【竹取物語2022】(3)車持皇子の場合(前編)
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車持皇子の場合(前編)。
看板係(麻生ルミナ)が白い服を着て「3年前」と書かれたプラカードを掲げる。
語り手「車持皇子(くらもちのみこ:キャロル前田)はかぐや姫から“東の海の蓬莱という山にある、銀を根とし金を茎とし白玉(真珠) を実として立つ木の枝”を所望されました。皇子は『そんなもの造ればよいではないか』と考えました」
「それで皇子は朝廷には『筑紫(つくし)の国に行き、温泉(*50)で湯治をして参ります』と言い、かぐや姫の家には『玉の枝を取りに行ってきます』という文を持たせました。かぐや姫は、石作皇子の時と同様『無理しないで下さいね。ダメだと思ったら帰って来て下さい』と言伝(ことづて)させました」
映像は車持皇子(くらもちのみこ)が少数の供・船員たちと一緒に難波の港から出港する所、それを多数の人々が見送る所を映します。
車持皇子の供
道田 立山煌
旅村 鈴原さくら
坂口 夢島きらら
船頭 広瀬のぞみ(広瀬みづほの兄)
水夫 WADOの4人(男装)
見送る人々 (ノンクレジット:§§ミュージック・システム部のメンバー)
(*50) 原文“つくしの国にゆあみにまからん”。筑紫(つくし)国は現在の福岡県西部である。後に北部の筑前(博多など)と南部の筑後(久留米など)に分割された。この地域にある古湯としては、次田温泉(現在の二日市(ふつかいち)温泉)が考えられる。太宰府政庁の役人などが多く利用したと言われ、菅原道真の足跡なども残る。
この温泉の初出は万葉集6-961 にある大伴旅人(おおとものたびと)の歌である。
大伴旅人、次田(すきた)の出湯(いでゆ)に泊って鶴の声を聞いて作った歌
湯の原に鳴く丹頂鶴(あしたづ)は我が如く、妹(いも)に恋ふれや時分かず鳴く
(河出書房新社・万葉集より)
竹取物語の時代は大伴旅人より後である。ただし実は竹取物語の登場人物・大伴御行(みゆき)は大伴旅人の伯父である!
大伴旅人(665-731)は太宰府に赴任していた時(728-730)に奧さんを亡くしていて、それから遠くない時期に詠んだ歌と思われる。60歳を超えてからの地方赴任は異例だが、これには左遷説とエース投入説の両説がある。赴任終了後は政権の中核に入り、大納言に昇進している。
なお「つくしの国」をもっと広く“九州”の意味に解せば、二日市温泉よりずっと古く神功皇后の時代と言われる武雄温泉(佐賀県)もある。現代では有名な別府温泉(大分県)は平安時代になってから開発された新しい温泉である。
語り手「車持皇子の船は実際には3日目の夜に密かに難波の港に戻りました。そして、皇子とお供3人の内2人が下船します」
皇子は船に残る部下・旅村(鈴原さくら)に命じました。
「お前は彼杵(そのぎ)(*52) まで行ってできるだけ大粒の真珠を買い集めるよう」
と言って大量の黄金を渡します。
「分かりました。頑張ります」
「あ、そうそう。私の部下だということがバレないように、お前、女の格好をしておくように」
「え〜〜!?」
それで船は出港して行きました。
また皇子は一緒に下船した道田(立山煌)に命じます。
「お前は私が持つ荘園(私有地)の財産を処分して、米や絹は金(きん)に交換してできるだけたくさんの黄金を調達してくれ(*51)」
「分かりました」
それで道田は皇子の委任状を持ち、皇子の荘園が多数ある東北に向かいました。
(*51) 原文「しらせ給ひたる限り十六そをかみにくとをあけ(げ)て」。
竹取物語原文の中で最高に難解な箇所。読み方・解釈に定説が無い。どう解釈しても無理がある。ここでは「管理している限りの16所(そ)の(荘園の)管理者に命じて蔵を開けさせて」と解釈した。この後に実は脱落文があったのではとも言われる。
(*52) 彼杵(そのぎ)とは九州西部の大村湾を取り囲む地域のこと。大村湾では古くより良質の真珠が産出しており、景行天皇がそこから「具足玉国(そないたまのくに)」と呼んだので、それが訛って「そのぎ」になったという説が肥前国風土記に書かれている(ちょっと苦しい気がする)。
