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8月2日(日なる).
姫路市北部、県道67号沿いに、陶磁器販売店“伊万里”がオープンした。陽万里窯・天橋窯(播磨窯)の作品に加えて、話を聞いてひとくち乗せてと言ってきた豊岡市の白龍窯というところの作品も販売する。
陽万里窯・天橋窯(播磨窯)は有田焼き系だが、白龍窯は出石(いずし)焼きである。
出石焼きは伝説によると、垂仁天皇時代に天日槍命が朝鮮半島から出石に陶工を連れて来たことに始まったと伝えられている。しかし現在の出石焼きに繋がるのは18世紀終わり頃に、伊豆屋弥左衛門という人が開設した窯からである。その後一時期は衰退していたものの、明治になってから会社が設立され、有田から陶工を招いて技術改良が進められた。
“伊万里”の店長は陽万里窯主宰者の娘さんの真鍋美和さん、副店長は播磨窯参加者の飛鳥、それに白龍窯の主宰者の娘さんの大橋由梨さん、全員無給である!でも一応会社を設立して健康保険証も発行した。(社長は真鍋父、天橋が副社長、大橋父が常務。この3人が取締役である。株式は真鍋と千里が45%ずつ、大橋が10%. 千里は“取締役でない”副会長に任命された)
土地は真鍋さんが買い、三丁目工務店が店を建てた。お昼ご飯については大橋さんが銀馬車亭とサブスク契約をしたので、由梨さんが車で取りに行くと日替わり弁当を3つもらえる。ほかにみんなおやつを買ってくるので、ここはいつも食べ物が潤沢だった。更に飛鳥はよくクッキーとかマフィンとかをお店付属のキッチンで焼いていた。またドーナツや鶏の唐揚げなどもよく作っていた。
「磁器を作るのに土をこねるのも、ケーキ作るのに小麦粉こねるのも似たようなもの」
「できればケーキには粘土を混ぜないように」
お客さんはあまり来なかったが、女3人でのおしゃべりが楽しかったのでいいことにした。飛鳥はしばしばおキツネの女の子たちを呼んで一緒におやつを食べていた。
「え?君たち出石(いずし)に住んでるの?私も出石なんだよ」
「絹織(きぬおり)工場で働いてるんです」
「ああ、出石(いずし)の縮緬(ちりめん)ってわりと有名らしいね」
「今年は京都の呉服店に大量注文が入ったとかで5月からずっと機械動かしっぱなしです」
「ああ、君たちのところでそこの絹織物作ってるのか」
「だから養蚕(ようさん)、蚕(かいこ)育てもフル回転です」
「大変だね」
「でも絹の糸を出す蚕(かいこ)が唐揚げとか佃煮とかにすると凄く美味しいんですよ」
「へ、へー」
「今度少し持ってきましょうか?」
「と、取り敢えず遠慮しとく」
ところで、ブレンダは昨年アジア選手権でインドネシアに行ってきたのだが、その時に知り合ったブンガという19歳の女子からブレンダに電話があった。ブレンダは福岡でマンハッタン・シスターズに関する作業で忙しそうだったので電話はグレースが取った。
「ヘロー」
「スラマ・シアン(こんにちは)」
「こんにちわ!」
ブンガはこういうことを言った(会話は英語)。
彼女のお父さんはコーヒー豆の輸出業者で今までアメリカの会社にコーヒー豆を買ってもらっていたが、その会社が今年の春に倒産してしまった。それでブンガさんに、お前日本人の知り合いがいるなら、その人にどこか買ってくれそうなところを紹介してもらえないかと言われている。
日本ではインドネシアというとジャワティーが有名だが、世界的にはジャワコーヒーのほうが有名である。
「取り敢えず詳しいことを聞きたいから一度そちらに行こうか」
「わあ、来てくれるなら歓迎」
それでグレースは彼女のいるスマトラ島のメダンまで行って来ようと思った。
「え〜?グレース海外に行くの?」
とヴィクトリアが焦っている。
「2〜3日で戻るよ」
「何かあった時、私どうすればいいのよ?」
などと言っていたのだが、これは結局ブンガのほうが日本に来てくれることになった。
それで8月9日(日)、(シンガポール経由で)成田に来たブンガをグレースは迎え、取り敢えず彼女が体験したいと言っていた日本のマクドナルドに連れて行く。2人はこの日も英語で会話していた。(インドネシアにもマクドナルドはあるが、やはり国によってメニューが異なる)
「ブンガはムスリムだっけ?」
「ううん。私はクリスチャン」
