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■春歩(22)
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6月8日(水).
H銀行の一部社員が主導して4月下旬から行われていた「女子社員のボトム自由化」の署名が、全社員の6割にも達したことから、この日の役員会で議論が行われ、ボトムは自由化されることになった。
但し、女子だけスカートでもスラックスでもよいとするのは不公平であるとして、男子社員の制服もスカート・スラックスどちらでもいいことになった。
ただ、社員は全部で3000人ほどおり、すぐには全社員分は用意できないので、生産が追いつき次第、女子でスラックスを希望する人、男子でスカートを希望する人に支給するということになった。移行は恐らく8月頃まで掛かる。
女子でスラックスを希望する人は、女子社員の2割ほど出たが、今後また希望者が増える可能性はある。男子でスカートを希望する人が3名おり、彼らは男子用スカート制作のモデルになってもらい、詳細な体型の採寸をし、幾度かの試着を経て7月中旬に支給された。
スカートを本人か希望したし、またちゃんと似合うようなデザインで制作したことから、彼らのスカート姿には全く違和感が無く、それを見て今後男子のスカート制服希望者がまた出るかも知れない。
「本当に男性向けスカートという感じ」
と彼らの同僚の声。
「多分女の子になりたい男の子はこのスカートは穿きたくないと思う」
と彼らは言っていた。
なおH銀行では「女になりたい男」「男になりたい女」については、以前から一定の条件を満たしている場合は移行希望する性別に沿った制服の着用を認めている。
「ぼくスカート穿こうかなあ」などと言っていた、投資課の花畑係長は「女房の許可が下りなかった」と言って、残念がっていた。でも制作するだけ制作してもらい(スカート勤務に切り替えた3人には含まれない)、試着している所を投資課のメンバーには披露したが
「格好い〜〜い!」
という声が多数であった。
「そうか。男性のスカートは格好いい路線に行けばいいのか」
「男の娘なら可愛い路線だろうけどね」
「だってスコットランドのキルトみたいなもんだよ」
と係長本人。
「確かに。キルト穿いてる男性に違和感は無いですもんね」
男子スカート解禁の情報は、もちろんその日の内に瑞穂から真珠に伝えられた。
「くーにん、性別に関わりなくスカート穿けるんなら、くーにんもスカートにしたら?」
「でも“お姉ちゃん”は女子行員なのでは?」
「女子はもちろんスカート穿いていいよね?」
「俺、自分の性別が分からなくなって来た」
6月9日(木).
春貴が6月4日に申し込んでいたD級コーチ講習会はコロナの蔓延が酷いため中止になったことが発表された!新たな講習会は10月に行われる予定である。
この日の女子バスケ部の練習で終わりのジョギングをしていたら、焼肉店跡に工事中だった建物が姿を現した。
「体育館ができてる!」
「でも3日くらいでできてません?」
「仕事速い!」
春貴はこれって播磨工務店さんの仕事ではと思った。それ以外にこんな短時間で体育館を建てられる工務店を知らない。普通ならこの規模の体育館を建てるにはPC(プレキャスト・コンクリート)工法でも1ヶ月は掛かる。
実は播磨工務店は“熔接”の必要が無いので仕事が早い。彼らの腕力で鉄骨と鉄骨を合わせてぎゅーっと押しつけるとくっついてしまい、熔接より丈夫である。
「市か県の施設か何かでしょうかね」
「何だろうね。体育館を新築するみたいな話は聞いてなかったけど」
「どこかの企業の体育館かなあ」
「この付近で専用体育館を持つほどスポーツの強い企業ってどこだろう?」
そして体育館が建ったその隣のスペースに今度は同じくらいの高さの骨組みが作られたようで、工事用シートが掛かっていた。
「そちらは何だろう」
「宿舎か何か作るのかも」
「きっとそちらにはコンビニがあるよ」
やはりコンビニが出来てほしいようだ。
6月10日(金).
日本水泳代表でアンドラ公国で合宿していたグループもハンガリーに入国した。バスでバルセロナに移動し、ムーランのCRJ700でバルセロナ=エル・プラット空港(BCN)からリスト・フェレンツ空港(BUD) に移動。そのあとまた、バスでホードメゼーヴァーシャールヘイに移動した。
(アンドラ公国には空港が存在しない)
6月11日(土).