当初彼杵郡が置かれていたが、後に西彼杵郡(西彼杵半島)と東彼杵郡(本土側)に分割された。
現在でも大村湾は(養殖による)真珠の大産地のひとつである。
語り手「皇子は残る1人の従者・坂口(夢島きらら)を連れて、生駒の山奥に入ります。そして、用意させておいた山小屋に入りました。周囲を三重に囲って部外者が侵入できないようにしています。ここに7人の宝飾職人を集めており、かぐや姫が言ったような、銀の根・金の茎・白玉の実の木の枝を造らせようというのです」
★音楽:キャロル前田とアドベンチャー『山の鍛冶屋』(『村の鍛冶屋』の替え歌)
職人(*53)
スーザン高橋・メリー川本・ジェーン佐藤(以上アドベンチャー)
ハワイ竹田・タヒチ永田・パラオ渡辺・サモア高田(以上パシフィック)
(*53) 原作では職人は6人だが、ここは出演者の都合で7人になった。パシフィックは、“キャロル前田とアドベンチャー”と仲の良いヴィジュアル系バンドである。7人全員がお化粧をして映っているので、放送時「職人たちの性別がよく分からん」と言われた。
「私は何をすればいいですか?」
と坂口(夢島きらら)が尋ねます。
「ここは山の中だからイノシシとかが出る。それを駆除してくれ」
「あはは、はい」
「だからいちばん戦闘力のありそうなお前に、ここに来てもらった」
「確かに旅村とかは女の服を着せて女房にしてあげたほうがいいくらいですよ」
「あとは食料の調達だな」
「はい。米とか麦とか酒とか買ってくればいいですか?」
「玉の枝ができあがるまでは五穀断ち(*54)するから」
「は?」
「米・麦・粟・稗・豆は食べない。もちろん肉・魚も断つ。酒など言語道断」
「何を食べるんですか〜?」
「主に野菜だな」
「腹がふくれませんよ」
「そういう状態で頑張るのだ。だからお前野菜を育ててくれ」
「分かりました」
「育てるだけでは足りないから市場で買ってきてくれ」
「足りないでしょうね、野菜だけならたくさん食べないと身体が持ちませんよ」
「買い出しの時、私の部下だというのが分かると困るから、女の服を着るように」
「私が女の服を着るんですか〜〜?」
それで女の服を着た坂口(夢島きらら)が山小屋から出て行くところが映像に映ります。
(「きららちゃん、ぼくの女装は観賞に値しないと言ってるけど結構可愛いじゃん」という視聴者の声)
(*54) 「五穀断ち」で何を断つかは時代によって異なるが基本的には穀物を取らない。むろん肉や魚も食べない。豆を断つから豆腐・味噌・醤油もNG。主に、木の実、野菜、草などを食べる。蕎麦(そば)は許容された時代もある。
でもきっと皇子と従者は別棟で駆除したイノシシ食ってる。
看板係(麻生ルミナ)が「半月後・彼杵(そのぎ)」と書かれたプラカードを掲げる。
女の旅装束を着た旅村(鈴原さくら)が現地の真珠採りの親方(西宮ネオン)と話しています。
★音楽:薬王みなみ『西海の真珠』
「とにかく金に糸目は付けませんから、大粒で白い真珠がほしいのです」
「その手の玉はかなり予約されてるからなあ。でも可能な範囲で分けてあげますよ」
「よろしくお願いします」
語り手「旅村は大きな真珠はじっと見てて数日以内に上がるようなものでもないので、どこか近くで待機していて下さいと言われ、近くの武雄温泉で待機することにしました」
映像は人を頼んで滞在用の小さな小屋を造ってもらう所(大工さんはムーラン建設の技師さんたち)、そして温泉に入りに行く所を映します。
旅村は何気なく男湯のほうに入ろうとしました。
従業員さん(篠原倉光)が飛んできます。
「お客さん、ここ男用!女の人は向こうの女用に入って」
それで女用脱衣室の前まで誘導されてしまった旅村が呟きます。
「ぼくまさか女湯に入らないといけないの〜?」
視聴者の声
「で、この後、どうしたの〜〜?」
「素直に女湯に入ったのでは?」
「さくらちゃんなら男装してても女湯に誘導されると思う」
「さくらちゃんなら女湯に入ってても誰も不審に思わない」
場面が変わる。
道田(立山煌)が男(畑野秋美(*55))に書類を渡し、蔵から黄金を運び出させている映像が映ります。
(*55) 畑野秋美は、演歌歌手・山折大二郎の弟。実は保育士をしていて、あけぼのテレビ内の託児所に勤めている。通りがかりを徴用した!
