■春シン(1)

[*前p 0目次 #次p]
1  2  3  4  5  6  7  8  9 10 11 12 
前頁次頁目次

↓↑BottomTop

 
群発地震の続く能登半島で、2023年10-12月には、M3.5以上の地震は無かった。そして2024年1月1日(月)夕方、能登半島を巨大地震が襲った。
 
揺れは数回にわたって起きた。
16:06 37.50N 137.30E M5.7 最大震度5強
16:10 37.50N 137.20E M7.6 最大震度7
16:18 37.20N 136.90E M6.1 最大震度5強
 
被災者の多くは「揺れは長く続いた」と証言している。実際破壊は能登半島の北で北東から北西に掛けて長い距離で時間を掛けて起きたようである。それでこれまでずっと群発地震の起きていた東部の珠洲市だけでなく、これまで地震の少なかった西部の志賀町でも大きな被害が起きた。
 
結局能登では、2022年に震度5の地震、2023年には震度6の地震、2024年には震度7の地震が来たことになる。
 
↓↑BottomTop


この地震により、石川・富山では多数の家屋が倒壊、道路が壊れ、水道などのインフラにも大きな被害が出て、復旧には数年を要することになる。
 
・輪島市の商店街では火災が発生したが、水道が壊れて水が出ないため消火活動が出来ず、商店街がほぼ全焼した。永井豪記念館なども全焼した。
 
・救援に向かおうとしていた海上保安庁の飛行機が1月2日、羽田空港で日本航空の旅客機と地上衝突事故を起こし、海上保安庁機の乗員が5名死亡した(1名重傷)。日航機の乗客・乗員は全員脱出して奇跡的に無事だった(荷物として預けられていたペットが死亡した)。
 

↓↑BottomTop

・水道管が迷路のように走っていて破損箇所を見付けるのに苦労し、上水道の復旧に2〜3ヶ月掛かった。
 
水道は本管だけでなく各住宅内部の配管もやられており、この部分は本管の復旧後に各住民の負担で復旧する必要があった。水道工事店はどこも大忙しでなかなか順番が来なかった。だから水がほんとうに使えるようになったのは、自治体が「水道が復旧した」と言ってから更に1〜2ヶ月後である。
 
・能登半島に向かう道路は数が少なく細いし、それが亀裂や崖崩れで通れないため、救助や復旧作業に行く人が道が無くて行けないという状況が発生。馳知事は
「自衛隊や医療関係者などを優先したいので、身内の救援に行く人以外、一般の人は能登へ行かないで欲しい、ボランティアは少し待ってほしい」と呼びかけた。
 
↓↑BottomTop

・能登半島の多くがテレビやラジオの電波が受信できない弱電地域で、一般に言われる“災害時のラジオ”は役に立たなかった。
 
・お正月に発生したため、帰省していて災害に巻き込まれた人も多かった。
 
・帰省していた人で無事だった人も交通機関が停まっていて道路自体通られないため都会に戻れなかった。
 
・避難所のキャパが足りなかった。多くの避難所は毛布も足りず。食料も無く、煖房さえ無かった。避難民たちが各々の非常食をシェアして自衛隊が来るまでしのいだ。一部の避難所ではコロナが流行して悲惨なことになった。
 

↓↑BottomTop

能登半島は元々山の多い地形で昭和の中頃までは、船でしか到達できない、道路アクセス不能な集落が多数あったが、国道249号の全通で陸上から到達できるようになっていた。しかし今回の地震で崖崩れや路面の亀裂、トンネルや橋の損傷で通行できない区間が多く発生した。
 
孤立した集落へはドローンによる物資輸送もおこなわれた。
 
自衛隊は輪島市北東部に、揚陸艦を使って重機を陸揚げし、こちら側と向こう側の両方から工事することで、復旧工事のスピードを上げた。
 
県および自衛隊は、奥能登の背骨を走る珠洲道路をまず復旧し、そこから各集落へのアクセス道路を復旧する、という“櫛の歯”作戦を実施した。
 

↓↑BottomTop

幾つか幸運な点もあった。
 
・お正月で餅やおせち料理があり、食料を買い貯めしている人も多かったので、避難所に行かず自宅に残った人たちは、救助が来るまで、それで何とか食いつなげた。
 
・雪の多い地帯なので、雪を融かすことで水を得ることができた。
 
・下水道の普及率が低く、多くの地区では汲み取りだったので、上水道さえ復旧すれば何とか生活ができた。しかし下水道化されていた一部の地区ではトイレやお風呂が半年程度使えなかった。
 

