【竹取物語2022】(5)阿倍御主人の場合

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阿倍御主人の場合。
 
看板係(麻生ルミナ)が赤い服を着て「3年前」と書かれたプラカードを掲げる。
 
語り手「右大臣・阿倍御主人(あべのみうし (*106))(松田理史)は、中国にあるという火鼠の皮衣を所望されました」
 
語り手「御主人はその年、ちょうど中国から来ていた貿易船の商人・王卿(おうけい (*107))という人に手紙を書きました」
 
手紙を持ったお使いの浅川という者(浦野俊徳)と交渉役の小野房守(津島啓太)(*111) が馬に乗って王卿(光山明剛:特別出演)の所に行く映像。王卿が御主人(みうし)の文(ふみ (*108))を読む所。
 
文(ふみ)はドラマ上では阿倍右大臣役の松田理史の声で朗読される。
 
「唐の国に火を点けても燃えない火鼠の皮衣(*110)というものがあると聞きます。それを買ってきて頂けないでしょぅか。このくらいあれば足りるかなと思われるお金を託します。部下の小野房守を唐国までお付けします」
 
それで小野房守が王卿に金(きん)100両(約4000万円)を託しました。
 
王卿は返事(かえしごと (*109))を書きます。(これは王卿役の光山明剛さんが朗読する)
 
「火鼠の皮衣というのは我が国(唐)にもありません。噂には聞いたことがありますが、見たことはありません。この世に存在するものであれば誰かが唐にも持ち込んでいるでしょう(恐らく実在しないと思う)。これはとても難しい買物です。しかしインドあたりにでも来ていたら、長者の家などに存在するかも知れません。とにかく探してみますが、どうしても手に入らなかったらお使いの方(小野房守)に返金いたします」
 
それでこの返事を持って、浅川は都に帰り、小野房守は王卿とともに唐に渡航しました。
 
映像は唐のジャンク船が出港していく所を映します(CG!)。
 

(*106) 右大臣・阿倍御主人の本来の読み方は“あべのみうし”である。しかし現行の多くの写本が“みむらし”に作り、一部“みあらし”に作るものもある。
 
これは度重なる転写の際の転写ミスと思われる。
 
まず元々日本語では「う」と「ん(む)」は交換可能で「うめ」「うま」は「むめ」「むま」とも書かれていた。そこで「みうし」が「みむし」と書かれた。ここに誰かが振り仮名を振って「む」の横に小さく「う」と書き、ここは「う」と読むのだぞと注記した。それが後に本文と誤解され「みむうし」になった。しかし「みむうし」というのが如何にも不自然なので、この「う」は「ら」の誤写だろうと思われて「みむらし」になってしまった!
 
現存の写本は最も古いものでも室町時代のもので原本が成立してから600年くらい経過している。これだけの時間があれば、少なく見ても20-30回は転写を重ねているはずで、転写ミスも結構起きているものと思われる。
 
それで今回のドラマでは本来の読み方である「みうし」を採用する。
 
なお「右大臣」を「左大臣」に作る本もあるが、これは完璧な誤写と思われる。史実の阿倍御主人は右大臣までしか出世してない。
 

(*107) 原文「わうけい」。この「わう」は王と考えられる。中国人にはよくある苗字である。「けい」の漢字が不明であるが、現行多くの現代語訳が「卿」または「慶」を使用しており、ここでは「王卿」と書いた。
 
この付近の解釈で王卿は来日していたのか唐に居たのか、小野房守は唐に渡ったのか日本に居たのかについて、色々な解釈がある。主な解釈としては
 
(1) 王卿は来日していて小野房守は日本国内で交渉した。小野房守はその後王卿と一緒に中国に渡った。入手後、小野房守が持ち帰った。
 
(2) 王卿は中国に居た。小野房守は渡唐して王卿と交渉した。王卿が入手して小野房守が持ち帰った。
 
(3) 王卿は中国に居た。小野房守は日本国内にいた。両者は行き来する交易船を通して手紙でやりとりした。
 
といったものがあり、他にも微妙なバリエーションがある。ここでは(1) の解釈に従った。ただ(1)にしても(2)にしても2-3年に及んだと思われる探索の期間、小野房守は中国で何をしていたのかというのは謎である。あるいは小野も探索に加わっていたか?
 