場面が変わる。
職人たちが金の塊を槌(つち)で叩いています。これでのばして枝状にするのです。鞴(ふいご)で風を吹き込み金属を融かしている者もあります。
途中までできている金の枝も見えます。
場面が変わる。
★音楽:薬王みなみ『西海の真珠』(*56)
真珠採りの親方(西宮ネオン)が女物の服を着ている旅村(鈴原さくら)に大粒の真珠を渡します。旅村は金の延べ板を渡し、ふたりは握手します。
(*56) 実はこの真珠を受け取るシーンの前に海女に扮する Pumpkin Coach のメンバーが海底から真珠を採ってくるシーンがあったのだが、本放送ではカットされた!!
Pumpkin Coach の公式アカウントから
「今度のアクアちゃんのドラマに出ます。頑張って潜水の練習しました」
と発信していたのにカットされていたので
「うっそー!?」
という悲鳴があがっていた。このシーンは1週間後の再放送で復活して、ファンから歓声が上がった。
(鳥山プロデューサーが事務所まで謝罪に行った。アクアも「何か手違いでカットされちゃったみたいでごめんねー。せっかく頑張ってくれたのに」というコメントを発信していた。実態はテレビ局のスタッフが、有名?タレントとは認識していなかったので、尺が苦しいからカットしたのである)
場面が変わる。
旅村が温泉に浸かっています。旅村は近くで浸かっているおばちゃん数人と言葉を交わしています。
(視聴者の声:「やはりさくらちゃん女湯だよねー」)
ところが、旅村が声を掛けられて振り向くとそこにはおじいさんが2人やはりお湯に浸かっています。旅村は彼らとも声を交わします。
旅村が小さい声で呟きます。
「中の湯が男女共通なら、脱衣場を男女で分ける意味って何?」
(視聴者の声:「そういうオチかよ!?」)(*57)
(テレビ局のコメント:このシーンは武雄温泉の旅館の湯を貸切りにして地元の方たちに出演して頂きました。ちなみに全員水着を着けて撮影しています)
(*57) 日本以外の国の温泉は一般に水着を着けて入浴するので、プール同様、更衣室だけ男女に分かれていて中は男女共通である。
ちなみにさくらは共演してくれた地元のおばちゃん・おじいちゃんたちに「美人の女優さんだねー」と言われた:女顔・女声だしバストもあれば女優と思われるのは当然。
看板係(麻生ルミナ)が「車持皇子が山に籠もってから3年後」と書かれたプラカードを掲げる。
語り手「山小屋での作業は千日に及びました」
カメラは山小屋の中で出来上がった美しい玉の枝を映しています。金の枝に多数の大粒真珠の実がなっています(*58)。周囲で7人の職人たちが伸びています。みんなこれを作るのに疲れ果ててしまったのです。
車持皇子(キャロル前田)は部下の3人(立山煌・鈴原さくら・夢島きらら)を起こしました。4人で金の枝を毛氈(もうせん:フェルト)(*59)を敷いた長櫃(ながひつ)の中に納めます。そして4人で長櫃を馬の背に乗せました。
(*58) 撮影に使用したものは、真鍮で形を作ったものに金メッキ・銀メッキを施した。真珠は上質の貝パール(人工パール)9mm玉(磨き加工したもの)である。普通の人の目には本物の真珠と区別が付かない。制作には1ヶ月を要し、番組放送後は、テレビ局の展示室で公開された。
(*59) フェルトはモンゴルの特産品で当時は大陸からの輸入品である。この頃はとても貴重で高価なものであるが、皇子クラスの人であれば入手できたかも?