インドネシアにはイスラム教徒が多いが、メダンは国際都市(日本の横浜や神戸などに似ている)なので仏教徒やキリスト教徒も多い。巨大な仏教寺院なども建っている。
「じゃ食べ物の禁忌は無いね」
「うん。豚も牛もOK。トカゲやコブラ、カタツムリや水牛にビーンカードもOK」
「あはは」
これらはインドネシアではポピュラーな食材である。彼女がビーンカードと言ったのはこの英語はふつう豆腐を意味するが実際は納豆を揚げたような食材である。インドネシアではテンペという名前で、お肉の代替品として使用される。
彼女がお魚も大丈夫というので、日本料理店に移動し、お話を続けた。彼女はお刺し身も美味しそうに食べていた。煮魚も上手に食べていた。箸の使い方もうまかった。(インドネシアはインドと同様、箸とかスプーンなどを使わず“右手”で食べる文化)
それで結局千里の会社で彼女のお父さんの会社のコーヒーを買うことにした。詳細は各々準備を整えてからまた後日打ち合わせることにして、この日はいったんホテルで休み、翌日は彼女をディズニーランドに連れて行った。ただし翌日彼女と一緒に行動したのはゆきである。
グレースはこの輸入作業のために金閣食品(きんかくしょくひん gold temple foods)という会社を設立レた。そしてこの会社がブンガのお父さんの会社のコーヒー豆を輸入することにした。ここで輸入したのはこのような品種である。
・ジャワ・ロブスタ(インドネシアの主力コーヒー)
・スマトラ・アラビカ(通称“マンデリン”)
・スラウェシ・トラジャ
・ニューギニア・ブルーマウンテン
インドネシアでは昔はアラビカ種が多かったが、1908年に病気で壊滅し、その後、病気に強いロブスタ種が広く栽培されるようになった。そのため現在インドネシアのアラビカ種(日本ではマンデリンという商品名で有名)はインドネシアのコーヒー生産の5%程度にすぎない。
ブルーマウンテンはジャマイカからニューギニアに移植されたものでヨーロッパではよく飲まれているが、日本にはほとんど入ってきてない。日本ではジャマイカ産のブルーマウンテンのみが入ってきている。
トラジャコーヒーの中で1000m以上の高地で栽培されたものは、日本ではキーコーヒーが「トアルコ・トラジャ」の商品名で輸入販売している。アラビカ種だが、同じアラビカ種のスマトラ・マンデリンより癖が少なく、上品な味のコーヒーである。ブラジルのサントスをゆっくりとドロップした時の味に似ている。
千里の会社が輸入するものは、キーコーヒーの農園より低い海抜の地域で栽培されているもので、味はワンランク落ちるが価格はぐっと安い。トラジャという名前を使わないでくれと言われたのでセレベス(スラウェシ島の旧名)の名前で流すことにした。
輸入するコーヒー豆の中で大多数を占めるジャワ・ロブスタについては西日本新鮮産業を通して、西日本各地の喫茶店やレストランに販売された。マンデリンは数量的に少ないので兵庫県内で(マンデリンは商品名なので“スマトラ”の名前で)販売した。
セレベス(トラジャ)に関しては、マンデリン以上に少ないので、最初は雅本店2階のカフェ“カフェ・エレガント”、姫路イーグレット美術館のレストランのみで提供していたのだが、カフェ・エレガントに来たお客で高畑さんという人がこの味を気に入り「自分がやってるカフェでも提供したい」と言うので、特にお分けした。それで、カフェ・エレガント、レストラン・イーグレット、と高畑さんが経営する京都市内のお店“マベル”の3ヶ所で提供されている。(マベル姉妹店の東京エヴォン・盛岡ショコラには流れてない)
高畑さんは自分がやっているカフェのウェイトレスさんたちに着せたいと言って、(今回の振袖騒動が落ち着いてから)手描き友禅の100万円の振袖を20着も買ってくれた。
ブルーマウンテンは更に少量なので千里が個人で買って、千里家(司令室を含む)、留萌P神社、姫路立花K神社、のみで使用している。(後に千葉の花丘玉依姫神社のコーヒーサーバー(500円)にもセットされる。またアクアにも分けてあげる)
ロビンは8月12日から18日までフィンランドに行ってきた、この間の雅に関する問題は、主としてジェーンが指示を出していた。
振袖の注文は7月19日で丹後縮緬使用品が売り切れ、但馬縮緬使用品も7月31日で締め切り、8月9日で東京縮緬使用品も締め切った。但馬縮緬と東京縮緬は少し反物を残している。これは何かあった時に対処するためである。