遙佳と歩夢はこの日の午前中、母の運転する車(インサイト)で、輪島市の中心部まで出て来た。来週から歩夢の中学で水泳の授業が始まるので、そのためのスクール水着を買いに来たのである。
スクール水着くらいS市でも売っているが
「世間体が・・・」
という母の声で、わざわざ輪島まで出て来たのである。
(歩夢が女子用スクール水着を買っていても誰も変には思わないと思う。男子水着を買おうとしたら止められると思う)
遙佳はついでである!
広詩はゲームしてると言った。
なお、昨年は歩夢は「水泳の授業には出ない」と言ったので水着も買わなかった。実際全て見学で押し通した。小学校の時もずっと見学で押し通しており、歩夢はこれまで人前で水着姿になったことは無かった(ことにしておく)。
遙佳も歩夢もごく普通の、Tシャツにスカートという格好である。普通に姉妹にしか見えない。この日は、歩夢が遙佳と一緒に女子トイレに入って行くのを母は黙認した。あくまで黙認であり、認めた訳ではない。
まずは、価格の安いコスモのGSで満タン給油してから、しまむらに行き、歩夢の水着を選ぶ。お店の人に測ってもらったら
「微妙ですけど、来年も使われるのでしたらMが良いかも」
と言われて、Mサイズを買った。
水着は普通の服と違い水中で伸びるので、あまり大きすぎるサイズだと恥ずかしいことが起きる危険もあるので、なかなか難しい。
サイズに融通の利くセパレート型にした。これは構造的にセパレートなだけで、パッと見た目はワンピース型とあまり見分けが付かない。よく見ると境界線がある(女子の水着姿を“よく”見ては、いけない)。なお、セパレートでもお腹が露出するタイプは禁止である。
遙佳の高校では水泳の授業は無い。それで代わりに(普通の衣服の)ワンピースを1枚買ってもらった。
その後、コメリに行き、布団の上に敷くクールパッドとタオルケットを買う。また掃除機が最近調子悪いので、新しいのを1個買った。100円ショップのダイソーとポピアを梯子し、昼食用にファミィの中のパン屋さんでパンを買う。最後にクスリのアオキに行き、冷凍食品とお肉を大量に買った。持参の発泡スチロールの箱2つに入れ、氷点下タイプの冷却剤も入れてS市に帰った。冷却剤は、来る時はアルミの保冷バッグに入れて持って来ている。
「何でも高くなってるから、アオキかゲンキーでないと牛肉なんて買えない」
などと母は言っていた。
発泡スチロールの箱の内1つはレストラン用の買い出しである。
「最近、牛肉料理がめったに無いよね」
「プーチンのせいよ」
6月12日(日).
一週間延期されていた、インターハイ富山県予選女子決勝が、高岡S高校の体育館で行われた。
濃厚接触者となっていた富山B高校のメンバーには、幸いにも陽性者は出なかった。順位決定戦に涙の辞退となった高岡S高校は、迷惑を掛けたお詫びといってこの日は会場を提供したし、部員たちがTOやモップ係を務めて大会に貢献した。
試合は高岡C高校が20点差で快勝し、インターハイ本戦進出を決めた。高岡C高校は富山県大会春夏連覇である。
6月12日(日)夕方。
H南高校の橋口教頭は積もり積もっている書類を片付けるため、土日も出勤してきて作業をしていた。
19時頃、いいかげん帰ろうと思い、無理矢理仕事を切りあげて帰り支度をする。
昼休みに買っておいたケーキを冷蔵庫から出して、戸締まりをして職員玄関を出た。それで校門の方に向かっていたら、いきなり何かに飛び付かれた。
「わっ」
と声を挙げて、思わず荷物から手を離してしまった。
あーっ!
ケーキの入った箱も落としてしまった。
見ると飛びかかったのは野良猫のようである。教頭は怒って近くに落ちていた石を拾うと、そのネコめがけて投げ付けた。
ところがコントロールが悪くて、その石は野良猫には当たらず、その先の旧美術室の柱に当たった。
すると・・・・
旧美術室が、ガラガラと音を立てて、崩壊してしまった。
うそーー!?
石がぶつかったくらいで崩壊するもん!??