皇子は道田に
「お前は都の私の家に行き、私が戻って来たと言って難波の港まで迎えに来るように言え」
と指示します。
「分かりました」
「その後で“車持皇子が優曇華の花を取ってきた”と都の人たちに言いふらせ」
「分かりました」
それで道田(立山煌)が出て行きます。
皇子は残りの2人に言います。
「夜が明けるまでに難波まで行くぞ」
「はい」
「私が山の中に居るのを見られたらまずいから私は女の服を着る」
「なるほどですね」
「だからお前たちも女の服を着なさい」
「え〜!?」
それで女装の皇子・旅村・坂口の3人が山小屋を出て3頭の馬で難波の港まで降りて行きます。
「でも職人たちは起こさなくてよかったんですか」
「くたくたに疲れていたようだったから。取り敢えず寝せておこう。かぐや姫と結婚してから褒美をやろう」
皇子たちは明け方近くに難波の港に着き、長櫃を降ろします。そして、皇子は男装に戻りましたが、旅村と坂口が男装に戻る前に、皇子の家の家人・家来(*61)たちが到着してしまいました(*63).
長櫃は荷車に乗せられ、皇子は輿(こし)に乗り、旅村と坂口は仕方ないので女装のまま輿と荷車を先導して都に向かいます。一方で家人(けにん)たちに皇子の到着を報せた道田は都を走り回って叫びました。
「車持皇子(くらもちのみこ)が戻られたぞ」
「車持皇子は優曇華(うどんげ)(*60)の花を持ち帰った」
(*60) “玉の枝”と言及されていたものがここでは唐突に“優曇華(うどんげ)の花”と表現されている。ただ竹取物語の原形を伝えると想像されている今昔物語の『竹取翁見付女児養語』では求婚者たちに要求されたもののひとつが優曇華の花なので、あるいは原形となった物語をリライトしていて、ここだけうっかり元の形が残存したものか?
ちなみに本来の“優曇華の花”とは、3000年に一度花が咲くもので、その時に金輪王(4人の転輪王の内の最高の王)が現世に出現するという。金輪王が現れるのは世の中に徳が満ちあふれている時である。
(*61) 家人(けにん)とはその家に仕えている使用人(個人契約)。これに対して家来(けらい)とは代々その家に仕えている人(家と家の契約)。家人が息子を同じ家に雇ってもらって家来化していくことも充分あり得る。何代にもわたって栄えている家には家来が増えて行く。
なお家人・家来とよく混同される随身とは、高級貴族に朝廷から派遣されている従者。SPのようなものである。公務員のはずが、実際にはその家の結構プライベートなことにも関わる(*62)。また随身をしていた者の息子が父の後任になることもあるので、家来と似たような状態になっていくこともある。ただし随身のお給料は朝廷から出る。
“随身”は平安時代以降の名称でこの時代は舎人(とねり)と呼ばれていた。この物語でも後のほうで登場する。
(*62) 佐藤栄作首相の奧さんは、魚を干すのをSPに手伝わせて、後で問題になった!(私用に使ったことを責めるべきか、総理の奧さんが庶民的なのを感心すべきか)
(*63) 家人・家来を演じたのはこれも§§ミュージック・システム部のメンバー。実は出港のシーンに続いて撮影している。彼らは勤務時間内の業務扱いでギャラは無しである。通常の仕事にしておかないと、事故などがあった時の労災の問題がある。