当時は日本と唐の間の往来は命懸け(現代の宇宙ロケットより死亡率が高い)なので、いったん帰国していて見付かったいう連絡で再渡唐したというのは考えにくい。
 

(*108) 阿倍御主人は中国語くらいできるだろうから中国語で手紙を書いた可能性が高いが、中国語の手紙を朗読しても日本のドラマでは視聴者が分からないので、この手紙も王卿の返事も日本語の草書で書いている。
 
阿倍右大臣からの手紙は、草書が上手な、藤原中臣さんが代筆してくれた。阿倍御主人を演じた松田理史も練習したのだが、合格点をもらえなかった。(アクアが個人的に理史に曰く「根本的に楷書から練習すべき」「ごめん」)
 
(*109) “返事”という単語は昔は“かへしごと(かえしごと)”と読んだ。音読みして“へんじ”と読むようになったのは後の時代である。この返事の文(日本語)は光山明剛さん自身がリアルタイムに草書で書いてくれたので、その書いている所も撮影・放送している。
 
(*110) この火を点けても燃えない“火鼠の皮衣”というのは、実際には石綿を織って作った布ではないかという説がある。だとすると、阿倍右大臣が所望されたものは、5つの難題の中で唯一実在するもので、それを所望した右大臣というのが、実はかぐや姫の意中の人であった可能性がある。
 

(*111) 衣裳を渡された時、津島啓太は、あまり見慣れない衣裳なので男物か女物か区別が付かず
 
「これ男役ですか?女役ですか?」
と尋ねた。
 
「男役のつもりだけど、女役に変更することは可能と思だう。女性衣裳着たい?」
「男役を希望します!」
というので無事男役を演じることができた。
 
「『黄金の流星』では意味無く女装させられたからなあ」
「津島君の女装可愛い!って評判だったのに」
「それ何度もやると、好きなんだろうと誤解されるから」
「女装なんて若いうちしかできないから、どんどんしておけばいいのに」
「自粛します」
 
(↑「遠慮」しますではなく「自粛」しますと言っている)
 
彼は『少年探偵団』にもう3年出ているが、その間に5回女装させられている。
 

語り手「帰国した王卿は、商人仲間、古い家柄の家など、あちこちに多数問い合わせましたが、そのようなものは見たことが無いという返事ばかりでした」
 
映像は王卿が他の商人(金沢哲夫)と話すところ、巨大な門構えの家に入り、多数の使用人が並ぶ廊下を進み、巨大なテーブルのむこうに座る人物(西城康晴)と話をするところ、また黄金の指輪、黄金の腕輪、黄金のピアスをしている人物(暁昴:あかつき・すばる)と話す所などが映ります。
 
暁昴「空を飛ぶ鼠という伝説の“風鼠の皮衣”なら持ってるんだけど」
 
(↑「それってモモンガか何かということは?」というツッコミ多数)
 
王卿「それも素晴らしいと思いますが、求めているものとは異なります」
 
(漢服を着て巨大な家に並んでいた使用人は、ムーランリゾートのスタッフで、この部分は郷愁村で撮影している)
 

語り手「しかし3年ほどかけて探索するうちに、昔インドの高僧が中国に来た時に持って来たものが西の山寺にあるという情報を得て、そこに行き、譲ってくれるように交渉しました」
 
映像は、王卿と小野が馬で遙か遠い道を歩む様。そして2人が山寺の僧(鳥山光太郎)(*112) と交渉している様子を映します。
 
語り手「寺宝なので譲れないと言われる所を頑張って交渉して何とか譲り受けることができました。それを持って小野房守(津島啓太)が帰国します」
 
映像は小野房守役の津島啓太がジャンク船の船縁(ふなべり)で、女性用漢服(*113) を着て団扇(うちわ)(*114) で扇いで涼を取っている様子。
 

(*112) 鳥山光太郎は、ΛΛテレビの編成局長で、鳥山渚プロデューサーの叔父でもある。厳しい日程で大作の制作をしているので心配して様子を見に来た所を徴用した!
 
「立っている者は社長でも使え」
というのがΛΛテレビの社風である!?
 

(*113) 結局女装することになった!女性用漢服というのは、日本の振袖に似た服で、そのルーツと言われる。最近中国で復活してきている。琉球の伝統的女性用衣服(琉服ではない)が漢服に近い。いわゆるチャイナドレスとは全く違う。あれは清(しん)を作った北方民族の服である。
 
津島啓太は
 
「きれいなものですねー」
と言って見ていたら
 
「よし着てもらおう」
と言われて着せられ、唐風の化粧までされた。
 
(*114) 団扇(うちわ)は隋で生まれて周辺諸国に広がった。基本的に中国は団扇文化である。西遊記にも多く出てくる。折りたたみ式の扇子(せんす)は、起原がはっきりしないが、ひょっとしたら日本生まれかもしれない。
 

語り手「小野房守は博多港に帰国すると、早馬を調達し、拠点拠点で馬を交換しながら走って、わずか7日で都(平城京)まで戻ってきました(*116). 王卿の手紙を持っています」
 
小野が言いました。
「王殿の手紙にも書かれていますが、昔インドの高僧が持って来たというものが西の山寺にあったのです。王殿が何ヶ月も掛けて交渉し、最後は政府の高官まで動かしてやっと買い取りました。それで費用が思いのほか掛かったのであと50両(2000万円) 頂きたいとのことなのですが」
 