↓↑BottomTop

珠洲市は極めて大きな被害を受けた。まともに立っている家がほとんど無かった。地区によっては瓦礫の山と化した所もあった。
 
遙佳は年末帰省し、夕方テレビを見ている時に被災した。遙佳の家は数年前に建て直したばかりだったので、家自体は持ちこたえた。しかし本棚が倒れ、食器が多数落ちて割れ、壁板も剥がれた。琥珀の助言で人形を移していなかったら食器と同様、かなり破損していただろう。
 
避難所に行ったほうがいいかもと言って、家族みんなで避難所に行ってみたが、人が多い!寿司詰め状態で、煖房も無いという話で、コロナやインフルが怖いと思った。自宅に戻ることも考えたが、結局人形美術館に移動することにした。
 
人形美術館は被害無しである。門柱が倒れ門から本館への通路がぼこぼこになった程度(後で徳部さんが直してくれた)で、本館は無事だった。
 
↓↑BottomTop

一応人形たちを見て回ったが、スイスイ1号が停止し、ウォーキングドールのマリアンが座り込んでいるだけで、人形たちは無事だった。しかし薫は1月いっぱいの休館を決めた。
 
(ウォーキングドールというのは子供と手をつないでお散歩ができる人形である。20世紀初頭に作られたものでコンピューターなど無い時代に、カムなどの組合せで足を動かして歩行が可能なように作られている。但しマリアンは当時の人形を研究して数年前に作られた復元品。10体作られた内のひとつ。6/10 という数字が入っている。日本には多分この1体だけだと思う。この美術館では子供の代わりに見回りロボットのスイスイ1号にガイドさせている。以前のイベントでは本当に幼稚園の子供とお散歩した)
 
↓↑BottomTop

人形たちは不安げだったが、薫や遙佳を見るとほっとしたようであった。マリアンは起こしてスイスイ1号はリスタートさせた。人形たちのママとパパである。守護神・琥珀の絵も落ちていたのを元通り掛けておいた。
 
市から連絡があり、そちらが無事なら被災者を少し受け入れてもらえないかということだったので、受け入れることにした。ここは電気は自給しているし、水や食料の備蓄もある。「臨時避難所」の看板を掛け、地下(実は水面下)のラウンジに被災者の人たちを100家族ほど受け入れた。家族と家族の間にはカーテンスタンドを置いた。むろんエアコンを入れた。それで念のため予備電力の風車も回した(普段は騒音の元になるので停めている)。
 
↓↑BottomTop

父や妹などと一緒に炊き出しをおこない、お弁当をたくさん配ったし、トイレットペーパーやナプキン、おむつ、赤ちゃん用ミルクなども必要な人にどんどん渡した。ミルクは主として液体ミルクだが、適正温度のお湯を作るのが大変な状況ではとても喜ばれた。
 

↓↑BottomTop

奈那の一家もこちらに避難してきたが、むしろ被災者支援の作業に徴用した!奈那の自宅は崩壊したらしい。1回目の地震で「危ない!」と言って逃げ出したから助かったと言っていた。
 
お弁当の琥珀は(固定店舗は以前の地震で壊れたので)移動型の店舗だったので地面に固定されておらず店自体は無事。一晩寝て明日の朝から内部を片付けて営業すると言っていた。水や食材はうちの備蓄を使ってと言った。
 
千里さんから遙佳に電話があり、安否を確認された上で「欲しいもの無い?」と訊かれたので、「炊き出しするのにお肉とかの食材が欲しい」と言ったら、持って行かせるということだった。
 
1時間ほど後、ヘリコプターの音が聞こえた。ロープで徳部さんが降下してきて、人形美術館の庭に紐で四角い枠を設定。そこにヘリを降ろした。そしてお肉をたくさんもらったので、炊き出しの材料に使わせてもらった。みんなお肉が食べられるというので喜んでいた。
 
↓↑BottomTop

徳部さんと数人の部下は鉄骨を組んで、庭にヘリポートを組み立ててしまった。そしてこの上には誰も乗らないようにと言った。
 

↓↑BottomTop

作業を見ていた奈那が言った。
「徳部さん、崩れた私の家からパソコンとか取り出せませんか」
「家が壊れたの?」
「はい」
 
それで徳部は奈那の家を見に行った。
「ちょっと準備してから来る」
と彼は言った。
 
2時間ほど後、ダンプを持って来た徳部と数人の部下は奈那の家を片付け始めた。そして奈那のパソコンや勉強の道具、フルート(ケースに入っていた)、奈那の両親のタブレット、などを取り出してくれた。奈那はフルートを抱き締めて「嬉しい」と言った。
 