でもコスモス社長が個人で全員にQUOカードを配っていた。
(いったんがっかりさせてから喜ばせる作戦)
車持皇子が玉の枝を持って戻って来たという噂を聞いたかぐや姫(アクア)は青ざめました。
「まさか本当に持ち帰るとは」
翁と媼が言います。
「車持皇子(くらもちのみこ)様、頑張りましたね」
「でもよくご無事でご帰還なさいました」
「かぐや姫や、ここまでしてくださった方であれば文句あるまい。結婚しなさい」
かぐや姫(アクア)は一瞬躊躇しますが、唇を噛みしめて答えます。
「分かりました。そこまで尽くして下さる方なら私も結婚します。婚礼の準備をお願いします」
「よし」
それで、藤(花園裕紀)が指示して、お酒や食べ物の調達をさせる一方で床の準備などもさせます。
やがて車持皇子の車が、かぐや姫の家に到着します。竹取翁・媼が正装で皇子をお出迎えします。
★音楽:キャロル前田とアドベンチャー『金銀パールをプレゼント』
「命を捨てて、玉の枝を取ってきました」
と皇子が言います。
「よくご無事でお帰りなさいました。取り敢えずご休憩下さい」
と言って、皇子を応接間に入れます。
玉の枝は荷車に乗せたまま、女房装束の旅村と坂口が先導して、かぐや姫の部屋の前の庭へ運びました。
かぐや姫は帳台の中におり、そばに2人の女童(めのわらわ)桜(入瀬ホルン)と橘(入瀬コルネ)が控えています。部屋には女房が1人・桃(川泉パフェ)が居るだけですが、入口の左右に強そうな女房が2人・松(夕波もえこ)と竹(川泉スピン)が武装して控えています。
旅村と坂口が長櫃を開けます。
「まあ何て素敵なものなのでしょう」
と桃(川泉パフェ)が声を挙げました。
玉の枝に文(ふみ)が結び着けてあります。桃と旅村が視線を交わし、桃がその文を取って、御簾の中に居るかぐや姫に渡しました。
《いたづらに身はなしつとも玉の枝を手折らでただに帰らざらまし》
かぐや姫は「できの悪い歌だなあ。あまりにも下手糞で返歌が書けない」と思いました。取り敢えず実物を見てみようと思います。桃に御簾を揚げさせると、縁側まで出て来ました。
灰色の服を着たかぐや姫の姿を見た旅村と坂口は、あまりの美しさに驚きました。こんなに美しい姫君の前では嘘など言ってはいけない気がしました。思わずこれが造り物であることを告白したい気分になりましたが、必死でそれをこらえました。
かぐや姫は玉の枝を間近で見たもののも何だか“びみょー”な気がしました。豪華ではあるのですが気品(きひん)がありません。蓬莱まで行ったのはいいが、雑草でも持って来たのではという気がします。
「お供の方も大変でしたね。取り敢えず縁側にでも腰掛けて下さい。桜、橘、この女房(にょうぼう)衣裳を着けておられる従者(ずさ)の方々に麦湯(*64) とお菓子でも差し上げて」
「はい」
と桜(入瀬ホルン)と橘(入瀬コルネ)は返事をし部屋を出て行きました。
旅村と坂口は「性別がバレてる〜」と思いましたが、取り敢えず言われた通り縁側に腰掛けました。
かぐや姫はいったん帳台に戻りました。桃が御簾を降ろします。
