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赤とんぼ
三木露風(1889-1964)作詞・山田耕筰(1886-1965)作曲
夕焼小焼の赤とんぼ、おわれて見たのは、いつの日か
山の畑の桑の実を、小籠に摘んだは幻か
十五でねえやは嫁に行き、お里の便りも絶えはてた
夕焼小焼の赤とんぼ、とまっているよ竿の先
この歌詞の著作権は日本では2014年で切れています。著作権が作者の死後50年から70年になったのは2018年で、その時点で既に切れていた著作権は復活しないため。
(同じ理由で「夏は来ぬ」の歌詞も日本では2013年で著作権が切れてました!勘違いしてました。済みません)
「日本の歌百選」にも選ばれている郷愁あふれる歌。深く愛されている歌です。
この歌でよくある誤解
(1) “おわれて見た”は“追われて”ではなく(ねえやに)“負われて”。背中に背負われてという意味。
(2) “ねえや”は実の姉ではなく家事手伝い(主として子供の世話をする)の女性のこと。
見解が別れる点
(1) “十五でねえやは嫁に行き”のねえやが結婚した時に十五だったのは、ねえやなのか作者なのか
どちらとも取れるのですが、作者が十五歳の時と解釈する人が多いようです。昔は15歳で結婚する人も結構居たでしょうけどね。
(2) “お里の便り”とは誰から誰への手紙か
これが実に様々な見解があり、定説がありません。
・ねえやから作者への手紙
(私はこう思っていた)
・ねえやから彼女の実家への手紙、またその逆
(こう思っている人はわりと居る)
・作者の母からねえやに託されていた、作者への手紙。
(今回確認していて初めて聞いたが確かにあり得る解釈。ねえやは元々母の姪か何かで母は彼女に託して(父には内緒に)作者に手紙をくれていた。しかしねえやが結婚したことで仲介者が居なくなり、その母からの手紙が届かなくなった)
作者(三木露風)の両親は別居していて、彼は父のもとで暮らしており、それで作者はねえやに身の回りのお世話をしてもらっていたという背景があったようです、
「夕焼け小焼け」で始まる歌としては、中村雨紅(1897-1972)作詞の『夕焼け小焼け』もあります。
夕焼小焼で日が暮れて山のお寺の鐘が鳴る
お手々つないで皆帰ろ。烏と一緒に帰りましょう
(この歌詞は著作権保護期間中です。論評のため引用します)
河合隼雄さんだったかが「物凄く日本人的な詩だ」とか言っていました。日本人は人間もカラスも同じ生きとし生けるものとして同列に扱うことに違和感を感じないが、西洋人は人間と動物の間に厳然とした線を引くので両者が同列に扱われることは決して無いと。確かに西洋人には無い発想かも知れない。
ところで「赤とんぼ」と似たタイトルの歌で、あのねのねが歌った『赤とんぼの唄』というのがあります。1973年に発表され当時の特に男子中学生に物凄く受けました。当時の人気ドラマ『時間ですよ』のワンシーン。堺正章が浅田美代子をデートに誘い
「一緒に赤とんぼの歌を歌おうよ」
と言う。しかし堺正章が
「夕焼け小焼けの」と歌い出したのに対して、浅田美代子は「赤とんぼ」と歌い出して、正章が「駄目だ。こりゃ」と言う。などというシーンがありました。
あのねのねというのは笑福亭鶴瓶がいたユニットで、ラジオの深夜番組の司会などで当時中高生には凄い人気でした。
『赤とんぼの唄』は発禁処分にはならなかったものの、一歩手前の“要注意楽曲”に指定され、レコードには歌詞カードを付けずに発売するという異例の処置がなされました。凄くいやらしい歌詞でした。
ところで、とんぼのことを古くは“秋津”とも言いました。秋津嶋というのは、日本の別名でもあります。これは昔、神武天皇が即位した後、高い山の上から国土を見た時、その起伏に富んだ様子を「秋津のとなめ(交尾)するが如し」と言ったという故事からきたものです。
神武天皇の即位は1月1日と書かれており、1月にトンボがいるのかという問題はあるのですが、古代には1年が今の半分の長さの暦が使用されており、春分と秋分が1年の始まりだったという説もあるので、これが秋分の頃のできごとなら、違和感があまり無い。
