美智』の名前で、写真も女の子っぽく撮ってもらった。
ミチは大学にはむろんずっと女装で通学し、女子トイレ・女子更衣室を使用していたので、そもそも彼女が女ではないことに気づく人は少なかった。ちょっと声の低い女だと思われている感じだった。
その年の秋くらいのことだった。
亜記宏とデートまがいのことをしていた時、彼が言った。
「みっちゃん、知ってる。男でもね、女の声を出す方法があるって?」
「えっと・・・・それカストラートとか?」
「うん。変声期前に睾丸を取っちゃうのはひとつの手。でも変声期が過ぎてから睾丸取っても変声前の声に戻ることはできない」
「うん。だから私ってこんな声」
「ところが変声してしまっている男でも、実は女の声が出せるんだって」
「ほんと!?」
それはアメリカでMelanie Anne Phillipsという人が自分のホームページで公開していたもので、アップロードされていた彼女の声は、女性の声にしか聞こえなかった。
メラニーはその訓練法を記録したCDを販売していると書いてあったので、早速アメリカから取り寄せてみた。そしてミチはそこに書いてある方法で一所懸命練習を続けた。
この訓練法については真枝先生も
「これ画期的だね」
と言って、ミチの声の出方について色々アドバイスしてくれた。
そういった訓練の成果が出始めたのは翌年の夏頃である。
「みっちゃん、最近けっこうハイトーンで話してるね」
と大学の友人が言った。
「いやあ、今までみたいな声だと私、性別を誤解されかねないと思ってさ」
「ああ、確かに男の声と思えば男の声にも聞こえる声だったよね」
しかしメラニーが「声で男女を判断するのはピッチよりも話し方や話す内容だ」と言っていたのをミチは身にしみて感じていた。
入学以来、ミチが男みたいな声の高さで話していても、誰もミチが男とは思いもしなかったのである。それはミチの話し方が「歌うように話す」女の話し方であった上に、ミチの話す内容が女の子の話す内容だったからである。
当時ミチはAカップのバストを持っていたし、水着になる時はアンダーショーツできれいに押さえ込んでから着ていたので(当時まだタックは知られていない)、ミチは昨年の夏にもその年の夏にも、友人に水着姿を曝している。それでよけいミチは女として「パス」していた。
1998年1月15日、ミチは成人の日を迎えた(ミチは2月27日生まれなのでこの時点ではまだ19歳である)。
むろん他の女の子同様、振袖(レンタルだが)を着て成人式に出席した。会場の入口では、名簿をチェックした人が一瞬「あれ?」と言ったものの、女性用の記念品・リップブラシをもらった。男性用の記念品はネクタイピンだったようである。
そしてこの日、亜記宏とデートしたミチは初めて彼とホテルに行った。
「うしろ」を使うのはお互いにためらわれたものの、ミチはお口でしてあげて、彼も気持ち良さそうにしていた。乳首を随分舐めてもらって、こちらも脳が恍惚の状態になっていた。
「みっちゃん、パンティ脱がないの?」
「勘弁して〜。あっちゃんの、もう一度舐めてあげるから」
「うん」
彼もわざわざミチのあれを見るつもりも無かったようである。
「僕たちって結婚できるんだっけ?法的には兄妹みたいなものだよね?」
「私の戸籍が女じゃ無いから無理」
「あっそうか!」
ミチはこの大学で4年間、みっちりと音楽の専門教育を受けた。日々の課題が物凄いのでとてもバイトなどする余裕は無かったものの、奨学金のおかげで真枝先生にはほとんど迷惑を掛けずにこの4年間を送ることができた。
小さい頃からピアノのレッスンに通っていた子たちにはどうしてもかなわないものの、彼女のピアノ演奏は充分プロの領域に達していると大学の先生は褒めてくれた。
ミチは2000年3月に大学を卒業した。
大学では中学・高校の音楽教師免許も取得していた。ミチの母校は女装のままミチの教育実習をさせてくれた。しかし実際に女装で教師として採用してもらう可能性はゼロだと思った。
結局入ったのが、道内の楽器製造会社である。彼女の音楽的な能力を買って管楽器や弦楽器の最終的な音程調整の仕事を頼むと言われた。ミチは幼児段階で音楽教育を受けていないため絶対音感は無いのだが、相対音感で0.1Hzの違いを聴き分けることができた。
ミチはこの会社に大学時代に使ったのと同じ「桃川美智」の名前で就職し、女装で勤務したが、社内で彼女の戸籍が男であることを知っていた人のは社長夫妻だけであった。