丹後縮緬使用品は7/15締め切りを予定していたが、雅が5月に新たに契約した縮緬製織所が臨時の養蚕をして追加で縮緬を納品してくれたので、締め切りを4日延ばした。
8月10-11日、台風9号が大きな被害をもたらした。特に徳島県、岡山県、兵庫県、長野県では合計25人もの死者が出た。
8月15日、西本願寺で盆踊りがあり、コリンに連れられたrio tango silk の技術者5人もこれに参加して楽しそうに踊っていた。彼らには、雅で販売している浴衣を着せた。みんなとても楽しんでいた。外人さんが浴衣を着て盆踊りしているというので写真を撮る人も大勢居た。
16日には大阪で串カツを食べさせたあと、たこ焼きを買ってあげて、関空から帰国させた。縮緬反物と、雅で製作している手描き友禅の振袖も1着(注文キャンセル品)、お土産に持たせた。友禅の美しさにも驚いていたが、縫い目が表に出ないように縫う技術とかには感嘆していた。服を縫えば縫い目は出るものと思っていたと言っていた。
8月中旬、グレースのピッチに電話が掛かってくる。発信者を見ると旭川の裕美である。
「はい。緑の千里です」
裕美は泣いていた。
「千里〜、ゆめちゃんが消えちゃったよぉ」
「ああ」
「灰が崩れるようにして消えちゃったの。後には何も残ってなかった」
「ゆめが生成されてからもう2年くらい経っている。前にも言ったけど、コピーの寿命は本来1年くらいなんだよ」
「ゆめちゃん死んじゃったの?」
「寿命を全うしたんだと思うよ。お葬式してあげようよ」
「うん」
それでグレースは、“シュテントウジ”の長谷川順恭(紋別市)を旭川に呼んだ。普通のお坊さんには説明不能な事態である。順恭さんの指示でグレースはきーちゃんに手伝わせてアパートに祭壇を設置した。そして、睦子も呼び、千里(グレース)、裕美と伊藤君に芽依ちゃん、まで入れてお葬式をした。順恭さんが結構長いお経をあげてくれた。順恭さんが戒名を付けて位牌も書いてくれたので、裕美と伊藤君は位牌の前で合掌していた。
太田フルート工房の太田さんからフルートの試奏依頼があったので、夜梨子が行ってきた。
「このフルートはG#の音が少しだけ高いんですね」
「ほんとに耳がいいね」
太田さんは千里の演奏を聴いて全体的なバランスを考えているようだった。いくつかの曲をリクエストされ、その曲を吹いた。この日は佐藤さんという30代の男性がピアノ伴奏してくれた。2時間ほど演奏して中休みとする。
「おやつにどうぞ」
と言って、白い恋人を出す。
「北海道に行ってた?」
「いえ、友人のお土産なんです」
「なるほどー」
「でも先日の台風は凄かったですねー。皆さん、ご無事でした?」
「それが佐藤君のところは家が崩れてしまったんだよ」
「あらあ」
「それでこれを機会に家をフルート工房に建て替えようかと言ってるんだよ」
「あら、フルートお作りになるんですか?」
「いや作りたいなあと思って」
「彼はずっと宮澤にいて、この3月に退職したんだよ」
「じゃ太田さんの後輩になるんですね」
「まあ同時に在籍していた期間は無いけどね」
「太田さんは僕の高校の先輩なんですよ」
「へー!」
「あと又従兄弟でもある」
「ああ。ご親戚でしたか。でも独立したばかりのところに大変でしたね」
「ええ。でもこれで家は建て替えざるを得なくなったし」
「今はどうなさってるんですか?」
「友人の家に居候している。実はその人と2人で工房をやろうと思っていて」
「なるほどー」
「建て替えはいつ頃?」
「早くしたいんだけど、今資金が無くて」
「あらあら」
「実は最初は僕の家の居間を使って作業を始めようかと思ってたんだけど、崩れてしまったし」
「工務店は決まってます?」
「いや、まずは資金を作ってから工務店探しするつもりだった」
「あの、よかったら私が所有している工務店を使いませんか?仕事速いですし、建築代金は取り敢えず貸しにしておいて資金ができてからのお支払いでいいですよ」
「へー。工務店をなさってるんですか」
「だいたい普通の住宅なら1週間から半月で建てますから」
「すごいね。軽量鉄骨か何か?」
「はい。ユニット工法と軽量鉄骨工法の組合せです」
と千里が答えると、太田さんが
「銀行から保証人要求されたら僕が保証してあげるよ」
と言っている。