「分かった。王殿の船の者に託せばいいかな」
「はい。そうしてくださいとのことでした」
 
それで小野房守が2〜3日休んだ後、それを持って再度博多まで行くことにします。阿倍右大臣は唐のほうに向かって深々と拝礼しました。
 
さて、小野房守が持ち帰った“火鼠の皮衣”ですが、まず入っている箱からして立派です。美しく彩色されており、瑠璃(ラピスラズリ)などまで使われています。ふたを開けて中を見ますと皮衣は美しい紺青色で端には金色に輝く部分もあります。
 
「これは素晴らしいものだ」
と大臣も感動します。そして身支度を調え、念入りにお化粧などもしてかぐや姫の所に出掛けることにします。家人(けにん)(高柳智巳(*115))には
 
「今夜は帰らないと思うから」
などと告げます。
 
それで従者(湯元信康)と女房(長浜夢夜)に護衛(織原青治)を連れてかぐや姫の家に出掛けました。
 
(*115) 高柳智巳は、§§ミュージックの映画担当係長。早い話が§§ミュージックと大和映像・ΛΛテレビの連絡役(パシリとも言う)。男役が足りないので徴用された。元##放送の記者だが、今回他局のドラマに出ることになった。さすがカメラ慣れしていて自然な演技であった。
 

(*116) この経緯なのだが、原文ではこのように説明されている。
 
「小野房守まうで來てまうのぼるといふことを聞きて、あゆみとうする馬をもちて走らせ迎へさせ給ふ時に、馬に乘りて筑紫よりたゞ七日に上りまうできたる」
 
つまり、小野房守から日本の港に到着したので今から都に帰りますという連絡があったので足の速い馬を迎えに行かせ、その馬に乗って7日で都まで戻った。
 
この説明はおかしい。電話や電報の無い時代である。小野房守からの連絡は手紙に書いて人が運ぶ。だったら、そのお使いが都に到達する時間で、小野房守本人が都に戻ってこれるはずである!
 
また「足の速い馬を迎えに行かせた」というが、馬というのは基本的に短距離選手であって、長い時間走り続けることはできないものである。だから物凄く早い馬を500kmの彼方から派遣しているより、筑紫から普通に速い馬を調達して、むしろ拠点拠点で馬を交換しながら旅をしたほうが早く到達できる。右大臣の名前を使えば途中での馬の調達は充分できたはずである。
 
このくだりを書いた人物は、馬の特性というものが分かっていないし、小野の手紙を持たせたお使いの移動に掛かる日数を見落としているのではないかと思う。
 
そこでこの下りについては、原文通りでは不合理なので、合理的に小野房守が早く都に戻れるように馬を交換しながら走ったことにした。
 
筑紫の港というのは博多港(那の津港)と思われる。
 
ついでに言うと、この方法を採れば当時筑紫から都までは多分5日程度で到達できたと思う。延喜式に書かれている都から長門までの旅費支給基準日数が11日なので、筑紫まではもう少し掛かるが、人間が普通に歩いて13-14日として、馬を使えばその半分以下の時間で辿り着けたはずである。
 
ちなみに、昔の船は人間より遅いし、当時は瀬戸内海航路が無かった。この時代の船は鳴門や来島海峡を通過できない。九州へ船で行く場合は、福井まで歩いて出て(この途中の椿坂峠を越える時に行き倒れて死者が出る)日本海航路の船に乗るか、逆に四国南岸を進む。どっちみちまっすぐ歩くよりずっと遅い。
 

さて、かぐや姫の家に来た阿倍御主人は、火鼠の皮衣を調達したことを告げ、歌を書きました。
 
「かぎりなきおもひに燒けぬ皮衣、袂(たもと)かわきて今日こそは着め」(*117)
 
(*117) 「あなたへの思いで私の心が焼ける」というので「ひ(火)で焼ける」を掛けている。入手したので涙を流して濡れていた袂も乾いたと言って、その「乾いた」が火であぶって乾いたというのを連想させる。
 
「かわきて」は「乾きて」だが「皮着て」を連想させる。掛詞の多い歌である。ダジャレ好き?
 