(*64) この時代にはまだ“お茶”は無いが“麦湯”(現代で言う麦茶)はあった。ただし当時は冷蔵庫が無い!ので、麦湯は温かい飲み物である。“麦茶”という言葉は1963年に常陸屋本舗が売り出した商品名(江戸麦茶)だが、その後、一般名詞化した。
お茶が日本に入ってきたのは9世紀である。
一方、応接室に入った車持皇子に、翁はお酒を勧め、紫(広瀬みづほ)がお菓子や果物を持って来ます。
(藤(花園裕紀)は婚礼の準備で走り回っている。お店の方からも手伝いを何人か呼んでいる)
翁(藤原中臣)が皇子(キャロル前田)に尋ねます。
「ほんとにご無事でよかった。あの玉の枝はどういう所にあったんですか?」
「3年前(*65)の2月10日に難波の港を出港しました」
語り手「車持皇子(くらもちのみこ)は竹取翁に、玉の枝を取ってくるまでの話を始めました」
映像は、竹取翁と車持皇子が土師器(はじき)の盃(さかずき)でお酒を酌み交わしながら話をしているシーンから、クロスフェイドして、皇子の乗る船が難波港に停泊している様を映します。
(*65) 原文「さおと々しの如月の十日頃に」。“さおととし(一昨昨年)”とはあまり聞かない表現だが、一昨年(おととし)の1年前のこと。“あさって(明後日)”の翌日を“さあさって”(*66)と言うのと同様の表現だろう。古い表現かと思ったら、夏目漱石も使っている。
「本校儀も御承知の通り一昨々年以来二三野心家の為めに妨げられ」(吾輩は猫である)
(*66) 「あさって」の翌日は「しあさって」と言う人と「さあさって」と言う人がある。「さあさって」と言う人は「さあさって」の翌日を「しあさって」と言うので、日付を確認して約束するのが無難。
映像では、体格の良い男たちが船に多数の酒樽や食料の箱(*69) などを積み込む様子、 そして車持皇子(くらもちのみこ)が船(*68) に乗りこみ、水夫(かこ)たちが艪(ろ)を漕いで港を出ていく所。
積み込みの作業をしたのは車持皇子の配下の者たち(千葉金玉プロレスの人たち)で船には乗船しません。
船頭は広瀬のぞみ(*67) で、水夫(かこ)はWADOの4人(男装)です。これに車持皇子のお供の、旅村(鈴原さくら)・坂口(夢島きらら)が同乗しています。
(*67) 広瀬のぞみ、は広瀬みづほの兄。本名・藤弥日古(ふじ・やひこ)。“やひ・こ”ではなく“や・ひこ”で男名前である。花ちゃんが(多分ジョークで)「性転換手術受けて女の子になって、信濃町ガールズに入らない?」と訊いたら
「どうしよう?」
などと迷うように答えたので今回
「別に今すぐ性転換手術まで受けなくていいからドラマに出ない?男役が足りないんだよ」
と言って東京に呼び出した。
実際彼は優しい雰囲気の美男子で、女装させたら可愛くなりそうであった。
「撮影が終わった後、無料で性転換手術受けさせてあげようか?」
「(5秒考えてから)“今回は”遠慮します」
(*68) この船は見た目だけの準構造船(古墳時代から平安時代頃まで使用された和船)を作り、ブルーバックの前に設置したものである。船には甲板しかなく、甲板から階段を降りたところはただの椅子が並べられた待合室である!
昨年のシンドルの船のようにまともには作ってないので制作費は700万円で済んでいる。嵐の状態の撮影ではカメラを傾ける!