「ピアノも取り出せないことはないが損傷が激しい。諦めろ」
「分かりました」
「しかし家が無いと困るだろ?取り敢えずの小屋でも置こうか?」
「お願いします!」
 
↓↑BottomTop

それで彼らは瓦礫をダンプに積んで整地すると、そこに2DKのユニットハウスを置いた。
「また建て直すけど、取り敢えず一週間程度これでしのいでくれ」
「助かります!」
 

↓↑BottomTop

それで奈那の一家はこのユニットハウスに移ることができた。布団は2時間後くらいに徳部の部下の人が持って来てくれたので、その日はその布団で寝た。
 
ここは電気は太陽光パネルで自給されるので朝になると電気が使えるようになって空調も動き始めた。翌日には、冷蔵庫・掃除機・テレビ・電子レンジ・炊飯器・IH・ケトル・ホットプレート、食器、なども持ち込まれた。数日以内に通信環境も設定した。
 
遙佳が年内に買っておいた非常用品は、奈那たちに譲った。
 
奈那達は夜が明けるとお弁当屋さんの内部をお掃除し、お昼頃には調理ができる状態になった。食材はフレグランスさんから分けてもらい、夕方前には“炊き出し弁当”を作り、無料で配布を始めた。料理人の胡蝶蘭(*2)さんの実家も崩れたということだったので、人形美術館の避難所に来るよう勧めた。
 
↓↑BottomTop

それで、人形美術館(フレグランス)とお弁当の琥珀、ふたつの拠点で炊き出しが進められることとなった。珠洲市内で千里が食料や雑貨の備蓄をしていた場所には石崎部長に許可を取って“〒〒テレビ救難所”の看板をかかげ、水や食品・雑貨の配布を始めた。能登組の猿岩という子に管理をさせた。
 

↓↑BottomTop

(*2) 中国っぽい名前だが日本人。珠洲市の出身。本名は乱馬(異説あり)。でも子供の頃から“ランちゃん”と呼ばれていた。若い頃は大阪で和食店や中華料理店に勤めていた。金沢市のランチ専門店“スートラ”に入る時“ラン”だけでは短すぎると言われて胡蝶蘭と名乗る。桜坂(奈那の父)が調理人を探していたので、真珠たちの紹介で雇われた。両親も「女になったのは許してやるから珠洲に戻ってこんか?」と言っていた。それで女として帰郷し“故郷に錦を飾った”。おっぱいは大きいが、下半身の状態は誰も知らない。
 
小学生の男の娘!がいるが、蘭は自分が産んだと主張している。
 

↓↑BottomTop

奈那の家が建て直されているのを見て近所の人が訊いた。
「あら、建て直したのね」
「いえ、これ仮の家なんですよ。持って来てポンと置くだけで“いなばの物置”の同類なんですよ。地面に直置きされてて基礎も無いし。安い輸入材で作られているから費用も100万くらいのものだし」
「安い!」
「大工さん、このレベルでいいから、うちもやってくれない?」
と頼まれて、人の良い徳部はほいほいと全部引き受けたので、それから1〜2ヶ月で50軒くらいの建て直しをおこなった。でもお陰でこの付近は住宅街が復活した。
 
「奈那ちゃんごめん。まともな建て直し、もう少し待って」
「うん。いいよ。みんなの家を建て直してあげて」
 

↓↑BottomTop

「あ、奈那ちゃん」
「はい」
「ピアノが取り出せなかったから、取り敢えずの間に合わせにこれやる」
と言って、徳部は奈那に電子キーボードを渡した。
「ありがと」
と言って奈那は徳部の手の甲にキスをしてあげたが、徳部は照れていた。
 
徳部は奈那の家のそばに貯水タンクを設置し、お弁当の琥珀にはここからポリタンクで水を運んだ。ポリタンクは買い増して8個使用した。また奈那の家ではお風呂も使えるようになった。御近所でも希望する人の所には貯水タンクを設置した。(水道が復旧した時はここに水道管をつないでもらった)
 

↓↑BottomTop

↓↑BottomTop

前頁次頁目次

[*前p 0目次 #次p]
1  2  3  4  5  6  7  8  9 10 11 12 
春シン(1)