「今日こそは着め」の「こそ・・・め」は係り結び!(「今こそ別れめ」と同様)服を着るというのが性交渉を連想させる。かなりあからさまに「やらせろ」と言ってる。
 

大臣と連れをまずは応接室に招き入れ、取次ぎの紫(広瀬みづほ)がその歌を持って行って、かぐや姫(アクア)に見せます。かぐや姫は赤・青など派手な色を使った服を着ています。
 
竹取翁(藤原中臣)はかぐや姫に言いました。
 
「大臣殿が唐の国まで使者をやり求めさせた皮衣です。これを本物だと思って今度こそ結婚なさい」(*118)
 
竹取媼(入江光江)も
「いつまでも結婚しない訳にはいきません。右大臣はとても立派な人です。今度こそ結婚なさい」
と言いますが、かぐや姫は返事をしません。
 

ともかくも、竹取翁は大臣たちをかぐや姫の部屋に通しました。
 
(この先のシーンは早幡そらを使って撮影している、アクアは撮影に参加していない。帳台というのはとても便利なものである)
 
阿倍右大臣(松田理史)が
「中国の西部のお寺にあったものを譲ってもらったのですよ」
と言って箱を開けて、御簾(みす)の中にいるかぐや姫にも見えるようにしました。
 
「とても素敵な皮衣ですね。確かに立派なものではありますが、本当に火鼠の皮衣なのでしょうか。本物なら火に投じても燃えないはずですね。火に投じてみせてもらえませんか」
と、かぐや姫は言いました。
 
「この皮衣は唐の国にも無かったものをかろうじて求めた物です。何の疑いもありません。火に投じてみましょう」
と大臣は笑顔で言って、姫の部屋の庭で従者(湯元信康)に命じて火を起こさせます。そして大臣自ら、皮衣を火に投じてみせました。
 
皮衣はめらめらと焼けてしまいました。
 
★音楽:常滑舞音『ねずみの火遊び火事の元』
 

「あなや!」
と大臣付の女房(長浜夢夜)が悲鳴を挙げます。
 
「ばかな」
と言って大臣の従者(湯元信康)は青くなっています。
 
右大臣(松田理史)は青くなって今にも倒れんばかりです。
護衛(織原青治)がさっとおそばに寄りました。
 
竹取翁・媼、かぐや姫の女房のうち紫・桜・橘は
「ああ」
と嘆くような声をあげます。松と竹はこの後、不測の事態が起きた場合に備えていつでも動ける態勢です。桃は無言ですが、厳しい顔をして、御簾の真ん前に座って万一の場合はかぐや姫の楯になる態勢です。
 
かぐや姫は、まるでこの結果を予想していたかのように
「残念。本物ではなかったようですね」
 
と言って返歌を書き、紫を呼んで大臣の従者に渡させました。
 
「名残り無く燃ゆと知りせば皮衣思ひの外に置きて見ましを」(*119)
 

(*118) こんなことを言っている翁はこの皮衣が本物ではあるまいと最初から思っていたということ。
 
この付近の翁・媼の言動を見ると、阿倍右大臣が皮衣を持って来たのは、かぐや姫が難題を出したあと4年くらい経っていたのかもしれない。ともかくも阿倍右大臣が姫の求めた物を持ってきた最後の人なのである。残り2人はリタイアしている。
 
姫が求めるアイテムを持って来た3人のアイテムはいづれも偽物だった訳だが各々の行動は全く違う。
 
石作皇子:適当なもので誤魔化そうとした(問題外)
車持皇子:言われた通りの物を作った(詐欺)
阿倍大臣:所有者も購入者も本物と信じていた(善意の第三者)
 
(*119) 「思ひの外に置きて見ましを」知っていれば火にくべようとも思わず単に置いて鑑賞していた、という意味と“思ひ”の“ひ”に“火”を掛けて「火の外に置いて」見ていたのに、という意味を掛けている。大臣が使ったのと同じ掛詞で返歌している。
 

語り手「阿倍右大臣はショックを受けて、かぐや姫の返歌を読むこともなく、家に帰りましたが、かぐや姫と結婚するので今夜は泊まってくると聞いていた家人たちは驚きました」
 
(古代の結婚では女性の家に3日泊まることで婚儀は成立する。婚儀が成立したところで女の家で小餅を3個用意し、男性はこれを食べる。
ただしこの付近の“順序”は色々バリエーションもある。結婚式の描写は『落窪物語』が詳しい)
 

小野房守(津島啓太)は追加の代金を払っていいかどうか右大臣(松田理史)に確認しましたが
 
「いや王卿殿にもそなたにも苦労を掛けた。代金はちゃんと払ってきなさい」
 
と言ったので、小野房守は50両と、大臣からの丁寧な感謝の手紙を持って博多まで行きました。
 
またかぐや姫に手紙を書きました。
 
「本物で無かったようで申し訳無かった。あたなのことは今でも好きだが、言われたことを達成できなかったので、いったん引くことにします。でもあなたを諦めたわけではありません」
と書いて送りました。
 
かぐや姫は返信しませんでした。
 
同じ返事しないのでも石作皇子とはかなり意味が違います。石作皇子は問題外なので返信しない。阿倍右大臣は明確にノーとは言わず余韻を残すために返事をしない。
 
語り手「人々は大臣が中国の西まで探しに行かせたものが本物でなかったことを噂しました。これ以降、目的を遂げることができなかったことを「あへなし」というようになったとのことです」
 
 
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