また1年の長さが古代には今の半分だったのではとする説は、古代の天皇の寿命が異様に長い、ひとつの原因とする説もあります。
3年前、2006年秋。千里たちが高校1年の時。千里が霊的な仕事で京丹後市に行った時、仕事を終えて姫路に帰ろうとしていたら、近くで車の急ブレーキの音とドンという衝突音がした。見てみると、お年寄りの女性が倒れている。そして走り去る車が見える。
「きーちゃん、あの車の写真撮って」
「OK。撮ったよ」
「この人を病院に運ぼう」
「うん」
それで千里たちが、すぐそのお婆さんを病院に運んだので、お婆さんはしばらく入院は必要だが、命には別状が無いということだった。
「お婆さん、先生が大丈夫だと言ってるよ。頑張って早く治そうね」
「ありがとうございます。でも仕事が」
「お婆さん、何の仕事してるの?」
「織物を今月中に納品しないといけないのに」
「でもこれでは仕事できないよ。治るまで待ってもらうしかないよ」
「それと蚕に餌をやらないと死んでしまう」
織物は別としても餌やりは何とかしなければと思った。それでお婆さんをいったん京丹後市の自宅に運び、南田兄の娘・絹恵を召喚すると、蚕の餌やりを命じた。
「やり方が分からない」
「お婆さん、教えて」
それで、お婆さんは絹恵に餌のやり方を教えてくれたのである。このおかげで蚕は餓死せずに済んだ。
この千鶴子さんというお婆さんは2ヶ月ほど入院したが、夜な夜な自宅に戻っては絹恵に織機の操作も教えてくれた。それでこの“トンボ工房”は絹織物もちゃんと納期までに京都の呉服屋さん“平井”に納品することができた。
「千鶴子さん、お子さんとかは居ないの?」
「息子が大阪で証券会社に勤めてるけど仕事が忙しくて呼ぶのは申し訳無くて」
それでも千里は連絡先を聞き、電話した。しかし息子は「忙しいので」と言って一度も顔を出さなかった。
なお、千鶴子さんを轢き逃げした犯人は、きーちゃんが撮ってくれた写真から判明して警察に逮捕された。しかし無保険であった。千鶴子さん自身も保険の類いには入ってない。息子さんは梨の礫なので、結局、千鶴子さんの病院代は千里が出してあげた。
千鶴子さんは2ヶ月後に退院したものの、足と肩を傷めているのでもとても作業には復帰できなかった。千里は、お民・お稲・お麦というキツネの3姉妹に千鶴子さんの世話をさせることにした。絹恵はこの3人に養蚕や絹織りの仕方も教えた。
結局“トンボ工房”は実質的に千里と絹恵、お民たち3人が仕事を引き継ぐことになり、ずっと丹後縮緬の生産を続けたのである。養蚕は基本的には毎年春と秋の2回おこなった。
2007年春、ずっと顔を見せていなかった息子さんがローンを滞納したということで、保証人になっていた千鶴子さんに300万円の請求が来た。
「どうしよう、こんな大金、払うあてが無いよ」
「千鶴子さん、トンボ工房の設備一式を私に売ってくれませんか」
「うん」
それで千鶴子さんはトンボ工房の設備一式を千里に500万円で売却し、そのお金でこの保証かぶりを精算したのである。残額は千鶴子さんの生活費にと思っていたのだが、息子の借金の保証は更に続き、千鶴子さんは結局全てのお金を失った。千里は千鶴子さんから、自宅と土地も買い取ったが、その代金も保証で消えた。最終的に息子さんは自己破産したようである。それにしても息子は全く顔を見せない。
なお息子さんが証券会社に勤めていたというのは20年くらい前の話で、現在は飲食店に勤めているらしい。きーちゃんに調べさせると、小さな中華飯店の皿洗いのようである。奧さんとは離婚済み。子供の養育費を送金しないといけないのもサボっているようである。
千鶴子さんの所にはお友達が2人、慶子さんという人と、初美さんという人が時々訪ねてくる。初美さんは従姉妹か何か(正確な関係はよく分からない)で農業をしており、お米や野菜などをよくくれる。千里はお返しに「うちの父が勤めている工場の製品」と言ってハムやウィンナーをあげている。慶子さんは縮緬製作の同業者である。