この船は車持皇子の船、大伴大納言の船の両方の撮影に使用するが、同じ船に見えないように、色付きのライトを当てている。また帆を2色セット用意した。
この船には、2枚の帆、船首・船尾のほか左右にも2本ずつの艪(ろ)が取付けられているほか車櫂(オール)も取り付けられるようになっている。
また船の甲板中央には部屋のようなものが作られており、雨が降っている時はこの中で雨を凌ぐことができる。またこの部屋の上に椅子のようなものが作られていて、そこが船頭席になっている。ここで進行方向を見張り、岩礁の回避をしたり島を見付けたら寄せたりする。
この船の水夫(かこ)は船頭以外に4〜6人で、通常は4(6)人の内3(5)人が必要な位置の艪に就く。非常時(後述)には4(6)人が車櫂(オール)を漕ぐ。
帆はこの当時としては新しい形式の帆であり、1本の帆柱(マスト)に帆桁(ヤード)無しで、最初から四角い帆をぶら下げたものである(他国には見ない日本独自の形式)。この四角い帆は多数の棒を並べ、その上に筵(むしろ)を縫い付けたものである(木綿布が使われるようになったのは江戸時代から)。
古い時代には両舷に帆柱を立ててその間に帆を張っていたが、1本柱にしたことで帆の向きを変えることが可能になり、画期的に航行能力が向上した。また帆桁を使わずに独立型にしたことで、帆を降ろす作業も容易になったはずである。
帆は当然風がある時しか使えないし基本的に直進用なので、無風の時や入出港・細かい回り込みなどの時は艪(ろ)に頼ることになる。
また、日本で間切り走り(風上に向かって帆走する方法)が知られたのは江戸時代とするのが通説であるが、帆を回転できる構造にしたということは、その帆を横向き、つまり縦帆の状態にして間切り走りしていた可能性もあると筆者は想像する。
艪(ろ)というのは、東アジア固有の推進機構である。だから英語には艪(ろ)に相当する単語が存在しない。
原始的な船ではパドル(小櫂)を使用していた。これは手に持つ櫂(かい)で水を掻いて進むものであるが、力を使うわりにあまり進まない。その後、櫂を長く作り、途中を船に固定し、てこの原理で水を掻いて進むオール(車櫂)が発明されて船の推進能力は大幅に向上した(船を漕ぐ)。しかしオールも相当の筋力を使う。
艪(ろ)は一種のプロペラであり、水の中でこれを左右に振ることにより揚力が生まれて、それによって船を進ませることができる。パドルやオールと違って、これを操作する人は自分の筋力をほとんど消費しないので長時間操作を続けることができる。欧米人に比べて体格が貧弱な東アジア人にピッタリの推進機構だったのである。
ただし船尾のみに艪(ろ)を装着した船は前にしか進むことが出来ない。それで通常は船首にも艪(ろ)を取り付ける。これを逆艪(さかろ)という。源義経と梶原景時の逆艪論争などというのは有名であるが、本当に義経が「撤退は許されないから」逆艪を付けるなと言ったとしたら、義経は操船方法も知らない、愚かな素人としか思えない。
(だいたいこの論争が行われたとされる時に梶原は義経と別の場所にいた)
大きな船では左舷右舷にも多数の艪(ろ)を取り付け、多数の水夫(かこ)を配置して物凄い速度で航行できるようにする。後の戦国時代になると数十人の水夫(かこ)を乗せた船もあった。なお戦国時代の軍艦において水夫(かこ)は船を操るだけの人であり非戦闘員である。矢を仕掛ける側も水夫は狙わないのがマナーであった。
とても効率の良い艪(ろ)であるが、唯一そして最大の欠点が、荒れた海では使えない!という問題である。艪が揚力を生み出すためには水が安定していることが必要なので、嵐の中では艪は無力となる。
その時はオール(車櫂)だけが頼りである。
(*69) わりと最近まで航海中の水分というのはお酒で取っていた。昔の保存技術では、水はすぐに腐ってしまうためである。食料は干飯(ほしい)干し肉などを多数積む。また豆類や木の実なども持って行った可能性がある。また長期航海の経験のあるメンバーが居たら絶対、糠漬けの野菜も持って行ったはずである。貴重なビタミン補給ができる。(糠漬けは奈良時代にはあった)
干飯・干し肉などは1ヶ月程度で尽きるだろうが、豆や木の実は1〜2年もつので非常食となったであろう。
通常食としては、航海中に魚を釣って食料を自給していく必要がある。魚肉はもちろん食べるが、大事なのは魚の体液で、これは海水よりずっと塩分濃度が低いのでこれを飲むことで水分補給ができる。
漁は出来不出来があるので沢山釣れた時は塩漬けにして保存したものと思われる。塩漬けを作るための塩も持って行ったであろう。
またこのドラマで登場する船には原始的な蒸留水生成装置も備えていた。海水を汲んで数メートルの長さの箱に入れ須恵器の蓋をして日光で温め、傘を逆にしたようなもので小皿に水滴を集める。また雨が降った時はそれを可能な限り集めた。
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【竹取物語2022】(3)車持皇子の場合(前編)