教頭は“ブラジルの1羽の蝶々が羽ばたいただけで、テキサスで竜巻が起きることもある”(*31)という話を思い出した。
「取り敢えず帰ろ」
と言って、教頭は、旧美術室が壊れたのには、気付かなかったことにして校門を出て帰宅した。
(*31) エドワード・ローレンツという気象学者が1972年に講演で述べたもので、“バタフライ効果”(butterfly effect) と呼ばれる。自然現象は非常に複雑に絡み合っているので、小さなできごとにより、何かの閾値(しきいち)を超えることで、大きな事象の引き金になることもあるという話である。
例えば2000万m
3= 20兆cc までの貯水に耐えられるダムに 19兆9999億9999万9999cc の水が既に貯まっていた時、ほんの2ccの水をそこに加えただけで、ダムの貯水能力を超えてダムが決壊し、大洪水を引き起こす可能性はある。
だからダムは大雨が予想される時は、予め“放水”してキャパを空ける。
閾値(しきいち)というのは本当に怖い。そして思わぬ結果を生み出す。
60年ほど前、長崎県佐世保市では貯水池の堤が大雨で決壊して水害を起こしたが、貯水池の水が流出して無くなってしまった結果、深刻な水不足が発生した。
金属製のハンガーの首を鴨居に掛けるのに何度も曲げているとその内ポキリと折れてしまう。あれも歪みの蓄積が限界を超えることで起きる。「ちょっと曲げただけなのに」と思うが、そこまでたくさん歪みが生じていて耐えられる限界に近づいていたのである。
閾値は社会的な現象でもよく現れる。
よく、ささいなことから口論になり刺し殺した、みたいな事件が報道される。なぜその程度のことで?と思うが、そこに至るまで我慢に我慢を重ねていたからこそ、その小さなことで限界を超えて殺人事件が起きてしまう。
この夜も、既に限界に達していた美術室が、教頭のぶつけた小石で閾値を越えて崩壊したのだろう。
(長い言い訳)
6月13日(月).
朝登校してきた先生が旧美術室が崩壊しているのを発見し、取り敢えずコーンを立てて「立入禁止」と書いた紙を貼った。
教頭は出勤してきてから、自分に何か訊かれるのでは?とドキドキしている。教室ひとつ壊したと分かったら、始末書かなあ、進退伺いまで出さなくてもいいよね?などと考えている。そんな不祥事起こしたら校長にはなれないかも?
生徒たちも登校してくると、何が起きたのだろうと遠巻きに見ている。3年生の愛佳は人だかりができているので見に行くと、旧美術室が壊れているので
「私たちの練習場所が!」
と悲鳴を挙げた!
「大事なものとか置いてた?」
と生徒会長さんが愛佳に尋ねた。
「たぶん無いとは思うけど、練習ができないよう」
「なんで崩れたんだろうね」
朝8時、H南高校に、女性用のビジネススーツを着た村山千里、やはり紳士用のビジネススーツを着た徳都縦久(こんな格好のじゅうちゃんは珍しい。たいてい作業服か、よれたジャージなどを着ている)が訪問してきた。2人はちょうど職員室に居た校長に
「うちの社員がクレーンを倒してしまい、おたくの学校の教室を壊してしまった」
と謝罪した。
「そちらの重機ですか!」
「昨日までこの近くで建設作業をしていたのですが、作業が終了したので、今日の早朝から工事器具の撤去作業をしていました。クレーンを運んでいた社員がクレーンを倒してしまいまして(本当は抱えて飛んでいて、うっかり落とした)」
「クレーンはすぐどけましたが、万が一にも中に誰かいないか心配で。取り敢えず人数を集めましたので、すぐにも瓦礫の撤去作業をさせたいのですが」
と千里は言う。
「それは何時頃ですか?」
「4時頃なんです。一応近くに居た社員で声を掛けたり、生体センサーとかで探した範囲では反応は無いのですが」
「分かりました。すぐ作業お願いします。うちの職員とかも手伝いますよ」
教頭は思わぬ展開に、これなら実は自分が壊したことはバレないかもと期待した。
それで工務店の作業員だけでなく、男性教師や、運動部の男子部員なども手伝い、瓦礫の撤去作業をする。単純な木切れやコンクリート片の類いは工務店が持って来たダンプに積まれた。
瓦礫の中からバスケットリングが3つ出て来て、これは愛佳に預けられた。愛佳が大事そうに抱きしめる。
播磨工務店の社員が40-50人も入って作業したことから、撤去作業は1時間ほどで完了した、
「誰もいませんでしたね」
「良かった」
「まあ実際午前4時に誰かいたら空き巣くらいでしょうけどね」
播磨工務店は、旧美術室と一緒に壊してしまったフェンスはあっという間に修理してくれた。
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