千鶴子さんのところが“トンボ縮緬製作所”だが慶子さんのところは“テントウムシ縮緬製作所”である。テントウムシというのは、苗字の十島を“テントウ”と読んだもの、トンボのほうは千鶴子さんの亡き夫が富男という名前で小さい頃のあだ名が“トン坊”だったためである。
慶子さんは旅行好きのようで、よくあちこちのお土産のお菓子などを持って来てくれる。自分では出歩けない千鶴子さんは、あちこちでの土産話を聞くだけで楽しそうである。千里は彼女に毎年お歳暮で、紅茶・コーヒーとかクッキーとかを贈っている。
千鶴子さんは年金を受けているが、生活が大変そうな息子さんにお金を渡すのは本人のためにならないよと助言している。年金の使い道は千里に払う家賃(介助費用を含めて月5万)と後は光熱費・携帯代・NHK代、病院代、自分の葬式代の共済などである。また孫には中学入学のお祝いとかあげていた。
千里も(元)奧さんと孫は何度か一人暮らしを心配して訪ねてきたので顔を見ている。奧さんは交通事故のことも知らない様子だった。絹恵については、友人の娘さんで、トンボ工房を土地家屋ごと買い取ってくれた人であり、そのお金で息子さんの保証かぶりを精算できたと説明していた。また介護や買い物などを頼んでいるとも説明していた。奧さんは千里を絹恵の娘と思っていたようである。千里はお孫さんに2008年と2009年のお年玉もあげた。奧さんは大阪市内のデパートに勤めているらしい。毎年おせちなども買ってあげている。
奧さんは千鶴子さんに「自分たちと一緒に住まないか」と誘っていたが千鶴子さんは
「長年暮らした町を離れたくないし、ひとりでは出歩くこともできない年寄りの世話は大変すぎるよ」
と言って断っていた。それに千鶴子さんによると奧さんは自身の親とも同居することになる可能性があるらしい、
千鶴子さんは京丹後市の生まれで、若い頃は京都市内で働いていた時期もあるものの、京丹後市で農業をしていた男性と結婚した後はずっとこの町にいるらしい。縮緬製作は農業の副業として始めたもの。夫は30年ほど前に亡くなり、農地は息子の結婚資金を作るために手放したと言っていた(小さな桑畑のみを残す)。
それにお民たちも3人だから何とかなっている感じで、ひとりでは大変だと思う。千鶴子さんはトイレにはひとりで行けるが、お風呂は支援が必要である。キツネの筋力では辛いので、絹恵がヘルプしている。食事などはお民たちが作っているし、買い物も彼女たちがしている。掃除や洗濯もキツネの担当である。
しかし千里は絹恵とキツネ3人を使ってトンボ工房の運営を続けながら、キツネたちに千鶴子さんのお世話を続けさせている。
千里はまたここで使用している織機(大手メーカーの製品で、所属している縮緬組合で共通のものらしかった)と同じものを出石のほうでやっている縮緬工房にも導入した。また同じ設定にした。更にお民たち3人にそちらの指導をさせた。それで千里傘下の但馬縮緬工房は丹後縮緬と同じ仕様の縮緬を生産するようになった。
2008年春、トンボ工房が絹織物を納品していた京都市内の呉服屋さん“平井”から「うちの売上が落ちていて絹織物もあまり多く必要無いので」と言われて契約を解除された。(その年の暮れにこの呉服屋さんは倒産した)
しかし千里はその春も秋も、2009年春も、トンボ工房ではいつもと同じように養蚕をおこない、縮緬を織らせた。反物はこの家には置き場所が無いので、千里の京都北邸に置いた。
ここは2009年5月、友人の慶子さんの紹介で、新たに京都の呉服屋さん“雅”と契約し、在庫していた縮緬60反を納品、更に蚕の飼育場所を広げた上で臨時の養蚕を行い、6月と7月に30反ずつ納品した。
シーズン外に蚕を育てるのに養蚕場にずっと空調を掛けていたので電気代が凄かった(これは出石も同様)。なお空調が効くように九重達にここに壁などを作らせた。また餌の桑の葉は余裕のある出石のほうから回した。
そういう訳で千里は出石で企業的に但馬縮緬の生産をする一方で、京丹後市でとても個人的に細々と丹後縮緬の工房も運営しているのである。もっともここの管理はほとんど絹恵に任せている。雅との交渉をしたのも絹恵である。雅側の仕入担当・沢村専務(エレガントの専務だが、雅では“番頭さん”と呼ばれている)も絹恵を千鶴子さんの娘と思ったようである。